料理


「お前、昔から何でもよう器用に作るな……。」
「延陽伯で長いことバイトしてましたから。」と言うと、ハッと兄弟子はこちらを馬鹿にするように笑った。
「おい、四草。オレも同じとこでバイトしてたの覚えてんねやろ? 任せて貰えるのは裏方の皿洗いで、人の足りへんときは料理を運ぶ係を任せて貰えたけど、料理はお前みたいに上手い事作れんかったから早々に皿洗いに戻されてたわ。」
あの頃の兄弟子が、ゴム手袋の感触が嫌だとごねて常に手が荒れていたこと、テレビやラジオに出ていた頃のように気取った香水の匂いを振り撒く代わりに、手荒れのために買った安物のクリームの妙な匂いをさせていたことをふと思い出した。
「これも、あんじょう切れてるな。」
若狭の実家の近所のお裾分けだと言って分けてもらった筍を茹でて作った味噌汁を啜っていた男は、筍の切れ端を箸で持ち上げる。
「包丁を、ちゃんと研いでから切ったらそんなもんですよ。なまくら包丁を使って力任せに切ったかて、美味いもんは出来ませんから。」
お互い、内弟子修行中に、おかみさんから料理は一通りを仕込んで貰った。勿論、包丁のマメな手入れの仕方もだ。
師匠の弟子だった以上、その条件は三番弟子だったこの兄弟子も同じはずだが、基本の卵料理以外の料理らしい料理を作っているところはあまり見たことがない。サラダを作るにも、あの頃のように生きの良い人参や大根を短冊切りにして入れることも少なく、レタスを手でもざいて終わりということが多い。
それでも、朝食のために米を炊くことは出来るし、いくつかの卵料理や納豆や漬物で朝食を準備出来たら、それを食べて暮らしてはいける。子どものためであれば、ホットケーキミックスを混ぜて作って焼いたホットケーキとか、自主的に作ることも厭わない人だった。
その上で、僕が作る飯でそれなりに満足してくれてならそれでいいとは思っていたが、どうやら、出汁を取ったり、複雑な下準備や味付けが必要なものこそ、料理と言っていいのではないか、そういう頭でっかちな理解があるようだった。


僕が料理を習った女性は、この世にはもういない人だ。
血縁ではない、短い時間を共にした僕の二人目の母親。
この人が入門したばかりの頃のおかみさんはマメに料理を作る人だったらしいが、流石に、もう育ち盛りでもない四番弟子ともなれば「忍は、何でも食べてくれて嬉しいわぁ。」と言いながら酢飯とツナ缶と前の日のサラダの残りでサラダ巻きを作ったり、今日は師匠もおらへんし、隣から忍の好きなきつねうどんを取るのでええかな、と言う日もあるにはあった。
「おかみさんは、僕が弟子になった頃には、インスタント味噌汁で済ませる日もありましたよ。」というと、兄弟子は眉を上げた。
「それはおかみさんが、お前の内弟子修行終わる頃にはもう病気になってたからとちゃうんか。」
こういうところは勘が鋭い。
言い訳は出来へんな、と諸手を上げて「もしかしたらそうかもしれません。」と言うと、兄弟子は、この話はもうやめとこ、という顔をして、「別に、朝からお前と喧嘩したい訳とちゃうねん。」と言った。
あの頃、師匠がいない頃にふたりでこっそりと食べた手抜き料理のひとつひとつが、おかみさんの病気の兆候だったかもしれない、とは後で気づいたことだった。僕は目の前にいる師匠からひとつでも多くの芸を盗んで、自分の落語の腕を磨くことに精いっぱいで、それ以外のことは、ほとんどおろそかになっていた。
「ま、料理なんてもん、頭のいいヤツがレシピ見て作れば、それなりの味になるんやろうな。」と言って、草若兄さんは、ちらちらと部屋の端に積んである図書館の本に視線を遣っている。
「はあ。」
おかみさんが持っていた料理本のいくつかは、形見分けの時に草原兄さんの家に行ってしまって、その後はどうなったか分かっていない。
実物を借りに行きたい気持ちはあったが、あの人はどうにも苦手だった。
夫を立てる、良妻賢母の鏡と言われるような女性。
産みの母親とは全く違う女。
誠実な配偶者を持てば、あの母親もあんな風に生きられたかもしれないという気持ちが、僕を苦しくさせた。
どうしてか、母親になった妹弟子や、若狭の母親のことを考えるのと同じ気持ちにはなれず、結局は、草原兄さんの自宅に足を運ぶことが出来なかった。
いくつかの本はタイトルを覚えていたので、結局近所の図書館にあるものを子どもに借りて来させたのだった。
「兄さんが食べたいもんあれば、作りますけど。」
「いや、ちゃうねん。」と言って草若兄さんの顔が曇る。
「ちゃう、て何が違うんですか。おかみさんの作っていた料理なら、僕が直接教えて貰てなくても、草原兄さんが覚えてるかもしれませんし、言うだけ言ったらどうです。」
「オレは、…………。」と言って箸を置いた草若兄さんは頭を掻いた。
「何ですか?」
「たまには、オレがお前にメシ作ってやりたいと思ってな。」
「そうですか。」
「お前こそ何か食いたいもんないんか?」
「……あの、」
頬を染めている年下の男に手を伸ばす。


「いいところにお邪魔して悪いけど、続きは僕が出てってからにしてくれる?」
「……!」
メシ以外でも構いませんか、と言おうとした矢先のことだった。
振り返った視線の先に子どもがいるのが見えて、草若兄さんが目を丸くした。
「お前まだ学校に行ってへんかったのか。」と平静な顔を作って立ち上がる。
「ハンカチ忘れてしもた。」
子どもはいたずらな顔をして舌を出した。
「そうか。」と言って立ち上がって、アイロンを掛けた赤いひょっとこの絵面のハンカチを渡す。子どもの好みは、着々と草若兄さんの趣味に染まって来ていた。
「じゃ、行って来る。お父ちゃん、草若ちゃん、後はお好きにどうぞ~。」
「お好きにて、何もせえへんで!」
「……せえへんのですか?」
「日の高い間はせえへんて……おちびがまた戻って来たらどないすんねん。」
「玄関の鍵掛けてしまいますから。」
僕の一番好きなもん食べさせてください、と言うと、アホか、と言って兄弟子は口を尖らせ、そっぽを向いた。
ひょっとこのように赤くなった頬がこちらを向いていて、そのまま少しだけ齧ってみたいような、そんな気がした。

                                                                                                                                                                                                                                                  
 
 

powered by 小説執筆ツール「notes」

26 回読まれています