泡になって消えない

 名前を呼ばれた気がして、スヒョンは声がしたはずの方へと顔を向ける。頬に触れるシーツの冷たさが心地よく、二人の休日が重なったからと明るいうちから交わって脱力した身体はクーラーを効かせた部屋の中でもまだ熱かった。
 ベッドから少し離れたところで、水を持って部屋に戻ってきたデヨンがペットボトルの蓋をひねる。美味しそうにひと口ふた口飲む恋人は、今日スヒョンが着ていたボタンシャツだけを羽織っており、同居を始めたばかりの頃を思い出させた。
 特殊失踪専門チームが解散したのち、謹慎の身で職場にはいられず自宅にも帰れないデヨンを見かねて、チームの拠点だった一軒家で共に生活することを提案したのはスヒョンだった。元同僚と言うには近すぎて今よりは親密でなかった同居一年目、風呂上がりに一糸纏わぬ姿でバスルームから出てきたデヨンにスヒョンは内心で悲鳴をあげ、何か着てくださいと注意したあとも、着替えを忘れたのなんだのと言って度々裸で歩き回っていたけれど、恋人同士になってからはただの一度もそういう姿を見せなかった。
 だって恥ずかしいだろと打ち込んだスマホを見せて説明してくれたこともあったが、裸にシャツ一枚は恥ずかしくない部類にカウントされるらしい。ボタンを全開にしていても?恥ずかしがっていたらできないようなことをした後だから関係ないのだろうか。彼の基準はたまによくわからない。デヨンが聞いたらそれはおまえも同じだよと笑っただろう。
 スヒョンの視線に気づいたデヨンが、ペットボトルを軽く振って首を傾げる。スヒョンが頷くと、わかっていたとばかりに少し得意げな顔をしながらこちらへ歩いてくる。ベッドに戻りスヒョンの横に座ったデヨンは、ほどよく冷えたペットボトルをスヒョンの頬に当てて何か言いたげな顔を見せてから、少しだけ困ったように笑った。

 一年ほど前、突然喋ることができなくなったデヨンは、しかしそれ以外には特に変わりがないからと仕事もして、これまで通りの生活を続けている。
 心因性の症状だと医者は診断した。それ以外にないだろうと聞いた誰もが思ったはずだ。また話せるようになるのか、それともこの先ずっと話せないままなのかは、医者にも予測がつかないらしい。最愛の人が失踪してから幾度も季節が巡り、遺骨となった彼女を見つけるまでの間止まらずに動き続けた彼が、やっと足を止めることができた後のことだった。
 何年もの間、他の誰よりも近くにいたスヒョンだけが本当の理由を知っている。
 オ・デヨンはキル・スヒョンに恋をして声を失ったのだ。



「飲ませてくれませんか」
 デヨンいわく甘ったれたこの手のお願いを断られたことはない。しょうもない奴、とデヨンの表情が物語っているが目はあたたかで、おそらくスヒョンのことをかわいいと思っている。それはかつて子どものスヒョンに両親が、兄が、向けてくれた目によく似ている。一般的な人生とは言えない歩みの中でスヒョンが折れなかったのは、大いに愛された記憶があるからだ。慈しむ相手を見つめるどこまでも柔らかな瞳。それを家族以外で向けてくれる人に、初めて出会った。
 デヨンは飲みかけのペットボトルを差し出そうとして止まり、少し考えてからスヒョンには渡さずにもう一度口をつけた。黙って見上げていると、サイドテーブルにペットボトルを置いたデヨンがスヒョンの頬に手を添えて顔を近づけてくる。巻いたように波打つ癖っ毛が重力に従って、デヨンがそれを空いた方の手で耳にかけた。
 その仕草が好きだな、と思うのと同時に唇が重なる。瞼を閉じる前、露わになったデヨンの耳に指を滑らせると、ぼやけた視界の中で愛しい人が目を細めて笑った 。顔は火照って熱いのに水分を含んだ唇はひんやりして、やがてふたつ分の熱が混じり合ってぬるくなる。冷たい水が喉を少しずつ通りすぎていく。
 家族を失うまで愛されて育ったスヒョンには、デヨンがそれを指して "孤独な戦い" と呼んだ長い時間にも耐える力があった。それでも他者に理解されなければ心は渇いていく。そんなときに現れたデヨンは、スヒョンにとっての水だった。スヒョンが見ているものを見ようとしてくれた。目の前の人間の話にただ耳を傾けて、かわいそうな存在にしない。形を変えて沿うように流れる命の源。

 スヒョンの下唇をちろりと舐めて離れようとするデヨンの後ろ頭に手を回してもう一度口づけると、シャツがずれてむきだしになった肩が跳ねる。驚きに瞬いた目が伏せられて、スヒョンを迎えるようにうっすらと唇が開かれる。そっと舌を入れて相手のそれを絡めとり上顎をくすぐると、声にならない声を漏らしたデヨンの肘で支えられていた腕から力が抜け、スヒョンに被さるようにして潰れてしまった。一度中で達した身体は些細な動きにすら感じやすく、体温が低いデヨンの肌が普段よりも発熱している。
 抱きしめて体勢を入れ替えると、くるんとした毛先が真っ白なシーツの海に散らばった。気持ち良さそうに背中を反らすデヨンと目を合わせれば、ジェームス、と唇の形だけで名前を呼ばれる。ほんの少しかすれたような、囁きにも似た音で耳に届くその呼び方がスヒョンは大好きだった。異国の地で生きるために母から贈られたもうひとつの名前。デヨンが口にする度、それこそが本当の名前になっていくようだったのに。

 デヨンの声が出なくなり、スヒョンは遠い昔に読み聞かせてもらった人魚の童話を思い出した。しばらく後に公開された自国のアニメーション映画も海の向こうで観たけれど、子どものスヒョンには本で知った物語の方が心に残った。
 声と引き換えに人間になった主人公は愛した人と結ばれず、泡になって空へと昇っていく。
 デヨンは紆余曲折を経てスヒョンと結ばれてからも声が戻らないままだ。彼の場合は結ばれてしまったから戻らないのかもしれない。いっそ消えてしまいたいと考えたことはあるだろうか。見えないようにしているだけで、立っている足が本当は刺すように痛いのだとしたら。
 今も心に愛する人がいるデヨンを、スヒョンは愛している。その心ごと好きになった。デヨンの懐深さが人よりも多くを抱きしめ、また抱え込みもするのをスヒョンは身をもって知っているから、ただ一緒にいて、待っている。けれどこの先ずっと声が聴けなくたって構わない。
 あなたが生きているだけで。



 スヒョンがデヨンの首筋を唇でたどって吸い、吐息が触れるたびにデヨンが息を詰めるのがわかる。肌の柔いところに軽く歯を立てると、わずかに身を震わせて喘ぐように口を開き、音を立てずにはくはくと動いた。シーツの波を掻くようにして立てられた、右足の膝から下に指を滑らせてデヨンを見つめると、目尻を赤く染めて今にも泣き出しそうな瞳と目が合う。
 およそデヨンの印象からは想像がつかない、白くて細くて伸びやかな脚がスヒョンは好きだ。そういう処理を気にする人には思えないからもとより体毛が薄いのだろう。すべらかでとても綺麗だと思う。生活を共にするまでは知る由もなかった、たくさんの物事のうちのひとつ。
 ふくらはぎを上から下へなぞると、びくりと震えるデヨンが咄嗟に足を引こうとする。それを抑えて脛に、太ももの内側にキスを落とし、次いで点々と痕を残していく。いつだったか、仕事がある日の前夜でも首元の見えないギリギリを狙って痕をつけたがるスヒョンを止めようとして、完全に隠れる場所ならいつ付けたって構わないからとデヨンが譲歩したのを良いことに、スヒョンは絶えずデヨンのそこに痕を散らし続けている。
 唇で脚に触れながら思う、この人がもとから人間でよかった。それでももし、デヨンが本気で世界から消えたいと望むならスヒョンは一緒に全てを捨てるつもりだった。自分の信念に理解を示してほしいと望んだスヒョンに応えたデヨンは、彼の信念には蓋をして、最後は捨てた。だから今度はスヒョンが全部置いていく。きっとデヨンはスヒョンを連れて行きたがらないけれど、隣で生きると決めていた。
 かつて失踪者を追いかけた二人が失踪することを選んだとき、見つけられる人なんて世界のどこにもいないだろう。

 ふわふわと整えられていないスヒョンの髪の毛が優しくかき混ぜられる。デヨンを仰ぎ見れば、彼は自分の唇に人差し指でトントンと触れてからきゅっと口を結んだ。ツンとした上唇のせいでたまに子どものように見える。頼んではみたものの恥ずかしかったのかもしれない。デヨンはスヒョンにかわいいと繰り返して隙あらば甘やかすけれど、スヒョンだって年上の恋人をかわいいと思っているし、持てる限りの力でどこまでも優しくしたい。
 やっぱりやらなきゃよかった、みたいな複雑な表情をしている恋人の唇に触れるだけのキスをして覗き込むと、一拍置いてから綻ぶような笑顔になった。額にかかった髪をよけるように梳いてやり、そのまま顔に手を添えて指先でそっと撫でれば安心したように頬を寄せられて、スヒョンはたまらない気持ちになる。
 この人を悲しみの中で消える泡になんてさせない。
 じっと見つめるスヒョンの顔をデヨンが両手で包み込んで引き寄せる。言葉にしなくても、今スヒョンの中にどういう感情の色が渦巻いているのかデヨンにはきっと伝わっている。額から、頬、鼻先へと柔らかい慈雨のようにキスが降り注ぐ。
 穏やかに揺れる海にも似た瞳がスヒョンをとらえて、もう一度音もなくその名前を呼んだ。

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