菜の葉にとまれ
あっ、と藩邸の真ん中で声をあげそうになった。虫刺されか肌荒れだろうと思っていたものが、全く違うことに気付いたからだ。
見なかったふりをすることもできただろう。宴の席で面白おかしく言いふらすこともできただろう。だがその田原藩士は、そういった揶揄い方を好む質ではなかった。他人のことであれ己のことであれ、恥というもの全般を上手くやり過ごせない性格であった。
幸い周囲にはひと気がなかった。前を歩く上司に、藩士は小走りで近寄る。首筋の左後ろに残った小さな赤い痕から、ふわりと蜜のような甘い香りがした。よい香りには違いないが、赤い痕の正体を思うと顔をしかめたくなる。
「渡辺様、今少し……」
怪訝そうに振り返った藩家老、渡辺登を廊下の端へ招いたものの、何と言い出したものかと束の間ためらった。しかし勤めの最中にぐずぐずしてもいられない。
伝わってくれと願いながら、口元を覆って小声で言った。
「露わに見えてございまする。その、お首元の」
聞くや否や、登の瞳孔が大きく揺れた。首筋をぱっと手で覆い隠して、意味もなく辺りを窺う。
「お恥ずかしい、私としたことが」
声音は落ち着いていたが、眉を下げて笑ってみせた彼の耳が焼けたように赤い。流石に黙っておこうと藩士は思った。
「悪い遊びをなされましたな。この時節では虫刺されと誤魔化すのも難しゅうござりますのに」
なんとなく自身も首筋を掻きながら、藩士は同情とも批難ともつかない言葉を口にする。先年恋女房と添うたばかりで、廓通いは楽しく思えないからだ。それに武士たる者、節度を守るのも務めのうちだろうと固く信じていた。人前に名残を晒すなど以ての外だ。
「まあ、ある意味では虫刺されのようなものです」
袷を細かく直しながら、登が言った。
「はあ、しかし」
「蝶です。蝶に刺されたんですよ」
肩衣をするりとしごきながら、登は薄く口元に笑みを浮かべた。先ほどの照れ笑いとは違う、微かだが揺るぎない表情に、藩士はいささか当惑する。言葉の意味もよくわからない。
「ご指摘かたじけない。助かりました」
「いえ、お礼には及びませぬ。では御免」
曖昧な謎を抱えたまま、藩士は足早にその場を去った。
数日後、田原藩邸上屋敷に一人の男が訪ねてきた。総髪を頭の上でまとめて長く垂らしているところからすると、お抱えの学者らしい。
「渡辺さんいますか?」
中間の一人を捕まえて尋ねる声には強い訛りがあった。みちのくの生まれのようだ。
「ご家老様なら、じきお上がりの刻限でございます。お呼び致しましょうか」
「いや、いい。こっちから出向きます」
すたすたと勝手知ったる様子で屋敷に上がり込んでくる。態度の大きな学者は片手に風呂敷包みを携えていた。
ひと足先に勤めを上がっていた藩士は、二人のやり取りの一部始終を見守っていた。すれ違いざまに学者から軽く辞儀をされ、さらさらと弾む髪から甘い香りが漂った。その瞬間、あっ、と藩邸の真ん中で声をあげそうになる。
田原藩家老、渡辺登。画家でもある彼の号は、確か崋山といった。そう、花、そしてこの蜜のような匂い。
「高野くん、わざわざこちらまで来てくれたんですか」
「こないだ言ってた本を訳し終えたんで、すぐにでもお見せしたくて持ってきたんだます」
「それは助かります! ずいぶん早かったですね」
「なーに、この長英様にかかれば朝飯前よ」
藩士は危うく卒倒しかけた。長英。ちょう、と読む字が確かに入っているではないか。
奥から出てきた登と、高野と呼ばれた学者は連れ立って藩邸を出ていく。もはや藩士の方には目もくれず、学者は親しげに登の肩を叩いている。風呂敷包みを抱いた登の方はにこにこと微笑むだけで、されるがままだった。
呆然と二人を見送る藩士を、訝しげに中間が眺めている。くらくらする頭を抱えながら、よっぽど言いふらしてやろうか、と藩士は思った。
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