孤灯

 来客用駐車場にミニバンを停めて、斎藤弥九郎は友人の住むマンションの一室を見上げた。開け放された窓から、こんがりと甘くあたたかい匂いがここまで届いている。
 友人こと江川英龍は、できることなら自宅にパン焼き窯を設置したかったそうだ。彼の住処は一人暮らしだと少々もて余す程度の広さではあるものの、現状はしがない公務員らしくホームベーカリーで妥協している。
 やっぱりこだわりたかったのか、と以前聞いたら、江川は頭を掻きながら照れ笑いした。
「それもあるけど、“昔”の記憶がうっすら残ってるものでな。どこまで自力で再現できるか試してみたかったんだ」
「再現しなくていいだろう別に」
 あんな固いものを食べさせられたら歯が欠ける、と弥九郎は思った。記憶には“過去”を留めていても、顎は現代の食生活しか知らないのだ。
「違う違う、兵糧パンじゃない、柔らかい方だ」
「ああ、胡椒入りの……。そういう本格的なのは、定年後の楽しみにとっておいてもいいんじゃないか」
「だなあ、何にせよ戸建てを構えるのが先だ。あ、せっかくだからパン屋でも開こうか」
「まさかその稼業を私に手伝えとか言わないだろうな」
「言うに決まってるだろ」
「少しは遠慮してくれ」
 憎まれ口は叩いたものの、遠い未来のプライベートな夢を膨らませていることは喜ばしかった。その年齢まで現役で働き続けられるような人生設計をしているということだからだ。
 インターホンを押すなり、すぐに玄関の扉が開いた。
「弥九郎、よく来たな!」
 溌剌とした表情にデニムのエプロンが映えていた。活動的な江川にはよく似合っている。
「邪魔するぞ」
 勝手知ったる友人の家に上がり込む。パンの香りに全身を包み込まれ、弥九郎は思わずすんと鼻先を鳴らした。
「今日はなんだ?」
「丸パンとミネストローネ」
「いいな」
 ミネストローネの具材は冷蔵庫の在庫処分だろう。ちゃんと美味しいし、夜は出かけるからそれで構わない。
 美濃焼の器に具だくさんのスープをよそい、隣の皿には半分に割った焼きたての丸パンを並べる。テーブルについて二人同時に手を合わせた。
 人生何度目でも、美味いものは美味い。


 弥九郎たちには前世の記憶がある。二人は江戸時代の後期に生まれて、主従そして盟友となり、それぞれの生を全うした。そして何の因果か、同じ時代に再び生を受け、再び巡り会った。
 通算百年ほど一緒にいると、互いの考えていることはおよそ手に取るようにわかる。今更見透かされて困るようなことも無いから、基本的には便利である。
 今日の約束もそうだった。弥九郎から水曜の昼間に電話をかける時は、週末のドライブの誘いと相場が決まっているのだ。
「ナビはつけないのか? というかいい加減教えんか、今日の目的地は一体どこなんだ」
「走ってりゃわかるさ」
 その関係性をもってしても、弥九郎の今夜の企みは見抜けないらしい。なかなか小気味よい。
「なんだかわからんが、弥九郎が今すごく楽しんでることはわかるぞ」
「運転中に肘で小突くな」
「信号変わったぞ」
「はいよ」
 軽口を叩き合いながらハンドルを切り、しばらく走った先のコンビニに途中停車する。大通り沿いの角地だからか、駐車場はかなり混み合っていた。
 缶コーヒーとペットボトルの緑茶を手に取ってレジに並び、ふと振り向くと一緒に入店したはずの江川がいない。先に車に戻ったのか、と納得して会計を済ませた。
 店を出て車に戻ると、鍵がかかっていた。中を覗いても当然ながら待ち人はいない。運転席のドアにもたれかかって待っていると、しばらくして江川が何処からか帰ってきた。
「すまんすまん、車に乗ろうとしたところでちょうど道を聞かれてな。そこまで案内してきたんだ」
 遠く指し示す先には急ぎ足で交差点を渡る女性の姿があった。江川と一緒にいるとこういう場面によく立ち会う。「どうもありがとうございます、ご親切な方」「なに、困った時はお互い様です」などとやりとりしている姿が目に浮かぶようだ。
「相変わらずお人好しだな」
「私にできることが転がっていると、どうもじっとしていられないんだ」
「知ってるよ、二百年前から」
 缶コーヒーを手渡し、弥九郎は気になることを問い質した。
「ところで江川、話しかけられたのは車に乗ろうとした時だと言ったな」
「それがどうかしたか?」
「人を疑うようなことは言いたくないが、グループでの置き引き犯もいるというじゃないか。車内に何も置いていなかったからいいものの、ちょっと離れるだけでも気を抜くなよ」
「心配性だな」
「世の中には色んな人間がいるんだ。君もよく知っているだろう」
「そうじゃなくて、母親みたいだなって言ってるんだ」
 ぐっと言葉に詰まった後、弥九郎は決まり悪く項垂れた。苦笑いしている江川と目を合わせられない。
「悪い」
「気にしてない。言ってることはお前が正しいよ」
 ぽんぽんと肩を叩き、江川は助手席のドアを開けた。吐き捨てるようにため息をつきながら弥九郎は運転席に乗り込む。普段なら、これほど構いすぎることはないのだが。
「運転代わるか?」
「……行き先知らないだろう」
「そうだった」
 からりと笑う江川の姿に、ようやく頬がほぐれた。


 ミステリーツアーの目的地に辿り着く頃には、空に夕闇が迫り始めていた。
「いい塩梅の夕焼けだな」
 車を降りながら、江川が目を細めて天を仰いだ。
「夕焼けぐらいで驚いてもらっちゃ困る。これからもっと綺麗なものを見に行くんだ」
「まさかとは思っていたが、乗るのか」
「乗る」
 江川が指差した先には、クルーズ船乗り場の瀟洒な案内所が建っている。道すがら見かけた巨大な広告看板には「東京湾の夜景を楽しむ ナイトクルージング」とあった。
 二人分の予約チケットを提示して、デッキへの接続橋に並ぶ。踏み込んだ地面がゆらゆら揺れている。間もなく出航だ。
 添乗員の案内アナウンスが始まったが、江川は船内に入る様子を見せず、甲板で落ち着きなく歩き回っていた。無理もない。東京湾の夜景ということは、俗に言うお台場を海から眺めるということになる。
「お台場の夜景、見たことあるか?」
「ない。というか品川自体、近寄ったこともない」
 わざと避けてきたのに、としかめ面が語っていた。
「私は何度かあるぞ。船は初めてだが」
「そうかい。言うほど持て囃すものかな」
 もうすぐ夜景が見渡せるポイントらしく、どやどやと乗客がデッキに出てきた。さてどうするかなと反応を見ていると、江川はむすっとした顔で、いきなり弥九郎の腕をとった。
「ここまで来たら逃げやせんよ。一番前へ行くぞ」
 ぐいぐいと腕を引かれて、弥九郎たちは群衆の先頭に躍り出た。
 光の群れが目を射した。反射的に目蓋を閉じ、しばらく待ってそっと開く。
「あ」
 地上の星空がそこにあった。微かに波打つ海上に、無数の灯りが燦々と照り映えている。
 わあーっと男女の歓声が上がり、背後から雨あられの如くシャッター音が降り注ぐ。甲高い歓声に紛れて、観光案内の放送が途切れ途切れに聞こえる。それらを認識できるだけの脳の空き容量が、かろうじて弥九郎には残っていた。
 江川は声を出すことも、スマホを手に取ることもしなかった。わずかに口を開いたまま、指が白むほど手すりを握りしめ、船から身を乗り出さんばかりにしている。
「危ないぞ」
 言っても姿勢は変わらない。
 夜の海と夜景を眺めながら、江川は惚けたようなため息をついた。瞬きも忘れた横顔が紅潮していることに、無性に誇らしくなる。どうだ、自分自身でも見惚れるほどに、君の造ったものは綺麗だろう。
 かつて蒸気船の黒体がその威容を見せつけた湾岸に、今は人造の灯りが煌めいている。砲台が建設されて、放棄されて、それからも色々なことがあった。自分たちの知っている歴史と知らない歴史を経て、江川の築いたものは文化を支える礎となっている。
 夜景を堪能した乗客は快適な船内に戻り、デッキの上は閑散とし始めていた。船はゆるい弧を描いて進み、名残惜しむようにゆっくりと港へ戻り始めた。
「私たちもそろそろ戻ろう。またいつでも連れてきてやるから……」
 弥九郎の言葉を断ち切るように、突如江川が振り向いた。目がかち合って、動けなくなる。今の今まで輝いていたはずの瞳が、深い色を湛えて凪いでいる。
「弥九郎」
 静かに名前を呼び、彼は飛び立つ間際の鳥のように大きく両腕を広げ、唇だけで優しく笑った。
 と胸が衝かれた。吸った息を吐き出せないまま、江川に手を伸ばした。飛びつくように身体に縋って、強く抱きしめる。自分の足が震えている。
 気付かれていた。急にこの場所へ誘った理由も、弥九郎の心の内も、何もかも最初から見透かされていた。全部江川に悟られていることを、弥九郎も本当は知っていたのだ。
「約束だ。また二人で、ここに来ような」
 二人で、と江川は芯のある声で言った。答える代わりに、その背中をぐしゃぐしゃに掻き抱く。
「えがわ」
「うん」
 海風に晒されてなお体温の高い手で、後頭部を撫でられる。この歳にもなって、と一抹の羞恥がよぎり、腕に込める力を強くした。今は誰も見ていない。誰かが見ていても構わない。
「もう、勝手に消えるんじゃない」
「ああ」
 目をきつくつむって、肩に顔を押し付けた。男二人分の体重を受けた手すりが軋む。江川は柔らかに受け止めるだけで、びくともしない。彼はいつも自分の足で立ってきたのだ。自分の選んだ道を、自分の意志で歩いてきたのだ。その崇高さを、もう二度と悲劇に転じさせたくない。
「どこに行ってしまってもいいから、一人で行くな。私を置いていかないでくれ。二度と、お前を見送りたくない……」
 全ての幕が下りる瞬間まで、自分は江川の隣にいなければならない。次こそは、彼を独りにしてはならない。
 ふー、と身体じゅうの空気を全て吐き出しきるような、長い息が聞こえた。ゆったりと息を吸う江川の胸が膨らむのを感じた。
「なあ弥九郎、ほんとうに綺麗だなあ。この景色をお前と一緒に見ることができてよかった。もう一度生まれてきてよかったよ」
 濡れた顔を僅かに上げた。人工の灯りが、波間にさざめくように光を放つ。人が生み出した、人のために輝く灯り。それはすなわち生命の放つ光。
 この世の春だ、と思った。束の間しか続かない季節に、栄華を誇る満開の花。されど今湾岸にきらめく光明は確かに、この世を生きる者の春だ。
 世界中に光が咲いている。抱きしめた身体に血潮が通っている。今この瞬間、江川も弥九郎も生きている。いつか春が過ぎゆきても、その事実だけは夢幻にさせまい。


 二人で出かけた時は、帰り道で運転手を交代することになっている。運転席のシートベルトを締めながら、江川が不意に言った。
「弥九郎、明日もどっか行かないか?」
「明日って平日だろ。うちの道場は定休だけど」
 ふふん、と江川は得意げにVサインを作る。
「有給取った」
「えっ、珍しいな」
 江川は有給休暇を取るのが苦手である。弥九郎が適当なタイミングで連絡して、ほとんど無理やり消化させるのが常だった。
「最近は休むことにだいぶ抵抗がなくなってきたんだ」
 どうやら弥九郎の努力が実を結んだらしい。槍が降ってもバイトを休もうとしなかった学生の頃より確実に改善されている。
「良いじゃないか、しっかり活用しろ。労働者の最低限の権利というやつだ」
「弥九郎いつもそれ言ってるけど、感覚的にピンときてないだろ? 自分は自営業だし」
「……寛政生まれに難しいことを言わないでほしい。渡辺どのもさっぱりわからないっておっしゃってたし」
「長英くんなんかはフル活用してそうだな」
「いやこないだ研究に熱中しすぎて三日絶食して倒れたらしいぞ。小関さんがカンカンで報告してきた」
「それ労働者の権利とか関係なくないか?」
 エンジンがかかる。これから夕食の材料を調達して、帰るのは弥九郎の家だ。これも毎度のルーチンだった。
「腹減ったなあ。晩飯何にしよ」
「家に大根と油揚げがある。味噌汁でも作るか」
「昼間がパンだし、和食がいいかな。魚の干物を買おう。よし、出発」
 江川がライトを点灯した。先行く車を何台か譲ってから、スムーズに発進する。
 たとえ星一つ見えない闇の底でも、大嵐の吹き荒れる中でも、二人なら平気だった。今を精一杯生きる灯に寄り添って、どこへでも、どこまでも。

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