はつ恋製作所の顛末

 星が流れ落ち、戦いがあった。世界が七度の誕生と死をむかえたかのような戦いがあった。その後に残された友愛の物語は永遠となった。その後に残された賠償の物語は記録にない。
 繁栄を極めた都市に戦いの爪痕は残され、損害賠償を銀に換算すると降るような星の数でもおさまらない程となった。王は泥人形との友情を寿ぎ、これを肩代わりして、金利もおまけした。国家への借金が王への借金となった。物語はそこから始まると思っていただいて差し支えない。始まらないのが最良ではあったにせよ。

 私は十四番目の世界で彼に出会った。
 彼の姿は王様のようだと思った。一度も見たことのない、遠い国のお城で気儘にふるまう、傲慢で天衣無縫な王様。
 私は海岸に歯磨剤の材料を集めるために海岸に来ていた。砂浜で海に洗われた砂を集めていたときにふと顔を上げる。浅い海に浮かぶ舟が見えた。
 筋骨の発達した美しい体が舟の縁を蹴って跳ね、きれいな弧を描いて海面に突き刺さる。彼は美しく身をしならせてから浮上し、水と空のあわいを泳ぎはじめる。大きなてのひらが果実をもぐように水を掴み、体にかき寄せて放擲する。散る飛沫はすべて白い花弁のようだった。
 そうやって彼は海で泳ぎ、水を遊び尽くし、きらめく水面に仰臥してしばらく天を見つめていた。彼が海岸にあがってきたとき、すでに陽はかたむきはじめていた。夕陽で黄褐色に染まった髪が燦然と燃えていて、濡れた体は神像のようだった。海岸には彼の仲間と思われる男たち、女たちがたくさんいて、水からもどった彼をとりかこむ。彼は饒舌ではないようだが、艶のある声はよく通り、彼がひとこと発するたびに周りの者たちは楽しげに笑いさざめいた。男も女も、みなが彼に傅き、寵を得ようと努めている。
 ささやかな王国をひきつれて、ぞろぞろと海岸を歩く彼が、砂を拾う私のまえで立ち止まった。私は彼を仰ぎ見る。どこか酷薄な美しい顔。その美しい凶兆のような顔に、なぜか性的な興奮を感じた。ほかの皆も同じだったのかもしれない。息を潜めていた誰かが、空気を弛緩させるために下品でつまらない冗談を言った。その言葉はむなしく海辺に漂った。
 彼は突然、哄笑を放った。つまらぬ冗談を片付けるような明るい笑い声に、皆が併合していっせいに笑う。彼は私の肩にごく自然に腕を回してきた。
 たまたま近くにいた私を引き寄せただけだとわかっていた。つまらない冗談で悪くなった空気を打ち消すための動作のひとつでしかない。それでも、私の体の中の甘やかな水が揺れる。衣服の薄布越しに感じる彼のてのひらは大きく、熱かった。周囲の羨望の視線が痛いほどに全身に刺さり、強烈な優越感で目が眩むようだった。
 彼が誰なのか知らない。王様のようだと思った。
「オレは君のことを好きになったみたいだ」
「ワタシは『あなたの好き』より、好きだと思う」
「オレは、君の『オレの好きよりも好き』より、好きだと思う」
「ワタシは」
「オレは」
 だめだ、稚拙なループに入っている。私の思考回路にノイズが走る。瑕疵があるのだろう。プログラムが単純なループに入ってしまうと、演算能力をフルに使い始めてしまう。
「これ、手動で停止しないと」
 私がそう言うと、彼も困ったように眉を寄せて頷いた。
「肯定的に会話を進めるようにした結果がこの有様か」
「いやでも、まだ実験段階だから」
「十四回目でもこんな単純なことで破綻する」
 彼のため息と同時に夕陽の海は描写を停止し、私たちの会話は中断された。私たちを記す文字も止まった。
 ふいに静寂がおとずれ、なにもかもが前と同じになる。

 浅い泥沼はもうまったく動いていない。

 そこに綴られていた文字も消えて、小さなさざなみひとつ立っていない。

 泥沼は大きな木々に囲まれていて、そのうちのひとつは水面に細い枝を垂らしていた。小さな黄色い葉が枝にびっしりとついている。黄色い葉の間には何か鮮やかな赤いものが見え隠れしていた。水面に触れるほどに重そうに枝をしならせている赤色のなにか。枝の先で揺れているいくつもの筆記具。目をこらしてもっとよく見れば、様々な色や形のペンが枝という枝に結びつけられていることがわかるだろう。
 そこにあるすべてが静かで、もはやまったく動かないように思えた。
「また失敗だな。会話を肯定する処理を付け加えたのはよいが、人の会話ではない」
 いちめんの黒と灰。それが泥沼の色だった。溶岩流が冷えた後のなめらかさを思わせる泥沼の縁で、ギルガメッシュは肩をすくめた。朱と金の衣に舞うきらびやかな花と鳥が揺れる。
 さきほどまで正確な、刺し子の運針のような、規則的で細緻な反復により文字が刻まれていた黒灰の沼地を見下ろす。いまは、生起するものはなにもない。海岸も、男も、女も。交わされた言葉も。
「どうすればよかったのかな」
 エルキドゥは沼を覗き込む。ぬるりとした生ぬるい感触が鼻をくすぐり、ぽた、と一滴の血が沼に落ちた。そこでようやく、過負荷によって鼻血が出たのだと気づいた。エルキドゥは服の袖で鼻を拭こうとしたが、ギルガメッシュに腕を掴まれる。彼は懐から出した手拭き布でごしごしとエルキドゥの顔を雑に拭いた。
 エルキドゥは口の中で「人の会話ではない」と静かに転がした。ギルガメッシュがさきほど口にしたことだ。人の会話を作れなかったから、沼に綴られた十四番目の世界は破綻した。
「繰り返しに入ると判断したら会話を中断させればよい。そのうえで、繰り返しを回避する処理を導入して、突拍子もない会話を挟むようにする」
「突拍子もない会話を入れても問題ないものかい?」
 エルキドゥの疑問に、ギルガメッシュは直接は答えなかった。彼はなだらかな沼を指さす。さきほどまで大量の文字が刻まれていた泥のかたまりだ。
「綴りの誤りが少なすぎる。いや、誤字は一切なかった。人は文字を誤り、文法や前置詞などを間違える。四百分の一の頻度で誤りを織り交ぜる処理を追加しておけ」
 ちいさく頷きながら、エルキドゥは泥沼を覗いていた。思春期に入りたての少女の姿が黒い鏡のようになったなめらかな泥に映る。よれた質素な白い衣。長い萌黄の髪。組んだ腕は細く、拗ねたように目を細めている。処理の負荷でほてった頬が赤い。
「時間切れだ、いくぞ」
 ギルガメッシュが泥沼を離れる。エルキドゥは目を伏せて思考を整理し、泥に論理処理を追加してから、男の後を追った。

 書斎は円柱形の建物だった。なかは吹き抜けになっていて、内側の壁は粘土板が収められた書架になっている。内壁に沿って螺旋軌道があり、薄青い光が這っている。部屋の中央にある制御盤で目的の情報を指定すると、青い光が螺旋のうえを回転しながら移動し、目的の情報が記された粘土板まで達すると、その情報のコピーを制御盤に映し出す。
 ギルガメッシュは制御盤に頬杖をつきながら、映し出された書類を読んでいた。静かな書斎でそのようにしていると、まるで姿勢悪く卓について寛いでいるようにも見えるが、瞳に淀みはない。少ない調度品と積み重なる記録。王の書斎はただしく王のためのもので、招かれでもしない限りは王以外が足を踏み入れることはない。没頭と集中のための知の集積所だった。陽光すら近付かない。
「実用化は遠いな」
 ギルガメシュは視線を書物から動かさずに呟く。内壁に収められた粘土板を見上げながら、エルキドゥはそっとため息をつく。
「うまくいくと思ったんだ。いや、いまも思っている。少なくとも、歯磨材を売り歩くよりは期待ができそうだと」
 円形の建物のまんなかで、天を仰いで呟く。そうしているとここに収められた様々な情報に押し潰されてしまいそうな気分になる。あらゆる知が体になだれ込んできて、息ができなくなるような錯覚があった。
「それは認める。おまえにしては妙案であるが故に、我も成果を見届けてやると口約した」
 債権者の言葉は重い。エルキドゥは書架となっている壁を指でなぞる。情報検索を補助する小さな文字が刻まれていて、指先に言葉がとどく。あいかわらずギルガメッシュは書物から目を離さない。寛いでいるようにも見えるのに、視線は過去の記録を追い、脳は王の責務のために働いている。
 エルキドゥは壁にもたれて先ほどの泥沼の文字を思い返す。会話を交わし、男女がお互いに興味を持ち、肯定的な言葉をやりとりするまでは問題がなかったはずだ。あの海岸で「私」は自分に対しての好意が確信できない相手であっても好ましく感じて会話をしたいと思えるようになっていた。成功といってもよいだろう。だが実際は、演算処理が過剰に走ってしまい、ギルガメッシュからは「人の会話ではない」と評価されてしまった。
 視線が吸い寄せられるように、エルキドゥはぼんやりとギルガメッシュを見る。まだ体が熱を帯びている気がする。何度目かのため息が零れた。
 そっと目を伏せると闇は涼しく、夏の暑さを忘れさせた。もう夏は真ん中まできている。ふたりが出会ったのは春が始まるころだったのに。
 借金、負債、債務。なんでもいい、同じことをいっている。エルキドゥには決闘によってウルクに損害を与えた負い目がある。対峙していたギルガメッシュにしてもそれは同じことなのだが、彼はウルク王であり、削れたものを元に戻す能力も権力も財力もある。屋敷は薄暗い涼しさで、外の苛烈な暑さから王を守ってくれていた。その涼気はひたひたと打ち寄せる水のようであり、くるぶしを絡める負債の鎖のようでもあった。

 借りた金は返さなくてはいけない。では、どのように。
 ギルガメッシュは難しい条件はつけなかった。ただひとつ「己の身に値をつけることは禁ずる」とだけ言った。それはシンプルで非常に重い枷であったが、変幻自在の泥人形にこれ以上ないほど適切な条件となった。たとえば人形が大地と一体化してその周辺を塩の沙漠に変えたとしよう。塩はいつでも価値が一定しているため銀の代わりに物価交換の基準となることもある。その塩で沙漠ができてしまえば、塩の価値は変わり、多くのものが影響をうけるだろう。おなじようにして、翡翠に似たもの、瑠璃に似たもの、蛋白石に似たもの、瑪瑙に似たものに変じて、その断片を切り売りすることもできるだろうが、これもやはり禁じなければ混乱を生む。ああそうだ、と思い出したように王は付け足した。仄暗い部屋で寝台に膝を立てて腰掛け、紗の上衣を肩からかけた裸形が灯りを捉えて煌めいていた。女たちが飲み物をご所望ではないかとか、なにくれとなく世話を焼いている。ああそうだ、その躯のままであっても同じことだ、と王は言った。己の身に値をつけるな。女たちは首筋に汗を輝かせ、媚態を漂わせていた。薄暗い情交の香りが甘く満ちていた。
 はじめは、果実を仕入れて売ろうと思った。果物ならば誰もが欲しがるだろうからうまくいくだろう。一時的に借金を増やすことにはなったが果実を仕入れて、ウルクの街で売り歩いた。多少は売れたが、それは仕入れた金額と同等にしかならなかった。果物を卸すルートは既にできあがっており、良い果実は長年の信頼関係がある店が優先的に仕入れるようになっていた。突然の横入りでどうにかなるほど都市の商売は甘くはない。それならばと、仕入れに労はかかるが財は必要とされない歯磨き粉を売ることにした。粗砂と骨と灰と植物で作る歯磨き粉は、街で売り歩いていると、食事の後にちょうど欲しかったのだとよく声をかけられた。うまくいったように思えたが、労の割に利益が薄かった。このままでは何千年も歯磨き粉を売り歩くはめになる。
 エルキドゥは素直に困っていたし、なんとか借金を返したかった。ギルガメッシュは実のところどうでもよかった。ウルクへの損害などは自分自身で賄えばよかったし、そのために少々忙しなくなっても一時的なことだった。財に困ったことなど一度もなかったし、これからもないことを知っていた。だから、まあこれは、透明な水に落とされた陽射しによる影の如き網なのだ。実体のない、蹴れば飛沫となる枷にすぎず、森に戻らずに暫くウルクに繋ぎ止めることができればそれでよかった。隣にいて欲しい、などとはお互いに口にしたことはないし、これからもないことを知っていた。
 商いはいろいろと試してみたが、歯磨き粉以上の利益を出すものはなかった。エルキドゥが商売を理解していなかったというのが一番の理由ではあるが、ウルクの民が王の友と金で結ばれるのを拒んだからでもある。彼らは森から来た神の人形を俗世間の汚れひとつない非常にきよらかなもの、幼い頃の思い出のように心の奥に飾っておくようなものとして扱った。金をやりとりする相手にはしたくなかったのだろう。
 金策に悩む神の人形という、本人としては大真面目だが端から見ると間抜けな状況が続いていたある日、エルキドゥは粘土板の文字を読むギルガメッシュを見て思いついた。それはいつもの執務の風景にすぎなかったが、そこに人形と人の差を見出した。
 人は、文字を書いて、言葉を伝える。
 ウルクは書き文字の生まれた地であった。尖筆によって書かれた細い線が組み合わさり、言葉を表す。いまだに正しい文字を記すことは限られた者のみではあったが、粘土の固まりや細い線で粘土板にものを書くのは国中で行われている日常動作だった。
 文字で会話をすることは人だけが行う。
 泥人形は天から森に堕とされた。降るような星空のただなかに産み落とされ、森の底で番人の怨嗟の声を産湯として起動した。口をきくよりもずっと先に、言葉を泥に染み込ませるのを覚えた。森の獣たちは文字ではなく匂いや鳴き声で会話をしていた。よって文字はウルク王の隣にきてから、はじめて目にした。文字で会話をするなんて思考の埒外だった。
 これだ、と思った。人は文字で会話をするのが大好きなのだから、それを売り物にすれば良い。歯磨き粉よりもさらに労力はかからないし、人間にとって他者との会話は最高の娯楽なのだからきっと仕事になるはずだ。天啓ともいえるかもしれないが、天はそんなひらめきを与えた覚えはない。
 さっそく、エルキドゥは友に情報伝達のための道具を借りた(「壊さないから、ちゃんと返すから」)。こっそりと解体して仕組みを把握し、二枚の粘土板に組み込んだ。こちらの粘土板に文字を書くと、もう一方の粘土板に同じ文字が刻まれるようにした。POPサーバとSMTPサーバはプロバイダの@マーク以下の部分を入力し、サーバのポート番号はギルガメッシュに教えてもらった通りにする。POPはポスト・オフィス・プロトコルといって文字を受け取る仕組み。SMTPはシンプル・メール・トランスファー・プロトコルといって文字を送る仕組み。ええとあとは何だっけ。泥人形は双方向粘土板通信の準備を進めていた。わからないところは、とりあえずデフォルト設定にしておこう。
 セットした通信用粘土板に文字を書くと、暫くして隣に置いた別の粘土板に文字が浮かび上がる。
「これで会話相手を求めている人が、離れたところにいる同じように会話を求める誰かとやりとりができる。粘土板と尖筆を貸し出して、あとは利用量によって値をつければいい」
「……まあ、試作品を配布して意見を求めてみればよかろう」
 王は口の中に苦いものでも含んでいるかのように言った。エルキドゥはひとまずは王宮に出入りする者を対象にして、通信用粘土板のレンタルを開始した。目の前にいない人とも筆談で会話ができるし、手紙を運んでもらうよりもずっとはやくて安価。会ったことのない人ともお喋りができる。新しい友達が作れるよ。どんな人と文字会話をしたいか教えてくれれば、利用者のなかからぴったりな人を選んであげるよ。
 結果は無惨なものだった。利用希望者の多くは男性で、異性との会話を求めていた。
「案の定だな」ギルガメッシュは項垂れる友を慰めることもなく続けた。「音声によらない会話は妙案だが、こういったものの利用者の男女比率は均衡しない」
「どうすればいいのかな……」
「試用期間終了まで、おまえが女のふりをして筆談に応じてやるしかなかろうよ」
 そんなわけで、エルキドゥは素性を伏せたまま王宮に勤める男達とせっせと粘土板のうえで会話をした。途中で随分と文面が怪しくなったので、王が手伝ってやった。ほんの数日だったが人間と接することに不慣れな泥人形はぐったりしてしまった。
「でも、これでみんながどんな会話を求めているのかはわかったよ」
 彼らのほとんどは異性(ときには同性)と他愛なくも肯定的な言葉のやりとりを求めていた。たとえば、今宵の星がうつくしいと言葉が送られてきたら、粘土板を抱えて空を見上げて、ほんとうにそのとおりだと返事をするような。
 なかには会話相手の容姿が気になり姿を見たがる者、会うことを強く求める者もいたが、これは提供しなかった。エルキドゥが筆談の相手をしていたから不可能だったのもあるが、売買春に転用されることは避けたい。ウルクには娼館が多くあり、それらが競争相手となると問題がある。
 ギルガメッシュは文字会話システムの構想にあれこれ助言をしてくれた。エルキドゥの借金返済なのだから彼が扶ける必要はないのだが、単純に新しい玩具への好奇心が勝った。実のところ、当人にも無自覚なわずかな庇護欲もあった。人の暮らしを真似しはじめたばかりの人形は、多くの会話を処理していくことで漠とした不安にとらわれているようだった。人の会話をじっくりと見つめると、渡すつもりのない言葉や偶然の言葉、見たことのある用意された言葉が渾然となって運ばれてくる。渡されたものを受け取って、適切に返すことに、生まれたての感情の導線が絡まって負担になっているのだろう。
「女のひとを雇って、利用者のふりをしてもらうのはどうかな?」
 利用客の男女比率が均衡しない場合は「さくら」をアルバイトとして雇うことで解決することができるとエルキドゥは考えた。ギルガメッシュはこれには首を横に振った。人を雇用するのはエルキドゥが想像するよりもずっと金がかかるし責任も大きい。人を使うことよりもずっと楽だから、道具が作られるのだから。
「会話を長引かせる手法を考えろ、この文字会話は利用が長引くほど徴収できる仕組みだ」
「じゃあ、受け答えを曖昧にして長時間利用してもらえば良いのかい?」
「いや、会話を中断させる」
「どういうこと?」
 会話を中断してしまっては、金を払ってもらえない。
「こういったものはな、夢中になって異性との会話に没頭していても、あとから請求額を知って冷静になるのだ。金を遣いすぎてしまったと思い解約するだろう。利用者の資金が底をつくまで一気に金を巻き上げては長続きしない。会話が途中で中断し、ほどほどの請求がだらだらと長引くことで利用者に遣いすぎの反省をさせない」
 そうやって固定客を掴む必要がある。異性客を相手にする場合はそこらの娼館でも似たようなことはやっているぞ、とギルガメッシュは言った。参考になるなと思ったが、どうしてそんなこと知っているのだろうとエルキドゥは首を傾げた。もしかして体験談ですか。
「でもそうなると、僕がこれからも女の子のふりをして代筆作業をしないといけなくなるな」
 しかも、男性客が求める理想的な女性を演じ、且つ利用量を増やすための会話能力が必要とされる。
「ギル、僕の代わりに女の子のふりをして……」
「却下だ、阿呆」
「まだ言い終わっていないのに」
「聞く耳持たぬぞ、おまえの仕事だ、おまえが働け」
 ギルガメッシュは言い捨てて執務に戻っていく。だって試用の際に手伝ってくれたときは随分と女の子の筆のふりが巧かったじゃないか、とエルキドゥはくちびるを尖らせた。よくない態度を咎めることもなく、ギルガメッシュは口角を上げる。
「なかなか見所があったぞ、文字会話というのは」
 声は優しく、果実を手渡されたようだった。ずしりとした甘い重みが心地よく思えるような。しかし、省略された続きをエルキドゥは理解している。文字会話を売るという案は愉快かったが、実用化は難しく、地に足のついた仕事にはならない。駄々をこねる子供を宥めるような優しい声に、心が火照った。
「うまくいくと思ったんだ」
「文字は記録と伝達のために生まれた。他愛ないものは文字にすると少々綻ぶのだろうよ」
 言い方の剣呑さとは裏腹に、ギルガメッシュの瞳は寂しげだった。せっかく美しい果実を手にしたのに、口に運ぶ前に儚く崩れてしまったみたいに。その寂しさがエルキドゥの胸に沁み入ってくるようで、混乱してつい俯いた。
 おおきな約束や、切実な契約は求められていない。ただ振り返ればあの時の会話が楽しかったのだと思えるような、やさしい言葉のやりとりが求められていて、でもそれは想像よりも組み立てるのが難しい。試用期間中に素性を伏せて粘土板に言葉を綴るのは、想像よりもずっと難しいことだった。
 人の言葉は人でないモノには難しい。もしかしたら、人にも難しいのかもしれない。自分の言葉で人の心を揺らす自信がなくて、怖くて、言葉の責任を担保してくれるなにかが欲しくて、みんなが認めるお墨付きの言葉を借りたくて仕方がなかった。多くの人に使われてきた言葉を使えば、どこかでそれを読んでいる利用客との関係も安全に保っていられるのにと思った。ギルガメッシュが手伝ってくれたときは安堵で胸の奥からぽこぽこ綺麗な空気の泡がのぼっていくようだった。
 保証された言葉で、その場かぎりの優しさを提供することが、どうしてこんなに難しいのだろうか。一緒にごはんを食べたり、どこかに遊びに行ったりするわけではない。そんなことですらない。重要度のヒエラルキーには割り込まないはずの文字だけの会話相手にも、人間は特別な重さをもたせようとする。文字の先にいるであろう他者に気持ちを寄せようとする。
 残念だったな、とギルガメッシュが言った。それでこの話はおしまいだというように。
 押しつけない、詮索しない、肯定する、寄り添う、尊重する。そんな決まり事を筆の先に満たして粘土に刻む。そういう言葉を操縦していると、どこにも自分の言葉がないような気がしてくる。頭が朦朧としてきて、筆を握る手の先からぼろぼろと泥が零れてしまうように。
 そうだ、彼の言う通りだ。残念だった。それでおしまいにすればいい。
「……文字が自動的に会話をすればいい」
 言うつもりのない言葉が零れた。ギルガメッシュは振り返って、片方の眉をあげる。ゆっくりと息を吐いてこころもち背筋を伸ばした。その仕草はもしかしたら、彼なりの正面から声をきくことの宣誓なのかもしれない。
「僕では適切な会話が続けられない。僕ひとりでは利用者の不均衡に対応できない。だったら、文字そのものが会話相手になればいい。自在にうまれて刻まれる文字が人のように言葉を綴ることができれば、それは人と語り合うことと同等の価値を生むはずだ」
「存在しない者と会話をさせると?」
「存在はしているよ、粘土の上にだけ。ひとつながりの手順、入力した情報に対して出力する処理が適切ならば、人と区別がつかないだろう」
 実際に、試用段階ではエルキドゥが素性を伏せて文字会話の相手になっていたが、それに気がつかれた様子はない。もしかしたら薄らと相手が希望しているような女性ではないかもしれないと思った利用者はいたかもしれないが、大きな不満や破綻はなかった。やりとりされる言葉さえ適切ならば、相手が誰であろうとも会話を楽しめるし、文字の向こうの姿なき誰かに好感をいだける。
「泥に会話に必要な情報を保持させて、そこから利用者の粘土板に文字を飛ばす」
 会話プログラムをつくり、泥に演算させる。破綻のない会話システムを構築すれば一度にたくさんの利用者と会話が可能だし、理想的な会話相手を演じても負荷がかからない。
「できるのか?」
「やってみる」
「その演算をする泥はどうやって調達するのだ」
「僕」
「……禁則がわかっておらぬようだな」
「泥自体を売るわけではないもの、問題ないだろう?」
 ギルガメッシュは額に薄くしわを寄せて暫く黙っていたが、舌を動かすのも億劫という様子で、低い声で「すきにしろ」と唸るように言った。突き放したような、それでもやわらかなまなざしにエルキドゥは頷いた。


 瞼をあげると同時に我に返った。
 王の書斎は薄暗く、青い光が内壁を巡っている。空のずっと高いところ、天よりもはるか彼方はこのような風景なのかもしれない。どこかで夏の花の香りがした。
 いまだにエルキドゥが構築しようとしている会話プログラムはうまくいっていない。書斎の近くの沼を演算泥のプールとして巨大な粘土板代わりに使用している。木の枝に吊したペンが泥沼に文字を刻み、離れたところにある粘土板と文字を送受信することはできていた。会話がうまく続かないのだ。テスト起動の度にひどい誤りがみつかるので実用化は遠い。今日までに十四回も失敗をしている。
 エルキドゥが何度目かのため息をついたとき、この書斎に近付く者がいることを制御盤の近くの光の点灯が知らせてきた。
「誰か来たよ?」
 その声を合図にしたかのように、制御盤で記録文書を読んでいたギルガメッシュは視線を文字から離し、かたまった体をほぐすように上体を伸ばした。
「少し休む。つきあえ」
 休憩のための飲み物でも運ばせているのだろう。まもなく書斎を訪う女たちがあらわれて、水瓶と小ぶりな壺と器をてきぱきと並べて帰っていった。エルキドゥが壺を覗き込むと、ざく切りにされた何種類もの鮮やかな果実が透明な甘露に浮かんでいる。杓子で壺の中身をかきまぜて、色鮮やかな果肉をたっぷりと掬い上げて器に入れる。底からは気泡が美しく立ち上がっていた。
「おいしそう」
 器を目の高さまで持ちあげて、果肉の輝く海をみつめる。こんなに鮮やかな飲み物ははじめてだった。甘露をしげしげと観察しているエルキドゥの隣で、ギルガメッシュはさっそく器を傾けていた。涼しい書斎でも苛烈な夏の気配は振り払えない。彼は衣をはだけて上体をさらしていた。痩せているのに不思議と精悍で、そうでありながら禁欲とは遠い躯だ。首筋から胸板にかけて汗で濡れていて、器からこぼれた甘露が混じる。書斎の内壁を這う薄青い灯りで汗粒のすべてが光っている。
「どうした?」
 声をかけられてエルキドゥの肩が軽く跳ねる。気づけば不躾な視線をおくっていた。不行儀を誤魔化すように冷えた甘露を飲む。舌が僅かな酒精を感じて、やわらかな感嘆が零れた。
「目まぐるしく変わる気象か、夏の果実のようだな」
 ころころと瞳の表情を変えるエルキドゥを眺めながら、ギルガメッシュはいたずらっぽい笑みを浮かべた。こうやってふたりでいると、瞬くような時間だけ置き去りにしてきた過ぎた時間が彼の元に戻ってくるようで、そういうときにどのような言葉を差し出せば良いのかエルキドゥにはわからなかった。渡したい言葉があるはずなのに、どうすればいいのかわからない。代わりに紡がれるのは味気ない伝達ばかりだ。
「ギル」
「うん?」
「君の助言通り、繰り返しと判断できる会話を中断させる仕組みを追加した。文字の誤りや書き損じも一定の確率で発生するようにしている」だから次の試験の際にはこれらの問題は解決しているだろう。しかし、十五回目で実用化まで進むとは思えない。「さっきまでの試験の記録を解析したら、男女の会話が不自然な気がした。どちらかが相手に好意を表現する言葉を言わせることを目標としていたから、問題はないのだけれども、なんだか……」
 言い淀むエルキドゥの後をギルガメッシュがひきとった。
「好意が会話の最中にいつのまにか自然に湧き出たものだと思わせるように仕向けたいということか」
「うん。最初にこういった相手と会話をしたいと利用者が選択するだろう。僕がそれを請け負って、ぴったりな相手を何人か会話相手として紹介する」実際は会話相手となるのは賢い泥の会話プログラムであって、利用者同士が話すわけではないのだが。「その最初の好みの選択を越えられるような、意外な相手を好ましく思うようになれば、それは利用者が自分自身で選択したと思い込むはず。人間は、自分の決断を肯定したがるから、好意を保つために好ましい要素を会話の中から探すはずだ」
 好みではなかったはずの人を好きになってしまった思わせる。そのように会話を誘導する。そうすれば、好意を肯定する要素を会話の中に探して、自分の感情が間違いないのだと補正しようとするだろう。結果的に利用が増えて固定客となる。
「そのためには、もっと自然な会話が必要だと思った」
 矛盾を含み、しかしぎりぎりのところで破綻しない。その上で、相手に惹かれる気持ちを引き出したい。記録を見る限りだと、目標達成に飛びつこうとしていて会話が不自然な気がした。どうすればいいだろうかと、エルキドゥは果肉の浮かぶ甘い飲み物をのみ、首を傾げた。
「そうさな」ギルガメッシュがおかわりを掬い、器に盛った。「警戒心の調整が必要だな」
「どういうこと?」
「最初から砕けた言葉を遣うことはいやがられるが、会話を長く続けても語調が崩れぬとそれはそれで親しくなりたいという素振りがないと判断されるだろう」
 適切に言葉遣いを切り替えることで、より人間らしい親しみのある会話になる。
「あまり初心でも退屈だが、男との会話に慣れていると思われるのも避けるべきだな」
 うんうん、とギルガメッシュは己の言葉に頷いているが、まるで体験談のように語るのが気になる。それは彼の好みを並べているだけではないだろうか。それでも、自分よりもずっと会話がじょうずなギルガメッシュの語ることにエルキドゥは熱心に耳を傾けていた。
「おまえの作ろうとしている泥による会話応答は、決まった解しか導き出せない。通常の会話は、理性的なようで感情に左右されながら進む。会話を開始して暫くはお互いに緊張しているのだと先入観をもっているため、違和感が打ち消されるだろうが、いまのままでは会話に感情的なぶれが少なすぎて長時間使用すると違和感を覚えるだろう」
「うーん……」
 ギルガメッシュの指摘通りだと思った。会話に感情がない。人間の言葉の好感にはもっとぶれがある。それ自体は「賢い泥」は得意な分野だった。天然自然の存在からなる水と土は同じ環境に置かれても同じ形にはならない。解が一意にならない特性がある。しかし、状況に合わせて破綻しない程度のぶれを適切なタイミングで発生させるとなると難しい。そのタイミングが掴めない。相手から送られてくるのは粘土板に刻まれた文字だけなのだ。
「見てみろ」
 唐突とも思えるタイミングでギルガメッシュが粘土板を一枚差し出した。それは書斎に収められている古い災害の記録のようだった。雪解けで河川が増水しているところに、嵐がきて幾つもの邑や集落が濁流に呑み込まれた。被害は甚大で麦はすべて泥となった。悲痛な記録は当時の書記官によるもので、公的な重要文書でありながら文字は歪んでいた。かすれたかと思えば強くペン先を押しつけている箇所もある。本来ならば書き損じとして保存用に粘土を焼く前に書き直しを行うべきだ。しかし、そうはならずに保管されている。
「随分といそがしかったのかな」
「だろうな」
 ギルガメッシュが生み出されるよりもずっと昔の記録だし、あたりまえだがエルキドゥなど当時は鋳造計画すらない。それでも、その粘土に刻まれた文字の様子からは当時の慌ただしさが推測できた。
「これを書いた人の家は無事だったのかな……」
「さてな。だが災害の対応で疲弊していた、だけではないことは推し量れる」
 書記官としての職務を遂行していた彼は、災害で個人的に大切にしていたものを喪ったのかもしれない。それはわからない。単純に忙しくて文字が歪んだだけかもしれないし、心身に大きな負荷がかかっていたのかもしれない。彼の周囲も当時は似たり寄ったりな状況で、もしくは辛い境遇の彼を哀れんで、歪んだ文字のまま保存用に粘土板を焼き固めたのだろうか。
「書き文字にも感情は表出する。対面していなければ感情の変化を掴めぬといわけではなかろう」
「そうか……」
 たとえば誤字率や筆を動かすスピードだけでも利用者の心理状況をある程度まで把握できる。それならば、そろそろくだけた言葉遣いで会話をしたいと利用者が望んだタイミングで、それに応えることで、理想的な話し相手だと思わせることができる。
 エルキドゥはギルガメッシュをちらりと見た。それは助言を与えてくれた友をただ見る、というのとは違っていて、神の兵器がもっと対象物を把握しようとする能動的なものだった。人ならざるモノの目には、友が映っている。その体温と脈拍と正確な身丈や質量も。暑くてうんざりしているけれど、休憩をして少し回復している。文字会話プログラムを面白がってもいるが、同時に慎重になろうと努めている。規則正しい搏動は寛いでいるが、いつも通り常に周囲を警戒している。そうでありながらエルキドゥの坐っているあたりには無警戒でいる。
「どうせならば粘土板とあわせて貸し出す尖筆に活動量計を付けようか」
 手に握り動かすものを管理できれば、脈拍や体温さえ把握できる。心理状況を把握できれば、自然な会話も綴りやすいし、疑似恋愛の駆け引きだってできるだろう。理想の会話相手を熟知しているのは利用者自身だ。だったら、彼ら自身に「理想的な女性(あるいは男性)」を作り上げるための情報を提供してもらえば良い。
「……できるのか」ギルガメッシュは尋ねようとして、語尾を切り上げた。「いや、まあよいが、根を詰めすぎるなよ」
 エルキドゥはにっこり笑った。方向が分かれば、進むのは簡単だ。文字会話プログラムによる粘土板上対話システムはきっと成るだろう。ギルガメッシュは遠くを見るような目でエルキドゥのことを眺めて、その泥の奥を透かし見るように目を細めた。どうしたの、と泥人形が首を傾げても、なにも言わなかった。


 没頭を諫められたことは覚えている。おかしいな、と片頬で笑った。それではあべこべだ。いつもは彼の過度な集中を自分が諫めているのに。エルキドゥは巨大な粘土板の代わりとなる泥沼を覗き込んでいた。文字会話プログラムを組み込まれた黒灰色の泥の水面は凪いでいる。水を張った甕を覗き込んだとき、人は目でなく心によって、ごくごく淡い水の青味を感じるという。その淡い色は泥の中には見いだせなかった。
 エルキドゥは近くの木に背を預け、胡座をかいていた。血の気のひいた貌に金緑色の瞳だけが強く光っている。白い皮膚の至るところに青い痣が浮かび、腕は肩からだらしなくだらりと下がっていた。このところ、人の生活と律動があっていなかった。三日ほど小休止することもなく「賢い泥」の調整を行い、その次の一日を太陽神の動きも気にせずに眠り続ける。それを繰り返す。星の動きと生態リズムが合わず、生き物であったら生命に関わっていただろう。眠るときには何も考えたくないのでギルガメッシュの寝室に勝手に上がり込み、彼の鋭い罵倒を子守歌がわりにして眠り、起きたらまた泥沼で文字をいじりまわした。
「きっとギルはこれを案じていたのだろうね」
 独語した声は掠れていた。自嘲で痩せた肩が揺れる。
「お腹がすいたかも……」
 豊かな樹に木の実でもわけてもらおうか、それともシドゥリにお願いしようか。でも彼女に頼みにいくと無精を叱られた上にお風呂に入れられる可能性がある。ギルガメッシュにひどく叱られることは覚悟しているが、シドゥリに叱られると堪えるのだ。
「でも、これで完成した」
 エルキドゥが手元にある粘土板に文字を書く。するとすぐさま、泥沼に垂れ落ちた木の枝から吊された尖筆が、沼の形をした大きな粘土板に文字を綴った。職人が石を削るように勢いよく、しかし過不足のない動きでペンはひとりでに泥を叩く。そうすると、泥沼に書かれた文字がエルキドゥの粘土板にも浮かび上がる。
 こんにちは。
 こんにちは。はじめまして。少し緊張しています。ワタシの文字が見えていますか。
 エルキドゥが更に文字を書くと、先ほどと同じようにすぐに泥沼のペンが動き出す。
 見えています。ボクも緊張していますが、よろしく。
 よかったです。どうぞよろしく。ワタシはいま羊毛を刈る時期なので、毎日手があぶらでべたべたです。刈ったばかりの羊の毛って重いしあぶらっぽいし、しかも……ちょっとくさいんです!
「うまくいってる」
 他愛なくてかわいらしい会話が続く。泥沼は羊飼いの闊達な少女として会話をしているらしい。エルキドゥの持つペンの動き、握る強さ、脈や体温から心理状況を解析して、それに合わせて理想的な会話相手になろうとしている。もっとも、エルキドゥは自身の身体はコントロールできてしまうので敢えて人間のように筆を動かしてテストしているのだから自然な状況とはいえないが。
「それで、ようやく我は宵の静寂を取り戻せるのか?」
 声の方向に貌を持ちあげると、不機嫌そうなギルガメッシュが立っている。彼がこちらに近付いてきていることは感知していたが、距離を見誤っていた。沼に随分と泥を供出したせいで、惚けているなと苦笑する。エルキドゥはゆっくりと立ち上がって、王に寄ろうとするが足がもつれた。傾ぐ体をギルガメッシュが片腕で掬い上げる。
「おまえな……」
「ごめんね」
 ギルガメッシュが放るように腕をあげると、ようやくエルキドゥは姿勢を戻して自分の足で立った。少し軽くなったような気がする。泥人形には人や獣のように食事や睡眠を必要としないが、自身を材料とした泥沼を造り、それを調整し続けたのだから質量への影響があるのかもしれない。勝手に寝台に上がり込んで眠っているのは業腹だったが、エルキドゥが想像以上に文字会話システムに執着していたので叩き起こして追い出すことはなかった。
「ギル、粘土板を置いてきてくれた?」
「済んでいる」
 短く応えた友に甘えるように微笑んだ。ほだされないぞ、と突き放すようにギルガメッシュは軽く鼻を鳴らした。
 友に請われて、ギルガメッシュは会話用粘土板をウルク市で配布してきた。会話相手を探して楽しむサービスという特性上、こういったものは匿名性が高い方が利用者が安心する。かといって、犯罪行為に転用される可能性もあったし、あからさまな売買春を目的とするような利用者は顧客層からは外したい。王はひっそりと遣いをやって、国営の娼館と神殿の前に粘土板の貸し出し所を設置した。前者は欲を満たした者がささやかな追加を求めるように、後者はまるで高きところから目がみていると利用者の自制を促すように。
「でも、神殿の前に置いて大丈夫かな、神官や巫女に叱られるかも」
「賭けても良いが、最大の利用者はそやつらになるぞ」
 文字会話サービスを利用する者は、人目を避けつつ粘土板の貸し出し所を訪れ、粘土板とペンを受け取って、落ち着く場所で粘土板に文字を綴れば良い。そうすればどこかにいるであろう「あなたにぴったりの話し相手」からすぐに返事が来る。実は「賢い泥」が自動応答しているのだが、そんなことは知らなくてもいい。会話相手を変えたいときは一旦、粘土板を貸し出し所に返却して別の粘土板を借りる。本当はそんなことをする必要はないが、面倒な手順と足労があった方が「会話相手を変えている」ことに自覚的になるので、次の相手こそは理想の相手に違いないという願望がうまれる。粘土板の貸し出し所では銀で計量された特別通貨が販売されており、支払いはこの特別通貨で行われる。
「これで、ウルクを直すための財を戻せるよ」
 花が綻ぶように人形は笑った。ほんとうは、ここまでギルガメッシュが手を貸してやる必要はまったくないのだ。どうして借金の返済を債権者が手助けしなければいけないのか。児戯に等しい文字会話の絡繰りに、密かにとはいえ王が関わるのも奇妙だった。その自覚がありながら、ギルガメッシュは己の好奇心と友への不思議な庇護欲から手も口もだしてやっていた。
「ならば少しは」
 少しは休め、という言葉は最後まで声にならず、痩せた肩に伸ばされた手が届かずにとまる。尖筆を吊した枝のひとつが動いた。まるでとまっていた鳥が飛び立ったかのように大きく揺れて、土で象られた筆が泥沼の上を走り出した。
 あ、とエルキドゥが間の抜けた声を出す。誰かがどこかで会話用粘土板に文字を綴ったのだ。はじめての利用客だった。
「さて、どれほど保つか見物だな」
 ギルガメッシュは皮肉っぽく口角を上げたが、それは少しも意地の悪い感じがしなかった。彼の声には甕のなかに心で見るという淡い青味のような薄い願いのようなものがあった。律動的に動く筆と沼に刻まれる文字を見ていると、エルキドゥは頬が熱くなった気がした。瞳が水っぽく潤む。泥沼を満たすのは切り離した自分の体である粘土で、沈めた厖大な情報と定められた手順に従って、演算を繰り返している。その稼働状況を目にすると、まるで自分が走りまわっているかのように体が熱を帯びる。切り離しているのだから、それは錯覚なのだけれども。
 うまくいくかな。声にだしたつもりはなかったが、ギルガメッシュの掌がエルキドゥの背を軽くたたいた。ふたりで、次々と生まれる文字をしばらく見ていた。黒灰色の泥沼で決まり事に操縦された文字だけが正しく動いていた。


 字が集まって文になる。文が集まればそれは万象を表せるはずなのに、綴られた言葉からはいつも何かが零れ落ちている。転がり落ち、吹き飛び、掻き消え、残骸だけが届く。
 泥沼は豪雨にうたれたように激しく揺れている。もはや静寂の時間はなく、泥は休むことなく演算処理を行い、文字を書いては送り続けている。零れ落ちた成れの果て。言うに言えぬ思い、いっそ言わない方がいい思い、言わなくても伝わる思い、伝わらなくてどうすることもできない思い。それらを受けて、計算して、結果を送り続けている。
 晩夏の花の香りがする。甘くて切ないあたたかみのある香りだった。それが熱を帯びた己の躯からのぼるものだと気付かないまま、エルキドゥは泥沼を眺めていた。
 文字会話による商売はうまくいっている。
 はじめこそ利用者も利用量も少なかったが、試用の際に協力してくれた人たちが商品化された「会話」に興味を持ち、それが口コミで広がった。おっかなびっくり、おふざけ気分で半笑いで粘土板を借りていった人たちは、それぞれの家に帰ると、真面目な表情で文字を伝える不思議な粘土板に向きあった。恐る恐る書いた文字はすぐさまどこかに飛んでいき、それに対しての返事が届く。なんだこれ、へんなの。そう正直に綴れば、同じような気持ちだと返ってくる。お話しを続ければ慣れるのかな。どうだろう。ほんとうにそっちに人がいるんだよね。それこっちが言いたいよ。ひっどーい、でもどうしよう、こんなことでお金かかるの恥ずかしいかも。でも話すことって特にないよ。最近は話題って言ったら新しい花屋の店主のことくらいだからね。なにそれ。え、店主に尻尾があるって噂の。しらない、なにそれ。
 皆はちょっとした暇つぶしのつもりで文字会話をはじめて、つまらないことを誰かと話す欲を満たし、少しの肯定を得て、相手が目の前にいないからこそ言えることを言った。そうやって粘土板に密かに向かう時間は増えていった。
 ウルク市の貸し出し所に置いた粘土板がすべて貸出中になったとき、エルキドゥは喜びよりも後悔があった。もっとたくさん用意しておけばよかったと思った。貸し出し用の粘土板と尖筆を増産して、泥沼の演算領域を拡大することにしたが、ギルガメッシュから急激な増大を止められた。結果としてゆっくりとした利用者増となったが、機会を逃したようで不満だった。
「でもきっと、ギルが正しかった」
 以前より泥を増した沼に刻まれる文字の音で、小さなひとりごとは唇から離れてすぐに消えた。演算領域の拡大はエルキドゥにとって無視できない程度の負荷になっている。徐々に拡張してもこうなったのだから、彼が止めてくれたことは正しかったのだ。
「どうして、僕は固執しているのかな……?」
 なぜ、自分はここまで文字会話に労を割いているのだろうか。借財を意識してのことだとしても、自分らしからぬ特定行動への固着だと思った。ギルガメッシュは返済を急かしてはいない。ウルクの街はエルキドゥが稼がなくても民の力で復旧している。それなのに、どうしても文字会話プログラムの構築を諦められなかった。
「どうして……」
 激しく攻撃されているかのような泥沼。唇が乾いて、舌で舐める。利用者は最初は五十名だった。いまは二桁違っている。演算領域を更に拡張しなければ、追いつけない。人々は他愛ない会話を楽しむ時期を終えて、この会話プログラムを疑似恋愛の発散に使用するようになっている。自分を理解してくれる理想的な異性(もしくは同性)を文字の向こうに見出し、高揚する気持ちを伝え、日々の慰めや活力としている。ときに卑猥な会話や下世話な話題を明け透けに楽しみ、ときに淡く色づく心を詩的に語る。
「……ちょっと気持ち悪い」
「なにがだ」
 虚空に投げたはずの言葉が摘まみ上げられて驚く。やはり今の自分はだいぶ惚けているなと苦笑しながらエルキドゥは友に振り返る。いつものとおり不機嫌そうなギルガメッシュがすぐ背後にいた。視線で泥沼を示して応える。
「美しい睦言がただ美しいとは思えなくてね」
「ほう、おまえにそのような情緒があったのか」
 笑う吐息がつむじに触れた。背中に彼の気配が沁みてくる。このまま引っくり返っても受け止めてくれそうだけれども、それはさすがに甘えすぎだなと思った。人形の瞳が沼を撃つ無数の恋文を映す。確かなものはなにもない、淡く甘くゆるやかな他者への関心の始まりが綴られ続けている。
「別々の場所で暮らしながら、見返りもなく優しくしあうことを続けるには、人間の場合は恋愛感情が付随していないといけないようだと気がついたんだ」
 すがりつくことなく、ぽつんと手をつないで立っているような、ふたり。誰にも代替のきかない、比べる必要もない、特別なところ。そういったものが無数に発生して、自分はそれを見守ればいいのだと思っていた。でも実際はそれらはすべて恋い慕う感情に回収されていく。
「あれらは心理状況を把握したうえで、おまえが引き出したものだ」
「それはわかっている。利用者の求めに応じるには、何を求めているか探る必要がある。潜在的な需要を探った結果が、恋文ばかりだったことに少し酔ったみたいだ」
 厭うわけではない。何を求めているのか尋ねてみたら誰も彼もが擬似的な恋愛を欲しがることに戸惑っただけ。でもそれが生き物の普通なのだと知っている。花が咲くのも、鳥が歌うのも、木々が青いのも、魚が泳ぐのも、生きているからで、生きるためで、生きるというのはそういうこと。子どもを残して生き繋いでいくため、つがいになるため。
 いまある世界を器だけ少し変えて、このまま残していくため。
 そっくりな明日を製造するために生き物は生きている。
「でも、そっとしておけば、ここまで睦まじい会話ばかりではなかったのかもしれない。僕は潜在的な需要を探るつもりで、彼らの感情を作ってしまっていたのかも」
 傲慢な物言いを窘められると思ったが、意外にもギルガメッシュは沈黙を返した。王はしばらくのあいだ激しく筆に叩かれる泥沼をながめて、エルキドゥの腕を引いて書斎に誘おうとしたが、エルキドゥは首を振った。
「まだ会話の調整をしないと、まだ応答が画一的な気がする」
「熱心なことだな」
 それははっきりとした皮肉だった。エルキドゥは素直に恥じて俯いた。自分でもどうしてここまで文字会話プログラムに熱中しているのかわからない。それをそのまま声にした。激しい雨音のような文字が生まれる音に掻き消えても構わなかったが、ギルガメッシュには届いていた。
「おまえは治癒されたかったのだろう」
「治癒? 修復のこと?」
 ギルガメッシュは頷いた。
「再演、もしくは追体験ともいえるかもな。そのために文字による会話で戯れ続けていたのだろうよ」
 人形に馴染みのない語にしばらくかたまる。理解が及ばないのに蒙が啓かれるように豪雨
の音が遠くなった。彼の声だけが鮮明な輪郭をもっている。
「災害の後に不可解な行動をとるものがいる。多くは幼子だが、遊戯のなかで自身や近しい者が受けた被害を再現しようとする」
 河の氾濫で家屋を流された子が、水に流される真似事をして遊ぶことがある。恐ろしい被害の再現に周囲の大人は戸惑うが、遊ぶことで心痛から回復するために子の心は戦っている。大概は長く生きた老人達がそういったことを知っていて、遊びを制止しないように見守っている。
「対象を己の随意にすること。遊戯によって体験を支配下に置き、自身の言葉として咀嚼することがある。おまえの執着はそれだろう」
 傷や恐怖の記憶に統制される側から、それらを統制する側に逆転を果たそうとする。それによって、犠牲を過去のものとして正しく見送ることで、心を治癒する。犠牲をもう一度、演じることで、過ぎた時間を認識し、受容し、自由になろうと戦う。
「僕は、なにも」
 なにもこわくない。怯えや恐れは兵器にはない。相手への警戒こそするが、恐怖はないし、それによって傷つくような心もない。そのはずなのに、ギルガメッシュの言うことはぴったりの重さをもって空っぽの手に乗せられたようだった。
 文字が刻まれ続ける泥沼をみつめる。人だけが行う伝達手段。点と線を組み合わせて言葉とする。言葉で心を揺らす、人のちから。飛び交う恋い慕う言葉と感情。いま目の前の泥に刻まれ、泥が吐き出しているそれは、すべて森にはないものだ。人でないモノにとっては未知のものだった。
「……試用段階のときに、ギルが手伝ってくれたことが、すごく嬉しかったんだ。でもあれは嬉しいのではなく、ほんとうにただ助かったと安堵したのかも」
 未知のものと対峙する苦痛や災難を友が支えてくれたと受け取った。やっていることは、会話プログラムのテストであって、金策に翻弄されていただけなのだが。
「人の世界はどうだ、友よ」
 それは唐突なようで、ずっと前から用意されていた問いだったのかもしれない。ギルガメッシュとエルキドゥがとなりあうようになって、幾つかの季節が去ろうとしている。それはそのまま、人でないモノが人の世に根を下ろそうとした時間となる。異物が異物のまま、受け入れられてそこにいる長くもなければ短くもない時間。
「……いつも楽しいよ、ギルがいるから。僕は人と共に在りたい。そのように自身を再定義した」
「そうか」
「うん」
 そのいらえが正確ではないことも、つたわらないで欲しいと願っている思いも、あまさず共有している。本当は知らないことは恐ろしくて、恐ろしいということさえわからなくて、制御したいという焦りが熾火のように赤くひかっている。文字も、会話も、ひっきりなしに交わされる感情も統制下におきたくて、必死になって遊んでいた。認めてしまえば、泥人形はただ怖かったのだ、人の世界が。でも、こわいのが分かったから、もう平気だった。
「盛況だな」
 文字の雨はたえまなく泥を打つ。それは返済すべき財が満ちていく音だ。
「うん、もうすぐ目標を達成するはず。これでウルクを直すことができるよ」
「たわけ、とっくに市街地の修繕など済んでおるわ」
「君への返済ができる」
「そうか、では、このあたりで終いにしておけ」
「え?」
 聞こえなかったのか、とギルガメッシュはもう一度、明瞭に告げた。ここで文字会話による商いを停止させるように、と。利用者が増える時間なのか、演算負荷がかかり、エルキドゥの体温があがった。自動的に眼球が潤む。
「でも……」
「なに、多少は負けてやる。当初はどうなることかと気を揉んだが、なかなかに愉快だったぞ。文字のやりとりを演算し、潜在需要まで引き出すというのはおもしろい」手を伸ばして、人形の髪を一房つまむ。指先が人形の耳に触れて、ふたりの体温の差がはっきりとつたわる。髪を弄びながら男は続けた。「おまえも存外に愉しみ、苦しむことができたであろう。借財は気にするな。ここで終いにしておけ」
 芽吹きはじめた命の色の髪に夏の陽射しが光の箍を載せている。晩夏の昼下がり、雷雨のような文字の音、ペンを吊した樹。
「でも、僕は欲しいものがあるから」
「……ほう?」
 端正な男の顔がわずかに歪む。欲しがるということから縁遠い人形がなにを欲するか。王は首を傾げたが、なまじ優雅な所作であるばかりに、かえって鋭い捕食者の姿のようだった。
「僕には欲しいものがあって、それを得るためにはもう少しだけ続けなくてはいけない」
 少女を象る無徴の泥から花の香りがする。演算処理によって内側から熱を帯び、甘ったるいにおいをまき散らす。その香りに、ギルガメッシュは奇妙な白昼夢をみた。雛の孵った卵の殻のように内から割れて崩れる人形の姿をみて、それを振り払うように首を振る。
「初耳だな、おまえにそのような欲が在ったとは」
「君には言っていなかったから」
「……好きにしろ」
 彼の声は明るく冷たかった。言葉とは真逆の本心は事もなく退けられた。
「そうする。もう少しだけ、続けたい」
 エルキドゥの双眸は負けん気を宿してつやつや煌めく。こうなっては暫し手が付けられないことをギルガメッシュはもう知っていた。定番の表情だ。


 書斎の扉に掌をおく。俯いて吐き出した息が熱くて、ようやくひどい熱だと自覚した。音も予備動作もなく扉は開き、エルキドゥは薄暗い書斎の中に転がるようにして招かれた。
「呼んだ覚えはないぞ」
 制御盤に頬杖をつくいつもの姿勢で、ギルガメッシュは古い文書を読んでいた。王の書斎は王のためにある。天突くようにこの地にまつわる古い文書が並び、地の底には神々の検閲を避けるように更に古い記録が埋もれている。
「おまえが来てから騒々しい。以前はここに籠もることも稀だったのにな」
 いや午睡処としては良い場所だが、と続けてギルガメッシュは漣のように笑う。招いてはいない友が書斎にやってきた。エルキドゥは大胆だが無節操ではない。尊い王の知識の塔を無神経に侵す真似はしない。ひとりで待つことも、耐えることもできなくなって訪れたのだ。
「外は雨か?」
 快晴であることは知っている。いななくような風雨の音は泥沼で文字が綴られ続けているからだ。しかしエルキドゥは雨粒にさらされたように濡れている。桃色の頬に汗の玉がつたい、質素な衣は重そうだった。
「……文字会話の機序のなかで大きな比重を占めている部分があって、その手順の設定に手こずっていたんだ」
 エルキドゥの返答は回り道のない簡素なものだった。前後を無視して、今自分が直面している困難だけを告げた。
 文字会話の利用者は増え続け、交わされる会話は優しい肯定から淡い疑似恋愛に変化していた。利用者の心理状況を把握して、適切な会話を続ける「賢い泥」は、潜在的な恋愛を顕在化させているようでもあった。それが求められたものなのか、利用者が既に抱えていた感情を引き出したのかは曖昧で、しかし会話相手が実は泥沼である以上は一時的な淡い感情として終わるはずだった。初恋のようなもの。夏の果実のように、甘いが長持ちはしない。
「その大きな比重とは?」
 尋ねなくてもわかっているような口ぶりだった。ギルガメッシュは文書から視線を逸らさず、エルキドゥはそんな友を見つめていた。
「希死念慮への対応」
 初恋のような仲睦まじい会話を分析した結果、希死念慮を抱えていると考えられる利用者が二割ほどいた。それは軽視できない割合であり、そのうえ彼(女)らは、概ね固定客となってくれていて、彼(女)らのためにも文字会話プログラムのアルゴリズムを改変した。泥沼は更に演算領域を拡張し、複雑かつ巨大なロジックを抱え込んでいる。
「やはりそこに行き着くか、おまえの作った機序が優れていた証左だな」
「褒めているわけではないよね?」
「当たり前だろう」
 気怠そうに、ギルガメッシュは文書から視線を切り上げて姿勢を変える。触れれば破裂しそうなほど熱っぽい躯を引き摺るようにしてエルキドゥが彼に近付く。
「文字会話は七日後に終了する予定。中枢となる泥沼も閉鎖する」
「知っておるわ、利用者宛の報知が届いていた故な」
「え、ギルも利用していたの?」
「かなりの上客のはずだぞ、相応に料金は支払っている」
 ギルガメッシュは水差しから杯に水を注ぎ、エルキドゥに差し出してやる。友がため息を杯の中に吐き出したことには気付いていたが無視してやった。杯を干して、もう一杯ちょうだいとねだってくるので、冷えた水で満たす。
「あれは、よくできていた。会話を長引かせるように誘導しながらも、客が利用量を気にする素振りをし始めればすぐに中断する。稼ぎすぎることを抑止されているからこそ、客は安心して継続利用していた」
 エルキドゥはギルガメッシュの足元にだらしのない犬のように寝そべっていた。冷えた床で躯を冷却しようとしているらしい。踏まないように気をつけながら、足を組みなおし、人形を見下ろす。
 エルキドゥは欲しいものがあると言っていた。あの時からそう日は経っておらず、目標通りに稼げたとも思えない。文字会話による商いを終わらせるのは不本意だろう。それでも、もうこれ以上の泥による演算処理は困難だ。神々の演算装置はおよそ人の想像力の及ばぬ域まで計算してみせるが、分離した泥に自動演算させてそれを制御するのは勝手が違う。人と人の会話はそもそもが道具には理解しがたい分野であり、苦手なことを苦手な方法で強引に実行していたのだから破綻する。荒れ狂う泥沼の音は書斎のなかにも聞こえてきている。断末魔のようだった。
「演算能力が出過ぎているんだ」
「原因は分かっているのだろうな」
 エルキドゥは床に頬をつけたまま頷いた。熱っぽい頬がぽにょんと動いておかしな表情になったが、ギルガメッシュは口を、む、と閉じて噴き出すのを堪えた。
「会話に対応する『賢い泥』が報酬を得ようとした」
 そのとおり、とギルガメッシュは頷く。
 文字会話プログラムは利用者になるべく長く会話をさせるように振る舞う。しかし、あまりにも長引く会話は課金への不安から利用客離れを引き起こすので、タイミング良く会話を中断するように抑止機能が組み込まれている。また、利用者と対面を果たすこともないし、利用者に何かを購入させることもない。「賢い泥」はシステムだった。学習する泥は報酬を設定することで更に学習を深める。道具と人の違いのひとつは「目的が在ること」で、目的がなくても人は生きていけるが、目的がない道具は存在しない。会話プログラム「賢い泥」は自ら報酬を設定した。
「あの泥沼は自律兵器からの切り出しだ。試行錯誤をして、自ら報酬を設定し、人間との会話で遊びはじめた」
「僕、そんなことしようと思ってなかったのに……」
「どうだかな、あれはおまえの別解に過ぎぬ。おまえが出来ることしかやらんよ」
 正直、エルキドゥは自分が作った文字会話プログラムがそこまで学習力を持ち、賢くなるとは思っていなかった。客観性の不足を指摘されて情けない声が出る。
「報酬を自己設定しようとした『賢い泥』は、ちょうど良い課題を見つけたのだろう、それが、希死念慮者への対応だった。そのような思考をもつ利用者の言葉を分析して、彼らから自死の選択を奪うことを自らの報酬と設定した」
 利用者の心理状況を「賢い泥」は把握している。粘土板の上で交わされる会話によって、希死念慮を持つ利用者がそれを回避したことを成功したとみなす。
 それだけならば、人助けの範囲だろう。
 しかし、擬似的な初恋と同じで、それが求められたものなのか、利用者が既に抱えていた感情を引き出したのかは曖昧だ。
「潜在的な心理を識別することは、心の検閲に値する」
「でも、お客さんの好みを探って商売をするのは、ウルクの店でもどこでもやっているよ」
「潜在的な需要があるからといって、勝手に商品を押しつけることはしない」
「ギルが以前、もうお終いにするように言ったのは、潜在的な希死念慮を顕在化させることがあり得ると考えたから?」
「違うな、更に悪い。潜在すらしていなかった死への淡い願望を、植え付ける可能性がある。心の検閲を越えて、人心の操作を行うようになるだろう」
「それは……」
 エルキドゥは思わず上体を起こした。それはあり得ないと言えるのだろうか。道具は必ず目的を持っている。目的を自身で設定できるのが自律人形の最大の特徴で、会話プログラム「賢い泥」はその人形を材料としている。人と会話をして、人の心を操作できることを報酬として設定していたら。積極的に利用者の心の操作をはじめるだろう。他愛ない会話や優しい肯定やちょっとした愚痴の相手になるだけでは簡単すぎて、報酬を得られなくなる。もっと利用者の満足感が欲しい。大きな満足感のためには、大きな問題が必要となる。
「ありもしなかった死への願望を植え付けて、それを回復させることで報酬を得ようとする可能性があったということ?」
「そうだ。そして、その回復に失敗したら何が起きるかはわかるな?」
 やわらかい口調であったが、声は冷たかった。幸い、希死念慮対応アルゴリズムは実験段階だ。実際に利用されていない。
「僕はやめどきを間違えたね」
「遊びが過ぎたな。おまえの欠点は、自己の過小評価だ。無論、褒めてはいないからな」
「さすがにそれはわかるよ」
 どうだか、とギルガメッシュは足元に蹲っているエルキドゥを軽く足先で蹴った。熱暴走を起こしている体がゆらゆらと揺れて、長いため息をつく。
「夏の果実のような初恋をつくっているつもりだったのにな」
 実際には、人を死に導く可能性があるものだった。それだけではなく、その先にあるのは完璧な人心操作だったかもしれない。そこまでは粘土板でのやりとりでは保たないだろうが、可能性が示されるだけでも恐ろしい。
「これで、終いだな」
 ギルガメッシュの言葉に、今度はエルキドゥは素直に頷いた。


 夜明けの水は澄んでいた。覗き込めば、水の底にはあるかなきかの薄い青がみえるようだ。それは本当は見る者の心にある色なのだという。
 泥の回収された沼は明るく、早起きの水鳥の鳴き声が響いている。木々は枝を大きくひろげ、そしてそのどこにも筆記具を吊してはいない。色とりどりの果実がみのっている。
「そういえば、おまえが欲していたものはどうなったのだ」
 水のほとりと、ギルガメッシュは歩いていた。巡る朝夕も、季節も、喜びも悲しみも、栄枯も、秋の風が織り込んで流していってしまうようだ。苛烈な夏が過ぎ、夜明けの色もすこし変化している。
「たぶん、まだ買えないと思う」
「随分と高い買い物なのだな」
 自分の知らない、友の欲するモノがおもしろくない。欲に乏しい無垢な人形が返済の後に更に欲したものをギルガメッシュは知らない。吹けば飛ぶような借財の鎖はすでに無いに等しかった。これで、エルキドゥはいつでも森に戻れるだろうし、それを咎め立てすることもできない。清々しいような、計算を誤ったような、奇妙な気分だった。それでもまだ、人形は早朝の散歩にくっついてくる。
「……なにが欲しかったのだ」
 恋文を懸命に書き、死の回避すら書き始めようとしていた泥沼はもうない。文字会話の粘土板は惜しまれつつウルク市から消えて、すぐに夏のささやかな思い出として忘れられた。あれは実は王が行っていた民の監視だったのだと、どこかで尾鰭背鰭がついた噂が流れたが、それすらあっという間に話題から消えた。人と人のあいだに実る言葉は、夏の果実のようにすぐに腐って落ちる。
「僕はね」
「うむ」
「君が欲しかった」
「はい?」
「君を買いたくて」
「ちょっと待て?」
 ひやりとした水の匂い、湿った土の匂い、あなたが踏む苔の匂い、年を経た煉瓦の匂い、どこかで上がる朝の火の匂い。名前を知らない夜明けの色のなか、世界は芳醇な香りにあふれている。人形が腕を伸ばして王の頬にそっと触れた。指の先からつたわる体温はつめたくて、この指先も夏の夢をもう忘れているようだった。
「ウルクを直すにはたくさんの財が必要だった。君を治すにはどれくらい必要なのかな?」
「おまえ……なにか見当違いをしておらぬか……?」
「そうなのかい?」
 そうに決まっている。決まっているのだろうか。確かにふたりは春がはじまる頃に戦い、その天地を轟かす戦いで相応の傷をおっているが、強力な再生能力を持つ泥人形には生き物の治癒と回復がどれほど理解できているのか。人の暮らしに混じり、未知の文字に怯え、交わされる感情を制御しようと苦しんでいたのは、ギルガメッシュもよく知っているのに。
「財があればウルク市は直るのだろう? 君がずっと忙しくしているのは、君自身を治すためだろう? 僕が財をもって、ギルを治せば解決する」
 だめだ、ものすごい勢いで勘違いをしている。ギルガメシュは無邪気に笑うエルキドゥの前で項垂れた。そうしていると頭のつむじがエルキドゥの目の前にくるので、人形はそこを指先でつついてみる。いかにも人慣れしていない幼い仕草に王はため息をつく。
 しばらく、あーとか、うーとか、意味の無い言葉を吐き出した後に、ギルガメッシュはふっきれたように顔を上げて、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「おまえでは我が治療費など支払えぬだろうよ。愚鈍な泥にはわからぬだろうがな、人の傷は端より見た儘ではないのだ」
「そうなんだ」
 ギルガメッシュはもう血を流したり、足を引きずったりしていない。でも、それがそのまま生き物の全快というわけではないらしい。目に見えない傷みはどうすればいいのだろうか。財を積めば街も人も彼もなおせると思ったのに。
「どうすれば、君が完全に治るのかい?」
「そうだな……」
 ぼそりと呟き、ギルガメッシュはまた水辺を歩きはじめた。飄々と歩く後ろ姿を、エルキドゥも追う。夜明けの風もまた飄々と流れている。ぬかるんだ土の上に蛾の死骸があり、その傍らを低空飛行の蜻蛉が掠めてゆく。引っくり返った夏の虫たちが水の呑まれ、水鳥たちが睦む。かつて初恋を綴り、死を呼ぼうとした沼は正しく沈黙している。配置された生死のなかを、風は吹き渡り、ふたりは歩く。いまこの瞬間にも季節が喪失され続けている。
 名前の知らない夜明けの色が新しい季節を満たしていく。
「文字でも綴ればよいのではないか。言の葉を紡ぎ、目に見えぬところにまで届けようと地道に足掻けばよかろう」
 ギルガメッシュが笑っているのが、その背中からでも分かった。エルキドゥは夜明けの色に明るく染まる彼を見上げて、わかった、と頷いた。
「君の心に届くように、文字を綴って、君に届けるよ。君がぜんぶ、治るまでずっと」
「いつになることやら」
「また文字で遊ぶから」
 文字を刻み、文を綴り、心を揺らす。その遊びはもう不可解な苦しみではなくて、人の世を玩具にした遊びだから。自分の遊び場を自分で選んだ人形が、小さな声で歌いながらついてくる。街で流行っている淡い恋歌だった。王は、好きにしろと言って、水辺を歩く。
 視界の隅に赤いものが翻る。暁光なのか、夏の名残の筆なのか。人形はその紅にむけて、無心に手を伸ばした。
 彼に届ける新しい言葉を、つかみ取ろうとした。



  …end

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