ミルクティー



朝一番に鏡を見た時、夏休みになって髪を染める人間が増える理由が分かった、と譲介は思った。
自信が付いたというのでも、大人になったのでもない。昨日までとは中身も何も変わってはいないのに、確かにこれまでの自分とは違ってしまったように見える。
洗顔の後の湿った指先で濡れた前髪を持ち上げると、染めたばかりの髪が、朝日を透かして輝いている。
一也と仲がいい年上のヘアメイクが太鼓判を押した通り、ブリーチ剤を使わなくてもこれだけいい感じに仕上がるなら、今後も使わない方が良さそうに見える。
それにしても、これまでずっと寝間着にしていた紺色のTシャツは、どうもこの髪色には合わない。多分、これまで着ていた服を見直して、誰かに似合うか似合わないかの判定をしてもらう必要があるな、と譲介は思った。ポンと頭に浮かぶのはやはり、一也の顔だ。外で時間を作ってもらうにせよ、ラインで聞いてみるにせよ、高校生の譲介よりあいつの方が百倍忙しいのだから、互いに仕事の入ってない時間をすり合わせる必要がある。
もう一度鏡の中の自分をしげしげと眺めてみる。明るい茶色というにはくすんだこの色味は、酷く不思議な色合いだった。日光に例えられる金色でもない、かと言って、茶髪と言えばこんな色、と言われて思い浮かべるどの色とも違っている。
(いっそ、……もっと突き抜けて明るい方が良かったのに……中途半端だな。)
色素を抜いて白くしたところに乗せた、くすんだ肌色といえば近いだろうか。さほど愉快な考えではないけれど、これは、この先も俳優として生きていくとしたら、恐らくは通らなければならない踏み絵のようなものだ。スマートフォンで海外映画のトピックを眺めていると、時折、俳優のインタビュー記事で、役柄のために十五キロ太ったとか痩せたとか、そうした体型のコントロールの話題が流れて来ることもある。
この先、役作りのために髪を染めることになることがある、と両親の前で言ったのは、もう一週間も前のことだ。父さんは、反対はしないが、賛成も出来ない、と言わんばかりの困り顔をして、母さんは、そう、頑張ってと、譲介に元気を出させようとするときのいつもの笑顔になって譲介を励ました。
結局、ふたりの反応と懸念は、どちらも正しかったというわけだ。
今の譲介は、どこからどう見ても不良少年だ。形から入るというのは苦手だったけど、親に捨てられた過去を持つ不良少年という、自分とは似ても似つかないキャラクターを演じるにあたっては、思った以上に役を演じる助けになりそうだった。
きっと、今、この瞬間だけに作用する魔法のようなものだろうけれど、自分でも、妙に高揚しているのが分かる。はは、と柄にもなく大声で笑いたいような気分だった。箍の外れたような笑い声を出したとしたら、台所で朝食を作っている母さんが驚いて見に来ると思うくらいの理性は、まだ残っているけれど。


オーディションの話が出たのは、ドラマの撮影が始まる十か月ほど前のことだった。
譲介は、学校を終えて、真っ直ぐ家には帰らず、いつものように制服のまま寄り道をして、事務所の中の待合室にいた。
商談で訪れる人はほとんどいないローテーブルと革張りソファのある、応接室と名の付いた空間は、社長の甥であるところの、週に三日だけ、ここへ顔を出しにくる専務がかつて読んだ文庫本の姥捨て山にしている書棚があり、昔流行っていたらしい推理小説を好きに選んで読むのが譲介の楽しみだった。昔のように毎日台本を読んでいた日々は、今は昔で、譲介はあの日も、丁度一冊の本を取り出したところだった。
海のある奈良に死す。まるで詩のようなタイトルだ。
流しに近い場所にあるポットでインスタントコーヒーを淹れていた譲介が、準備万端でソファに腰を下ろしたのを狙ったかのように「次の仕事、これなんかどうだ。」と言って、どこからかやってきた元アイドルのマネージャーが現れた。
まあどこからか、と言っても、隣の、ほとんどウィンドウズの旧型しかないパソコン置き場兼事務室で仕事をしていたのだろうけれど。その時、譲介に見せてくれたのが、ドラマK2の主人公のライバル役募集の案内記事だった。
いい子の役が板に付いた譲介が、この年で華々しく不良少年の役に挑戦するとしたら、それだけで、芸能界引退報道と同じくらいの話題性はある、やってみる価値はありそうじゃないか。
その年なりに分別くさい顔をするようになったマネージャーは、そう言って中学二年になった譲介をそそのかした。確かに、譲介の所属する事務所は、無能で仕事をする気もなさそうな社長の甥ひとりくらいなら養えるくらいの稼ぎはあるんだろうけれど、一也が所属する事務所とはそもそも規模が違いすぎる。実際どのくらいのお金が会社にプールされて、鳴かず飛ばずが続く、若い俳優たちを養っているのかを譲介は知らなかった。
オレには芝居は分からないけど、この脚本は良く出来てる気がする、とマネージャーから手渡されたのは、数年前にドラマが始まったばかりの頃のクールの、譲介が出て来ない回の脚本だった。
お前が役を獲れたら、その人と共演することになるらしいよ、と言われてぱらぱらと読んだ回は妙に面白く、原作を読んでみると、学業の片手間に出てみようかと思った気軽な気持ちはすっかり消えてしまった。あの頃の譲介は、子役でバリバリ活躍していた頃とは違い、そろそろ受験勉強に本腰を入れて、そこそこの偏差値の高校に行き、外部の大学に進学しようかという頃合いだろうか、という気持ちを持っていたのだ。
古びた脚本を渡されてから数日後、「これ、ホントに僕が演じていいの?」と聞くと、譲介のマネージャーは、随分食いつきがいいな、と笑った。
「この先も役者で食っていくつもりなら、事務所がなんと言っても僕はやりたい、くらい言わないと良い役は回ってこないぞ。」
譲介の隣で、くたびれた中年男になりかけているマネージャーが言うと、かなり説得力があった。
とはいえ、こんな役柄を、自分にぴったりだ、と思って演じられる人間がいるだろうか。
動物を傷つけ、人を脅し、殴り、罵倒し、蔑む。そして、かつての譲介が得意としていた役柄の少年に、軽蔑され、疑われまでする。
「やりたい、って言ってそれが通る状況なら、挑戦してみたい気分なんだ。」
今はね、という言葉を飲み込んで譲介が言うと、マネージャーは、じゃあ味方になってやるよ、と譲介に言った。


この髪は、そう、あの人が身に纏う白のコートと同じだ。
役柄に留まるため、譲介に与えられたアイテム。
オーディションの時に顔を合わせた三十年上の人は、テレビに出ることはほとんどない代わりに、演劇の界隈ではそれなりに有名な人だと後で知った。背が高く、強面で、低い声が心地いい。あの人の隣で台詞を合わせていると、筋肉の熱と、彼の汗の匂いを感じた。それなのに、譲介がこれまでに出会った中で、男くさいと思った学校の体育教師や、いわゆる脂の乗った時期と言われる中高年の男性俳優に感じた苦手意識や忌避感を感じることはほとんどなかった。
目の前で、身振り手振りを交えて台詞を合わせると、気分が高揚して、ぱちぱちと胸の中で星が弾けるような気分になった。
後で衣装合わせのために隣に立って鏡を見た時、「オレのこのなりじゃ、師弟ってよりは、凸凹コンビってとこだな。本番までに、どれだけ『らしく』見せられるようになるかが勝負だ。」と言ってあの人は笑った。
正直に言うなら、譲介自身は、髪を染めたことで、ずっと反抗期の子どもらしくなった。
問題は、その不良少年のラインをどこに設定するかだ。
監督からも、譲介は複雑なキャラクターだけど、その上で、この先を見据えて演じる必要もある、と言われている。けれど、この先と言うのは、譲介が青年になって以降もドラマが続けばという前提あっての話だから、最初からそうした目配せをした演技をしたところで、見る方も白けてしまうだろう。
仕事のために撮影現場の方言を覚えるとか、着物を着て演技をするための所作を教わるとか、そういったレベルのことならこれまでにもあったけれど、この先も演技で食べて行くとしたら、自分が納得してもしなくとも、役柄のためにこれまでの生活や美意識のスタイルにそぐわない形で自分を変えてしまうような、そうした話が必要になってくることもあるということだ。
それでも、K2はゴールデンタイムに放映されている、今時珍しい、家族で見るテレビドラマだ。視聴者に対して、和久井譲介は暴力に淫するタイプの人間である、というその一面だけが、強烈に印象付けられるような演技はやはり避けたかった。
この先の困難を思い、譲介はため息を吐きたくなった。



カチンコが鳴る音が遠くから聞こえて来る。
夜の撮影が始まっていた。
譲介より一足先に酒が飲める年齢に達した一也は、診療所のセットに立ち、この時間でも、大人の輪の中に入って仕事を続けている。もっとこの場所にいて、自分自身でありたい、と思うのに、こうして、ただ年齢が低いと言うだけで厳然とした子ども扱いをされてしまう状態でいるのは、やはり少し宙ぶらりんな気分だった。
譲介の出番は、今日を含めたこの三日間ですっかり撮り貯めてしまったので、次の出番は、また一週間先だ。髪を染めたくらいで、大人扱いして貰えるはずもない。
仕事を終えた親が迎えに来るのを待つ、というもっともらしい理由で、ベンチに座って脚本を読んでいた。
譲介、帰らないのか、と一也や一人さんに心配されるのはちょっと居心地が悪いけれど、譲介は、夜の撮影の空気が好きだった。
腕時計を見る。
もし撮り直しがなければ、そろそろ休憩に入ってもいい時間だ。
そろそろ、ふたりに挨拶をしてから帰ろうか。
脚本を置いて立ち上がって伸びをする。ちょっと前に出てガラスの前に張り付けば、ライトに照らされる一人先生や、一也の顔が見えるだろう。さあ未成年は帰る時間よ、と現場を追い立てられるようにして、俳優、和久井譲介の一日は終わり、撮影所の廊下には、不満顔を晒してベンチに座る学生が残っているだけだ。
居残りの授業中のようにして台本を広げていると、マカロンみてえな頭だな、と言う声が頭上から聞こえて来て、譲介は目を瞬いた。
「TETSU、さん。」
おう、という声が即座に返って来て、「真面目に働いてるかァ、勤労少年。」とからかうような声で、頭がくしゃくしゃとかき回される。
「……マカロン、ですか?」
フランボワーズの赤、ピスタチオの緑、レモンの黄色。
譲介の知るマカロンというのは、そういう原色に近いカラフルな色だ。
この人はマカロンが何だか知っているのだろうか、と思って見上げると、「キャラメル味とか、ミルクティー味ってのがあんだろ。」と妙に美味しそうなものに例えられて、譲介は笑ってしまった。
この髪だと、昼日中に街を歩けば、悪目立ちするようになり、ここ二年ほどずっと仕舞いつけにしていたお守り代わりのキャップを取り出して頭に被ることが増えた。
また小顔が目立っちゃうわね、と母には褒められたし、以前のように黒に戻したいわけでもないけど、帽子を外して外を歩ける方がずっといい。
「そんないいもんじゃないですよ。この色落とすのにも、美容院に予約しなきゃならないし。」
その辺りは自腹なので、と咄嗟に取り上げた台本で半分顔を隠しながら言うと「そんくらいの苦労はしとけ。」と言う言葉の後に、悪いな、という言葉とともに、どっかと、隣に座る音がした。
「今日、出番あったんでしたっけ。」
「化けもんみたいな高校生ふたりが、ほとんどリテイクなしに収録を続けていくもんでなァ。どうせなら次のシーンまで撮っておきませんか、って監督に呼ばれたのよ。」
顔中に強いライトを浴びた後の、汗の匂いに、酸欠でもないのにくらくらする。
近い近い近い、と心の中で慌てながら、譲介は、心のどこかで、ここから離れたくない、とも思っていた。
「色、抜いてんのか?」
「ブリーチはしてないです。でも、元の色に戻さないと、これじゃ目立ち過ぎる。」
「オレがやってやろうか?」
黒に染めるだけなら何度かやったことがある、と言われて、譲介はとっさに「TETSUさん、ぶきっちょそうだから嫌です。」と言ってしまった。
言うじゃねえか、とからかうようにこちらの顔を覗き込んで来るTETSUは、不機嫌になったような様子もない。
ぼうっとなって年上の人の顔を見つめていると、そんなに眠いんならお子様は早く帰りな、と声がして、また頭を掻きまわされた。
「この色、手前で思ってるより、ずっと人気が出るんじゃねえか?」
妙に美味そうな色してっからなァ、とTETSUが笑うと、譲介は妙に嬉しくなってしまった。
「ちゃんと夜は寝ておけよ。」とTETSUは言って、ベンチから立ち上がり、また明るいライトの中へと戻って行く。
その背中を見ながら、もう少しこの色でいてもいいかな、と譲介は思った。


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