霹靂、青天を救う



 ぬかった、と炭治郎は膝を折った。
 油断していたわけではない。侮っていたわけでもない。しかし、相手が一枚上手だっただけだ。
 

 鬼狩りに「いつも通りの」などというものはない。同じ鬼は一人としておらず、また同じ状況、同じ場所ということもない。
 ゆえに、鬼を狩るという行為は常に初見の戦なのだ。だからこそ、一時たりとも油断はできない。階級が上がれば上がるほど、鬼を斬るという行為に慣れてしまうものだが、竈門炭治郎という男は生来の真面目さゆえに、今日の討伐任務でも気を引き締めて挑んでいた。
 だというのに窮地に立たされたのは、相性という他ならない。より正確を期すならば、相手が相性の悪さを必ずつける、そういう鬼であったのだ。
 鬼は、強くなるにしたがって、血鬼術というものを使いこなす。その異能は鬼によって異なるため、対策を取るのはひどく難しい。
 ただし、すでに一度他の隊士が戦っている場合――そして敗北を喫した場合、情報が残されている場合がある。
 炭治郎が相手だった鬼は、既に二度も複数の隊士を退けている、そんな鬼であった。敗れ去った鬼殺隊士も、半数は生き残っているため、情報がないわけでもない。
 ただ、明らかに異能の鬼であるのは確かだったのだが、その血鬼術がどんなものなのかというのは要領を得なかった。ある者は自分の目の前で死んだ母が襲い掛かってきたと言い、ある者は恐ろしい犬の群れに襲われたと言い、あるものは飛来する血鬼術に当たったと思った瞬間、目が見えなくなったという。
 精神攻撃をする鬼というのは前例があるが、そういった類と断ずるにはどうにも異質だ。ただ、幻影や動物が襲ってくる前に、飛んできたという血鬼術が札の形をしていたことだけは判明している。
 ともあれ、これ以上犠牲者を出すまいと、ついには日柱竈門炭治郎が投入されることとなった。
 
 炭治郎はただ一人、鬼の根城と確認された山へと踏み込む。ほどなくして、彼の優れた鼻へ、鬼の匂いが届いた。追跡は容易く、鬼の姿を確認するのも又、早かった。
 辿り着いた場所は、朽ち果てた寺であり、そこに待ち構える相手は坊主の鬼だった。襤褸になった黒の袈裟を身に着け、木製の粗末な杖を左手に、右手は懐へと入れている。まるで今にも念仏でも唱えそうな様相だ。その肌の色まで黒一色であることをのぞけば。
 相手の鬼はこちらの接敵へ既に気付いており、油断なく構えているようにも見える。
「俺の名は竈門炭治郎だ。今から数多人を喰ったお前の首を斬る!」
 炭治郎の宣言にも、特に動じた様子は見せない。気配からも、かなり多く人を食べた強力な鬼であることは知れている。
 炭治郎は油断なく構え、一息に踏み込み、斬りかかる。相手の血鬼術が厄介であることは理解しており、できるならばそれを使われる前に倒してしまいたい。しかし鬼は、体術にも優れているようで、武術として完成された身のこなしで、炭治郎の斬撃を避け、あるいは持っている錫杖でいなした。
 しかし炭治郎も、すかさず距離を詰め間髪入れず斬りかかる。炭治郎の目にのみ見える「透き通る世界」には、坊主鬼が懐に入れた手が、何かを指に挟んでいる像をとらえた。柱としての勘が「それ」を懐から出させるべきでないと告げている。
「ヒノカミ神楽――炎舞」
 炭治郎の研ぎ澄まされた一撃が、坊主鬼の右手を斬り落とした。ごろりと転がった手の指には、やはり札らしきものが挟まれている。
 すかさず首を狙う炭治郎の太刀筋を、しかし坊主は残る左腕を犠牲に何とか避け、そのまま体を大きく逃がして後ろへと退避した。
 日柱は追撃しようと足を踏み出しかける、が、鬼の懐から何枚もの札が零れ落ち、両者の間に広がった。先ほどまでよりも更なる強烈な悪寒を感じ、とっさに炭治郎も札を避ける。あれに触れてはならない、と歴戦の勘が訴えているのだ。
 しかし坊主の方はそうでなないらしく、札をダン、と粗末な草履の底で踏みしめた。瞬間、閻魔のような姿をした巨大な大男が札から生えたではないか。明らかにこの世のものではない姿に、炭治郎は迷わずその巨体の首を斬る。閻魔もどきはなすすべもなく倒れ伏していくが、倒れ際に腕を振りはらうように暴れた。あちこちに札が舞い、炭治郎はもう一度後退を余儀なくされる。
 その間に、腕無しとなった坊主は森の奥へと逃げていく。炭治郎も札が舞う空間を避け、大回りでその後を追った。

 やがて追いついた先は、墓地であった。多くの苔むした墓石が乱立し、その合間合間に、真新しい墓石と卒塔婆が立っている。しかし驚くべきは、その墓石の根本とも言うべき部分に、横たわる人間の姿が多くあったことだ。多くの人間が死んでいるが、まだ息がある者もいる。墓石のあちこちに札がべたべたと貼られているせいで、炭治郎は彼らの匂いに気づけなかったのだ。
 炭治郎は瞬間、自分の不利を悟った。おそらくここに、誘い込まれたのだ。
 生きている人間が多くいるこの場では、炭治郎は今までのように自由に動けない。ただでさえ墓石が邪魔だというのに、生きている人間と死んでいる人間が混在している入り組んだ戦場だ。大技で踏み込んだ衝撃で石が倒れたり飛ばされたりしようものなら、既に瀕死の人間にとどめを刺すことになりかねない。
 一方坊主鬼は、新たに右だけ生やした腕に、札を挟んでいる。その札を、ピッと指先の動きだけで宙へと投げた。
 炭治郎の方ではなく、かろうじて生きている人間の方に向けて。
 距離と位置関係上、札から人間を守ることはできない。札は人間に当り、そして巨大な炎となってまだ生きていた哀れな犠牲者を、断末魔ごと焼き尽くした。
「な、貴様!」
 炭治郎の怒りの声にも、黒坊主は全く反応を示さない。再び、三枚の札を投げる。炭治郎の方ではなく、生きている人間に向けて。
 日柱とて、それは罠だとわかっていた。この札を防がせることが、おそらくはこの鬼の狙いなのだ。だが、それでも竈門炭治郎という男は、生きている人間を守らないという選択肢を取れない。
 すかさず踏み込み、札を三枚いっぺんに切伏せた。瞬間、札が爆散し、黒煙となって炭治郎の目鼻を強襲する。
「ぐっ、ガッ」
 初めての衝撃と痛みに、炭治郎は前へと傾ぎ、膝を折った。どのような血鬼術なのかと分析することさえままならない、凄まじい悪臭と腐臭。この世の臭さと刺激臭をどれほど混ぜ込んだら、これほどの匂いになるのかという臭気が、炭治郎の目鼻を刺し貫き、そして肺を襲ったのだ。
 鋭い嗅覚は炭治郎の武器の一つでもあるが、同時に弱点でもある。これほどまでの匂いを吸い込んでしまっては、始まりの呼吸など満足にできるはずもない。
 それでも、炭治郎は最強と名高い柱である。
 息ができずとも、目鼻が見えずとも、迫りくる攻撃を体の反射のみで回避する。だた、攻めの動きに転じることはできない。
――呼吸を、整えなければ!
 炭治郎は、意識を集中し始める。鼻へと向かう血流を止め、嗅覚を遮断するために。このような場所の血流を止めたことはないが、それでもそうしなければまともに動けない。試みているうちに、幾分か匂いがマシに感じ始めた。鼻が利かず、目も見えずとも、透き通る世界を身に着けている炭治郎ならば、鬼の気配だけで斬ることはできる。
 あと十秒ほどあれば、炭治郎がそう考えた矢先時に、坊主鬼が再び動く気配がした。見えない世界で、黒坊主が再び札を投げようとしているのが「見える」。それも、自分ではなく、別の生者の方へ。
 
 やめろ、とは、叫べない。呼吸もままならない。
 だが、炭治郎は絶望しなかった。
 彼の耳へ、確かに。
 
 遠雷の音が聞こえたのだから。


 目をつぶって尚眩しい稲光が、炭治郎の前を奔り抜ける。
 日柱の透き通る世界は、その霹靂が坊主の首を斬ったことをしっかりと捉えていた。

 炭治郎は安堵と共に、呼吸をはじめ、そして刺激臭の満ちる肺と鼻孔にせき込んだ。
「ガハッ、ごほ、ぐぅっ」
 こんなに苦しいのは、鬼舞辻の毒を受けた時以来かもしれない。ぼんやりと考えつつ蹲りえづく男へ、すかさず駆け寄ってくる気配。
「大丈夫か、炭治郎!」
 見えないがそこには、金の髪を靡かせた雷神の化身がいるのだろう。そちらへ向けて手を上げて、大丈夫だと合図する。全くの嘘ではない。急激に鼻を焼いていた臭気が減っていき、肺も正常な呼吸を取り戻しつつある。鬼を斬ったから、血鬼術も消えたのだろう。
「……だ、いじょうぶだ。お前のおかげで助かった、ありがとう」
 言って目を開ければ、そこにはやはり、月夜の似合う金の恋人が立っている。
「良かった。もうめちゃくちゃ焦ったよ」
 そう話しながらこちらへとやってくる恋人――鳴柱の我妻善逸は、しかし痛ましくひょこひょこと足を引きずっている。
 途端、炭治郎は慙愧に顔をしかめた。
「善逸、足を――」
「ああ、これ? 大丈夫、折れちゃいねえよ。ちょっと十町くらい先から神速できたんで肉離れしちまった程度」
「すまない、俺のせいで……」
 項垂れ、悲壮な顔をする日柱に、鳴柱は笑う。
「そんなのいいってことよ。むしろ炭治郎の方ががんばっただろ、これ以上死者を増やさないためにさ。……まだ結構生きている人がいる。俺たちでできる手当をしよう。隠も呼んでさ」
「わかった」
 二人は頷き合って、手分けして負傷者の救出を始めたのだった。

 一刻後。
 医療の心得のある者たちに後を繋ぎ、炭治郎たちは山を後にした。
 負傷者たちの中には既に手の施しようもない者もいたが、適切な治療を受ければ助かるであろう物も少なからずいた。この廃寺のある山ふもとには、藤の家紋を掲げる医者が複数いるとのことなので、後は専門家たちの仕事に期待するほかない。
 炭治郎はと言えば、自分のせいで足を痛めた鳴柱を両腕で抱きあげ歩いている。人目があれば鳴柱が恥ずかしいからと暴れていただろうが、夜も深い時分に誰が見ることもない。大人しく炭治郎の胸に体を預けて、運ばれることにした。
「本当に助かった。善逸がまるで救いの雷神様に見えたよ」
 にこにこと笑いながら、炭治郎が善逸へと改めて礼を言う。善逸は小さく笑って、炭治郎の言葉を受け入れた。
「はいはい、感謝の言葉だけ受け取っておくよ。……にしても、炭治郎が苦戦するなんて、いったいどんな血鬼術だったんだ?」
「わからない。術自体は札を飛ばしたり撒いたりしてきたんだが、それを斬ったり触れたりすると色々な効果が表れたんだ。目が見えなくなった隊士や、犬に襲われた隊士、死んだ母が襲ってきたという人もいた。鬼自身が札を踏んだ時は、巨大な閻魔が現れたな。俺が斬った時は、ものすごい臭気の煙玉みたいになって、それを吸い込んでしまって」
「悶絶していた、と。そりゃあお前にとっちゃ、一番相性が悪いもんが出たなあ。弱点みたいなもんじゃねえか」
 炭治郎はその言葉にふと、考え込む。
「……ひょっとしたら、そうだったのかもしれないな。相手の弱みとか、弱点をつく血鬼術」
「え、そんな反則ある? ほとんど万能じゃん。じゃあ俺がその札を斬ったら、ものすごい音が鳴り響いたとかかな」
「まぁ、想像するしかないが。強敵だったことは確かだな」
 すでに鬼は消え、どういった血鬼術だったかの答え合わせなどできるはずもない。
 炭治郎はただただ、そんな鬼を一太刀で刈り取った善逸の、一閃のすばらしさに感服するばかりだ。
「善逸が鬼の認識の範囲外から直接首を斬ってくれたおかげだ。さすが善逸だ」
「お前が戦ってくれてたから、鬼の音と気配が分かりやすかったんだって。それに、俺だけじゃ仕損じが怖くて、足をつぶす技を出す思い切りなんかできなかったよ。だからこれは、二人の勝利ってこと」
 善逸が穏やかに笑って、耳をしきりに炭治郎の胸へと擦り付ける。この仕草が恋人なりの甘えということを知っている日柱は、恋人の頭に鼻先を当てて笑った。
「そういうことにしておこう。とりあえず、すごい悪臭で鼻が辛かったから、善逸の匂いで癒させてくれ」
「はいはい、もの好きめ」
 今日も又、二人生き抜くことができた喜びをかみしめながら、炭治郎はゆっくりと家路をたどったのだった。





補足

坊主鬼
山の寺のお坊さん。
檀家の人の「世話」をするという執念と、人を喰いたいという食欲と、殺生をしているという罪悪感がごっちゃになって狂ってしまった人。最後の生きている人へ札を投げる行為は、炭治郎をはめるための行動ではなく、「檀家の人の葬儀は最後までしなければ死ねない」という妄執ゆえ。ちなみにさらわれた人たちは別に檀家の人ではなく、もう区別がつかなくなっている。
血鬼術は、三枚の御札と山姥の逸話が色々と混ざり合い、「一番相手にしたくないものが出る」という塩梅になっていた。坊主が札を踏んだ時に閻魔が出たのは、坊主が自分の罪を裁く閻魔を恐れていたせい。炭治郎が閻魔を攻撃していなければ、閻魔は坊主自身を襲った。




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