男子高校生の日常 その2

昼飯の時間は長いようで短い。
譲介は大抵、真田が毎回手土産に持参する余分のパンを食べながら、真田が口にする四方山話を聞いている。譲介は真田が屋上に顔を出す日に間が持たないことがないようにポケットに単語帳などを忍ばせるようになったが、医者の家に生まれ、兄がいるという真田は、こちらが驚くほど口が達者だった。教師の中で誰がカツラを使っているか、クラスの女子の顔や体つきを採点する、といった程度の低い話題から、真田が最近はまっているというコンピュータの話。譲介が相槌を打つと、打てば響くようにまた話が続く。
花冷えの寒い風が吹いている。冷たい牛乳を飲み干した後、今日は早めに教室に戻るか、と考えていたとき「譲介ぇ、お前今日うちに寄ってかねえ?」と真田が言った。
「はぁ?」
譲介は眉を上げた。真田と昼飯を食べるようになって二週間。そもそも、屋上の外ではまだ話もしない仲だ。
従って、名前を呼び合うこともなければ、下の名を呼んでいいかと訊かれてもいない。だが、真田はそんな譲介の様子にはお構いなしで、「いや、兄貴の部屋で参考書探してたら本棚の裏に隠してた洋モノのビデオ見つけてさぁ。親もいないし丁度いいかなって。」などと話し続けている。
洋モノのビデオ。
文脈と真田の顔つき、ボインボイン、などという下世話な言い方と胸部を表すハンドサインをしている様子を加味して考えると、恐らくポルノ映画のことだろうと見当が付いた。
世の中というのは理不尽が過ぎる。医者の家に生まれた真田は、こんな脳内垂れ流しの発言をしていようとも、現時点で譲介よりずっと成績がいいのだ。本人は、もっと成績が良けりゃ、兄貴と同じガッコに行ってたぜ、と県内でも三つの指に入る高偏差値校の名を挙げたが、まあ私大の医学部を目指すなら今でも十分だろう。
「いや、お前興味ねぇのか?」
そもそも、そういうのは人と見るものなのか、と譲介が疑問を口にすると、気勢を削がれたような顔になった真田は「いや、まあそれは別にいいだろ。」と言って頭を掻いてから、食べ終わった後のパンの袋や牛乳のパックをまとめている。
「まあ兄貴もそういうもんだって言ってたし。」
ぽろりと口から出た言葉から推察するに、そのポルノビデオは、瓢箪から駒と言った具合に隠されていたものを真田が見つけたわけではなく、真田の兄が、弟の見つけやすい場所に置いていったのだろう。
「僕は、」
性的なことに興味がないわけではないが、そもそも譲介には、この屋上の外で真田とつるむ気はなかった。
他人のいない場所だから、人目を気にせずにこうして真田と話していられる。
外に行けば、譲介は『あさひ学園の子』で、真田は『真田医院の坊ちゃん』だ。
下心でこちらが取り入ったという視線で見られるのは、御免だった。
難しい顔をして顔を伏せた譲介をどう思ったのか、真田が立ち上がって、尻に敷いていた体操服入りのリュックを背負った。
「あ、言っとくけど、オレの家の近くに肉屋があって、夕方は揚げたてのコロッケパンとカレーパンが食える。」
お前がダメなら別のやつを誘っていくけど、どうする、と挑発するように真田は言った。
「………お前はメフィストフェレスか。」譲介は諦めのため息を吐いた。
「何だそれ。褒め言葉か?」と真田は満足げだ。
誘惑の悪魔というには貫禄は足りないが、真田徹郎は和久井譲介の『釣り方』を知っている。
行くよ、と腰を上げた譲介に、ニイ、と満面の笑みを浮かべて「決まりだな。」と真田は笑っている。


ところが、人生そう上手くはいかないものだ。
「なるほど、洋モノか。」と真田の広いベッドの上に腰かけ、二時間を過ごした譲介は言った。
「……オレが悪かった、って。」
真田は、大きなテレビ画面に白骨化した死体がバンと映った時点で、ダメだ、と言わんばかりに譲介の横で斜めになってベッドに倒れ込んでそのまま起き上がらなかった。
洋モノは洋モノでも、真田の兄である真田武志が置いて行ったのは、戦争映画だった。
世界史の中でも、近代史の範囲というのはほとんど受験の役には立たない。カンボジア内戦、と言われてもピンと来ないが、作られた年代よりも十年は前の世界情勢のことと考えれば、恐らくはベトナム戦争と同じ頃の時代の話だろう。武装勢力の弾圧や虐殺、屍累々といった画面で繰り広げられるのは、アメリカ人のジャーナリストと現地の協力者との友情。映像は、生々しい内戦の様子を伝えていた。
昼日中からカーテンを締めた暗がりの中。テレビ画面を見つめて最初は呆然としていた真田が、銃の乱射のシーンがあるたびに奇声を発したり両手で顔を覆ったりしてそれでも目を離さないでいるので、譲介は、そんな真田のことを、ぼんやりと眺めていた。
真田もまた、時折は画面から目を離し、こちらを伺っているのが分かった。
自分たちは今、公園ですれ違った相性の悪い二匹の犬みたいに、互いの距離を測りかねているのかもしれない、と譲介は思う。
人生には、憎むか、愛するかのどちらかしか選択肢がないというわけでもないのに。
エンディングのテーマが始まった途端「終わった終わった。」と言いながら真田が大きく伸びをした。
ドキュメンタリー映画さながらの迫力の画像が続いていたせいで息を詰めていた譲介は、手元にあったソーダを飲む。すっかり気が抜けてぬるくなっている炭酸水が、喉をうるおす。強い甘さで、少しだけ目が冴えた。
「骨とか流血が苦手だったなら、途中でビデオを切れば良かったじゃないか。」
「そんな半端なこと出来るかよ。」
途中で倒れていたやつがどの口で言う、と言わんばかりの発言に冷えた視線で答えると、真田は「……最後まで見てないっつったら、兄さんに馬鹿にされそうだしな。」と言った。
外では兄貴と言っていたくせに、家の中では「兄さん」か。
兄弟というのはそんなに正直に話をするものなのか。そもそも、大学に行った年の離れた兄と話すことがあるものなのか、譲介には良く分からなかった。
「兄弟って面倒そうだな。」
「……まァ、医大に行くのに詰め込み過ぎたんだろ。昔はあんなじゃなかったんだけど、受験戦争を勝ち抜くっつってる間に、すっかり性格が変わっちまった。」
カーテン開けるか、と窓辺に立った真田から、「げ、オフクロ。」と言う声が聞こえて来た。
真田の部屋は二階にあり、正面玄関に近いところに位置していた。幅の広い窓。どんな人なんだ、と譲介が真田の隣で階下を見ると、上品そうな和服の女性が門をくぐるところだった。
腕には買い物かごを下げている。確かに、お手伝いさんには見えない。
「譲介、お前もう帰れ。オフクロに見つかったら、飯の時間までいろっつって引き留められるぞ。」と真田が譲介の背中を押そうとする。
「おい、人を間男みたいに言うな。そもそも僕をここに連れて来たのはお前だし、靴は玄関にあるんだから、ここまで来たらどの道、鉢合わせだ。」
そういえば、真田の家の広く片付いた玄関には、譲介の履き古したスニーカーは、余りに場違いだった。
譲介は、真田の母親が、真田のように気にしない人ならいいのに、と思う。
「ここをさっと片付けて、今まで勉強してたみたいにカモフラージュする方が早い。」
鞄の中から、金曜まで使わない古典のテキストとノートを出して、飲み物を広げていた折り畳みのローテーブルに適当に広げると、真田も譲介の真似をして、リュックから教科書や参考書、ノートを何冊か取り出した。譲介は、普段教室で隣にいる真田とは、授業中は目も合わせない。こいつはどんな風にノートや教科書を使ってるんだ、とちらりと視線を流す。
真田の教科書は色つきペンや蛍光ペンを使っているせいか、カラフルな色どりがあり、かっちりとしたノートの取り方も、後から見やすいような工夫がされている。落書きなどはほとんど見られない、綺麗なものだ。ボールペンと鉛筆の一色の走り書きが多く、雑然として見える譲介の教科書やノートとは全然違っていた。
ふうん、と興味を示して教科書を取り上げると、テーブルの前に隣り合うようにして胡坐をかいた真田と視線が合った。
「譲介、ちょっとオレと勉強してくか?」と真田が言う。言い回しは可愛子ぶってはいるが、実際に真田は譲介と同じ十五の男で、映画を見ていた時の可愛げは、すっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。
「僕の方には家庭教師代を払う金はないけどね、真田徹郎くん。」
真田の母親を顔を合わせる時には、無難にくん付けがいいだろうな、という計算をした譲介の言葉に、「徹郎って言え。」と真田は真顔で言った。
「明日はカレーパンといちご牛乳。」と譲介も真顔で答える。
「譲介ェ……。」
おめぇってやつはそういうやつだ、と芝居がかった調子で言って、真田はテーブルに突っ伏した。
「僕は現実的なんだ。」
真田医院の坊ちゃんよりずっと、という言葉は、心の中に沈んでいく。この状況が、なぜか素直に楽しいと思える。
さあどうする、と返事を待っていると、「っ、わーったよ。」と真田が折れた。
ついでにオフクロにカレー作ってくれるか頼んでみるわ、と言って立ち上がる。カレー、という単語に譲介の気分は更に上向いた。
夕食か。
あさひ学園への連絡のことが頭を過ったが、後で電話を借りればいいか、と譲介は思い、次の単元の予習のために教科書を開いた。

powered by 小説執筆ツール「notes」

511 回読まれています