おいこすからまってて
ここへ来たのは10歳の時だった。それ以前の生活がどのようなものだったかは知らない。知らないというのは、記憶がないからだ。そのことを悲しく思ったことはないし、悩んだこともない。最初からなかったのだから惜しむ必要がなかった。俺は自由なんだと思った。おかげで短い人生を悲観することはなかったし、この先の人生を嘆くこともなかった。
ところで、ここには他にも子どもがいた。下は0歳から、上は18歳まで。ここにいる子どもはみな、母親や父親という存在の記憶が乏しかった。けれど淋しくはなかった。姫子とヨウおじちゃん――成長してから知ったが、姫子がここを作ったすごい人で、ヨウおじちゃんは俺たちの先生だった――がいて、うさぎのパムも仲のいい友だちもいて、毎日が賑やかで淋しいと思う暇もなかった。
けれどこれは俺の話で、淋しいとか、会いたいとか、悲しくて泣く子どもだっていた。それが悪いとは思わないし、悲しい方がイヤだなと思う。だから友だち――特に仲がよかったなのや、まだ赤ん坊だった丹恒が泣きだしたら、俺は決まって傍にいて、手を繋いでいた。
「おれがそばにいるからさみしくないよ」
そうするといつの間にかなのも丹恒も泣き止んでいて、笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。大好きな2人にはいつも笑っていてほしかった。
俺が中学生になり部活動が始まると、野球部ということもあり帰ってくる時間が以前よりもだいぶ遅くなった。なのはまだ小学生だから俺よりも早く帰ってきてみんなのお姉さん役を張り切っていたけれど、困ったのは丹恒だった。人見知りなのか引っ込み思案なのかひとりで遊んでいることの方が多かったし、俺の姿が見えないと途端に泣きだすのだ。
「俺も丹恒に会えなくてさみしかったぞー!」
「……ほんとうに?」
「ほんとほんと!」
だから泣いている丹恒を抱き上げてあやすことが、帰ってきて一番最初にする恒例行事になった。かわいい丹恒が悲しむのはもちろんイヤだ。けれど、このまま丹恒が誰とも仲よくなれないのも淋しいと思う。わんわんと涙をこぼす丹恒の目を森の中でひっそりと凪ぐ湖のようだと思うことがあるが、俺の想像であるそれは何だかとても淋しい景色で、そこにたったひとり丹恒がいることを想像すると俺も無性に泣きたくなった。丹恒の兄貴分として俺は人生で初めて悩んだ。答えは出なかった。
さらに俺が高校生になる頃、丹恒も小学生になった。俺は相変わらず野球を続けていて県内ではそこそこ名の知れた打者になったし、丹恒も相変わらずひとりでいることが多くて字を読めるようになるのが早かったからいつでも静かに本を読んでることが多かった。俺を探して泣きだすことは減ったので帰宅一番の恒例行事も頻度こそ減れど、お帰りのハグに形を変えて続いていた。抱き上げて頬ずりすれば、丹恒も嬉しそうに笑った。
「きゅうのうそつき!」
「……んん!?」
ところが事件は突然起きた。高校二年の夏。俺の進路相談を姫子とヴェルトにしていると、傍で本を読んでいた丹恒が突然声を上げたのだ。読んでいた本もそのままに部屋を飛び出していった背中を呆然と見送ってから、我に返って急ぎ追いかける。滅多に……むしろ聞いたことのない丹恒の大声に俺だけでなく姫子もヴェルトも驚いて、思わず3人で一瞬顔を見合わせた程だ。とはいえ丹恒を見つけるのは難しくはなくて、図書室の一番奥、本棚の陰で三角座りに膝を抱えた腕へ顔をうずめて小さくなっていた。俺がいない時は本に囲まれたこの場所でじっとしているのが丹恒の癖だった。
「……たーんこう」
「……」
目線を合わせるため正面に胡坐をかいて座る。しかし声をかけても反応がないところを見るに、これは相当おかんむりの気配を感じて小さく肩を竦める。これは思ったよりも長期戦かもしれない。
「なぁ丹恒、俺が傍にいるから笑ってよ」
「いやだ」
今度はすぐに返事があった。返事と一緒に顔を上げた丹恒は、目にいっぱいの涙を溜めて溢すまいと堪えている。森の中の湖はもう間もなく荒れ模様の予感だ。
「いやって、どうしてだ?」
「きゅうはどこかに行っちゃうんでしょ!?」
おれをおいて……と呟かれた言葉はほとんど嗚咽に紛れて、正面にいなければ聞き逃してしまうところだった。なるほど、とようやく丹恒の言動に納得がいく。どうやら俺の進路相談で県外の大学へ進学するかどうかの話を聞いていたようで、丹恒の淋しがり屋が爆発したらしかった。遂には堪えきれなくなった涙がやわい頬を濡らした。
「丹恒」
小さくて丸い丹恒の頭を撫でながら、静かな声で名前を呼ぶ。今まで何度呼んだか分からない、大切な名前だ。
「俺はいつだって丹恒と一緒だ。だって俺は丹恒の兄貴分で、丹恒が大切だからな」
「たいせつ……」
大きく見開いた目でまっすぐ俺を見上げ、嚙みしめるように丹恒が呟く。
「今までよりちょーっと帰りが遅くなったり週末になったりするけど、ちゃんとただいまって帰ってくるから、丹恒は俺のこと待っててくれるか?」
俺の話を聞き漏らすまいと真剣に聞いていた丹恒は、おずおずと頷いてみせる。そうして俺の服の袖を掴んで不満そうに漏らす。
「……おれもはやくおとなになりたい」
「え、もう少しそのままでいいと思う」
俺のかわいい丹恒があんまり早く大人になってしまうのは、それはそれで淋しいものがある。焦らなくてもどうせ大人になってしまうのだから、もう少しかわいいままでいてほしかった。けれど俺の思いとは裏腹に丹恒は覚悟を決めたような顔をすると、膝立ちになってやわらかな両手で俺の顔を包み真正面から見つめて言い放ったのだ。
「ぜったいにおいこすから、きゅうもまってて」
言いながら、こつりと額を合わせるオプション付きで。どこでそんな技を覚えてくるのだろう。
「お、おう……?」
見つめた瞳に、澄み渡った青空の下で森の中の湖が輝いている景色を思い起こす。それは決して淋しい景色ではなかった。
けれどこの時の俺はまだ知らない。丹恒の勢いに圧されて頷いたことに頭を抱える日は遠いようであっという間に訪れるという事を。かわいいから、格好いいに成長していく丹恒の姿を。
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