デイブレイク、睦言も狂言も根は同じ
※数年後、喫煙描写、過去の相手の匂わせあり
ナイトテーブルに水を用意しておくのを忘れたとしても、煙草とライターと灰皿だけは一度たりとも忘れたことがないのだ。引き出しの奥に隠すように仕舞ってあるコンドームの箱と、サイズも重量も似通った煙草の箱は、行為に耽る片手間にテーブルを探る指先には区別がつくはずもない。夢中で手に取ったら煙草の方で、中身をベッドにばら撒いたことだって、一度や二度じゃない。馬鹿だろう。馬鹿だよな。それで俺が臍を曲げて、直前までアホみたいに盛り上がっていたセックスを放り出して狸寝入りを決め込んだって、あいつは懲りずにナイトテーブルに煙草とライターと灰皿を置く。やはり馬鹿なのだ。正真正銘の。
例によって。天城はベッドの縁に腰掛けて、さっそく火を点けていた。おい、何度も言ってるでしょう、部屋で吸うなら窓を開けろって。ぴょこ、と片眉をはね上げて振り向いた天城がそそくさとベッドを下り、掃き出し窓を開ける。カーテンは閉め切ったままだけれど、室内に滞留していた空気がようやく動き出した。熱帯夜。通り過ぎてゆく風も大概湿気ってはいるが、この部屋よりは幾分かましだ。空調の温度を下げるのも忘れて汗みずくになって没頭して、何回出したかも出されたかもわからないまま、気づけば朝の四時。ああ、俺もあんたも大馬鹿だ。今日が休みじゃなかったらぶちのめしてた。
紫煙。肌を重ね合わせるたび儀式のようにもたらされるそのにおいに、もうすっかり馴染んでしまった。本数よりも頻度よりも、習慣づいてしまったものをやめるのが難しいのだ。たとえば、食事のあと。朝起きてすぐ。天城燐音の場合はセックスのあとであり、俺の知る限り欠かしたことはない。そしてそのことは、たぶん俺しか知らない。こいつは表向きには非喫煙者で、かつ、同じ相手と複数回寝ることは“余程のことがない限りあり得ない”そうだから。ではなぜ決まってこういう時にだけ喫煙するのか。理由を尋ねたことはなく、さしたる興味もない。興味がないから、俺はあついとだけ呻いた。
煙草を摘んでいない方の手が空調のリモコンを探り当て、ボタンを押す。ピ、ピ、ピ。かたくなに電気をつけないのが、俺への配慮とかなら笑える。はじめてでもあるまいし。節の目立つ大きな、それでいて綺麗な手が、夜明け前の薄暗がりにぼうっと浮かんでいる。男らしいそれが汗で湿った俺の髪をぐしゃぐしゃと乱して、また定位置に腰掛けた。
「ほれ、19℃」
「このまま寝落ちしたら確実に風邪ひくな……」
「そん時ゃ俺っちが風呂入れてやるから寝落ちていいぜェ〜」
「嫌ですよ。あ、窓、それ吸い終わったら閉めて」
「はいはい」
わかってますよォ〜とだらしなく間延びした声。同時に吐き出される、煙。副流煙。肌を重ねればまた、染み込むにおい。壁紙に。カーテンに。寝具に。そうして真っ白い煙は俺の肺までも真っ黒に汚していく。ねえ天城知ってました? アイドルなんですよ、HiMERUたち。朝まで汗だくセックスして、やることやったらヤニ吸うアイドル。イメージ通りか。はは。
「あっおい」
「……」
「吸えンの?」
「……」
「ちょっ……肺入れなくていいから早く吐け! フゥ〜ッて!」
「うるさいですね」
天城の指から華麗に攫ってくちびるに挟んだ煙草。すう、と静かに吸い込むと馴染んだ苦味とえぐみが口内を、肺を満たした。ああ、キスする時の味だな、なんて。顎を上げ、天井を狙ってゆっくりと煙を吐き出す間に、思い出したのはそんなこと。失笑が漏れた。天城はと言うと、恙無く吸って吐いてみせた俺を、顔いっぱいに困惑を浮かべて眺めていて。そういえばこいつに話したことはなかったか。
「……なんだ吸えンのかよ」
「いいえはじめてですけど?」
スパ〜、と今度は奴の顔面に特別濃いやつをお見舞いしてやる。ヴェ、と本気で不快そうな声が上がって、俺はとても気分がいい。
「いやもっとマシな嘘つけよ、はじめての奴はンな吸い方しねェの。これ重いンだよ。絶対ェ喉やられるし今のおめェみてェに涼しい顔してらンねェの、普通は!」
「まあ、HiMERUなので」
「HiMERUって便利ィ〜」
知らなかった、と呟くトーンはどことなく沈んで聞こえて、視線を向ければ本当にちょっと傷ついた表情をしていたから驚いた。天城がこんな風に隙だらけだなんて珍しい。へこんでる? 俺が煙草吸うって知ったから? 清楚系売りしてる推しのスキャンダルが発覚した時のガチ恋ファンみたいな面しやがって。この男のこういうところが心底面倒臭くて、時々憎らしくて、堪らなくかわいい。俺に夢見すぎだってまだわからないのだろうか。そして好きな男に勝手極まりない夢を見ておいて、その上で抱くのだ。矛盾してやしないか。奴の中では筋が通っていると言うのなら、是非ともその論拠をご教示願いたいものだ。俺が意地の悪いことを考えているのに気づいてか、天城はやや気まずそうに視界から消えてしまった。十数秒経ってドアの向こうから現れたその男は冷蔵庫から出したばかりのミネラルウォーターを手にしており、その目元にはもう翳りはなかった。考えてみれば、あれだけ汗を流したあとで水分補給もせずヤニばかりを摂取してたわけだ。まったき馬鹿である。俺もあんたも。
天城の愛煙している国産の銘柄が重いのは確かで、メンソールで誤魔化してすらない吸い味は実際、慣れていないときつい。喫煙自体久しぶりな俺にとっては別段美味くもなんともなく、それでも横で吸われるとつられて吸いたくなるのだから、ニコチンの依存性というやつには恐れ入る。……依存性があるのはニコチンだけなのかって? ノーコメント。
「吸いてェならもう一本やるからそれ返せよ」
「いらない、これがいい」
「ハァ〜? おま、何……なんかムラムラしてきた」
「ちょっと、窓閉めてくださいってば」
覆い被さってきたそいつの肩を押し返そうとしても、指先に火種を挟んでいてはろくに抵抗できない。アイドルの大事な身体に根性焼きを入れたいわけじゃない。俺の手からすんなり煙草を奪って名残惜しそうに最後のひと口を吸い込んだ天城は、それを灰皿で揉み消すと反対の手で俺の顎を掬い、深く口づけてきた。濃密な煙を人工呼吸でもするみたいに口移しで与えられて、くらくらした。もっかいしよ、これで終わりにするから。酸欠による酩酊感の中、脳髄を痺れさせる距離で囁かれる甘言に耳を塞げるほど、俺の理性は強靭じゃあない。残念ながら。
「……っふ、ぐ、げほッ、癖になったら、どうする、馬鹿」
「フフ、気持ちよくねェ? ヤニクラ」
「俺の知ってるヤニクラと違う」
「ぎゃはっ♡ こんなのはじめて〜ってか」
「ん、ァ、こら」
俺を抱き締める不埒な両手は背骨を伝い降り、尻を鷲掴んで左右に開こうとする。とろりとなかを伝う感覚は潤滑剤の残滓か、うやむやにされた中出しの末路か。ともかくそんなものにも感じてしまうくらい、どこもかしこも敏感だった。ローションは足さなくていい、ゴムもいらない、このまま。はやく。いやいや窓だろ、とこのタイミングで窓を閉めにいく。性格が悪すぎる。再び重なりにきた身体の、表面は冷えている。ぎらぎらと底光りする瞳だけが異様に熱を帯びて、違う、口の中も熱かった。ああ、この男は。
「する? もっかい」
この男は、俺に望まれたいのだ。惰性と狂言とヤニにまみれて薄黄色く汚れたこの部屋に本物と呼べるものがあるとすれば、それは互いの膚の下の体温に他ならない。触りたい、舐めたい、なかに入りたい、おまえがほしい。おまえも同じだって言って。触れ合ったところからじわりじわりと滲み出す欲望だけが真実。応えない理由などなく、する、したい、と上擦った声で甘えついた。俺も、あんたがほしい。受け入れるためにあんたのかたちに開いた身体は、ただひとりだけを待っている。
メルメルのはじめてを俺っちもさ、いっこくらいは貰いてェわけよ。男がそんなことを口にした。いよいよ馬鹿だな、あんたは何もわかっちゃいないよ。濡れた肌どうしが滑るのも、火傷しそうなほど熱い吐息が耳に降りかかるのも、あらぬところをのたくって這い回る舌の感触も、腹のなかをめちゃくちゃに暴かれて濡らされるのも、服を脱ぐのも。行為に至るまでの遊戯じみた駆け引きも、きっと誰もが顔を顰めて煙たがる後朝でさえぜんぶ、あんたとなら気が変になりそうなくらい気持ちいい。こんな風に入れ込んだのは悔しいがはじめてなんだ、言ったことなかったっけ。言ってなかったかも。じゃ言ってやろうか、今から。飽きもせず俺のなかを出たり入ったりする天城の首にもうあまり上がらない両腕で齧りついて、色っぽい鎖骨にくちびるを寄せて。
「ぁ、まぎ、あまぎ……」
「ッ、うん」
「こんなきもちいいの、はじめて」
「うァ、おい! 出るかと思った今!」
顔を首まで真っ赤にした天城がぎゃんっと吠えた。俺の方は咥え込んでいるものの角度が変わった弾みで、イキっぱなしのなかがまたきゅうと締まって深くイッた。そろそろ死にそう、いや冗談じゃなく。
「おめェな、はあ、まァたそういう嘘つく」
嘘じゃないのだが、でも天城がそう思い込んでいたいうちはそれでいいんじゃないですかという気もする。つまるところは大体こいつ次第。夏の夜は短く、東の空は拙速に白んでゆく。ふたり自堕落に身をやつして迎える朝をお天道様が嫌っても、この脆弱な砦で睦み合う俺たちにはなんら関係のないことだ。
(燐ひめ利き小説企画お題『はじめての、』)
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