麦茶
壁掛けの時計の音が九つ鳴った。
子どもが家に来て変わったことがいくつかあるが、これもその一つだ。
音が鳴る壁掛けに変えただけで――二度寝すると決めた日は別だが、――僕の方の寝坊はほとんどなくなった。
子どもが呼びに行っても、朝飯が済んでも、片付けが終わっても、兄弟子が起きてこない。
セックスをした翌朝や夜席の仕事があった翌朝であれば、気にも留めないことだ。
隣にいることは分かっているが、自分も顔を見ないことには落ち着かない。
腹が減ってないのか、まさか熱でもあるのかと炊いたばかりの白米を塩むすびにして、それを片手に扉の前に立った。
子どもの出入りを想定している前提の不用心というのは分かっているが、ノブをひねると扉が開いて舌打ちをしそうになる。
入りますよ、と一言断って隣の部屋の扉を開けると、半袖のパジャマのままの兄弟子は、ヨガのインストラクターのような格好で布団の上に突っ伏していた。
掛ふとん代わりのタオルケットは横にほかしてあって、起きているような気配はある。
「どうしたんですか?」と声を掛けると、「………見て分からんのか、腰痛いから起きられんのや。」といって布団から顔も上げずに反論した。
「浮気ですか?」と隣にしゃがんで聞くと、黄色いパジャマを着たままの兄弟子は「はあ!?」と顔を上げた。
「昨日は、なんもしてへんやないですか。」と胡坐をかいた。
それどころか、ここ暫くはずっとご無沙汰だ。仕事だなんだのと理由を付けて、それ自体はまっとうな理由ではあるのだけれど、これだけ続くと避けられているような気さえしてくる。
「……ドアホ。そういうのとちゃうで。」
「そういうのて、どういうのです。」
十年前なら考えなしに手を出していたところだ。
なだらかな尻の起伏を眺めてるだけでどうこうなってしまうほど若くはない、とはいってみても、この人の方に多少のその気があるというのなら話は別だ。
その辺りを確認したくなって口にした言葉に、相手は「セッ……クスでのうても腰痛くなるやろ、昨日は子守してただけや。……お前よりはずっと軽いけど、子どもかて抱き上げたらそれなりに重いんやぞ。」と口ごもって赤くなり、こんなん朝からする会話とちゃうで、と言ったきり下半身をもぞもぞさせている。
食事を持って来たという建前もあって声を掛けあぐねていると「その握り飯、朝メシか?」とやっと出て来た問いに、そうです、と頷く。
兄弟子は、横にあったタオルケットを掴んでその中で身体を丸めてから、不機嫌そうな顔つきで腰の回りに上掛けを巻き付けてから起き上がった。
「腹、減ってますか?」
「減ってる。」
兄弟子は、半目のままでその長い手を伸ばして、握り飯ではなく、枕元に倒れていた目覚ましの方を手元に持って来た。
「九時過ぎてるな。」という独り言のような言葉に、「そうですね。」と相槌を打つ。
「麦茶……冷蔵庫に入ってるから入れてくれ。」
「分かりました。」と言われて冷蔵庫を開けると、珍しいことに肉だの大根だのの生鮮食品が入っていた。
「何か作りたいもんでもあるんですか?」と言って振り向くとすでに握り飯にかじりついていて、後で話すというような手ぶりをしている。それとも、もしかして冷蔵庫の扉を閉めてまえ、とでも言いたいのだろうか。
麦茶の入った紙パックを取り出して流しに置いてあったコップに移し替えようとすると、「おい、シーソー、それうがい用のコップや。やめえ、」と見咎められた。
「一度洗います。」
「それも止めえ。……オレのコップ、牛乳飲むて言って、昨日お前んとこに持ってったきりや。」
今思い出したわ、と言いながら、兄弟子は指についた米粒を食べた。
赤い舌が口の中を出入りする。
「それ、本当に昨日の話ですか? 今朝は見てないですけど。」
「あっちで洗って、そのまま皿入れとく棚に、仕舞ってしもたんとちゃうか?」と言われて、子どもが今朝、あ、と声を出していたのを思い出した。
(あれか。)
実際に見てはいないが、食器棚を開けた子どもがこの人のコップを見つけ、あの時点では起きて来るだろうという目算で棚に戻した可能性がないでもない。
仕方がないので、隣に戻って伏せて置いてあった子ども用のマグカップと自分のもの、ふたつを持って戻って来ると、年下の男は、パジャマを上だけ脱いで、見覚えのある橙色のタンクトップになっていた。
「それ、まだほかしてなかったんですか。」
「あの頃の服の生地が頑丈過ぎるんや。ほかすかどうかは、まあ……今より腹回り出て来たら考えるわ。」
若い頃と変わらない薄い輪郭から目を逸らし、ゆで卵のような明るい白地にマリンブルーの縦縞のマグカップを水で洗い流す。軽く布巾で拭いてから、冷蔵庫から出しっぱなしの麦茶をなみなみと注いでどうぞ、と手渡した。
「これ、後で知ったら、おちびが怒るんちゃうか、」と吹き出しそうな顔していたが、ありがとうさん、といって茶を美味そうに飲み干した。
その様子を見終わってから、自分の小さなカップに麦茶を注いで飲んだ。
ずっと冷蔵庫にあったせいか、しばらくこの温度に置いていても、十分に冷たいのど越しだ。
「冷蔵庫の中に入ってた材料、まさかとは思いますが、関東炊きですか。」
「たまにはええやろ、オレが作れる料理なんか他にはそう多くあらへんし。卵と、後は昆布結んで。ちょっと時間は掛かるけど。」
「……この暑いのに。」
「暑いからや、て。……あんなあ、あと、次から握り飯そのまんまより海苔巻いた方がええで。」
「覚えておきます。」と言うと、年下の男は笑って「……オレの好みとちゃうわ、子どもと食べるときの話や。」と手を振った。「よそのうちの子のおにぎりは海苔巻いてあるんやで~、てこないだ言ってたで。」と話すその顔が、妙に可愛く見える。
「この部屋、紙コップ置いてないんでしたっけ。」
子どもが外に出かけた時、水筒にそのまま口を付けるのが嫌だ、と言っていた頃に、日暮亭の近所の店で買ってきた記憶がある。
「それも全部お前んとこやろ。」と言われて、そうだったかもしれない、と思い出した。
「帰りにスーパーで買ってきます。」と言うと草若兄さんは、自分で買って来るて、と苦笑した。
「塩むすびだけで足りますか?」と聞くと、「今はこれだけでええわ。皿とコップ、まとめて持ってってくれ。」と笑って手を振った。
確かに、証拠隠滅は早い方がいい。このまま部屋に戻れば、後は着替えて、草原兄さんの自宅に稽古に行くだけだ。
子どもがどこかで時間を潰して来るにしても、長く時間は取れない。
「ソレ、手伝いますか?」
「………ええて。」
「僕がしたいんですけど。」
ずっと足りてへんかったでしょう、と膝立ちで近づくと、草若兄さんの顔が朱を刷いたように赤くなった。
「したくないわけとちゃうけど……お前、こないに間ぁ開けてからやとなんやねちこいし……。」と兄弟子が口ごもる。「下のバイトのヘルプ入ったら、それこそ途中でオレのことほっぽり出していくやろ。」
年下の男の声は段々と小さくなって行って、最後は耳を澄ましても聞こえないほどだった。
アルバイトが理由で邪魔が入ったような記憶はないけど、そういえば最中にドアを開けられそうになったことなら一度だけあった。
「………あれは、」
僕が部屋を出てさっさと下に行かないと、すっかり見られてましたよ、と言ったところで言い訳にもならない。好きなだけセックスがしたいなら、外に出て行くべきなのだ。
僕もこの人も、どうかしている。
「いや、やっぱ今のなし! あんなあ、お前は、早ぅこの頭どうにかせえ。」
稽古行く予定入れてたんとちゃうんか、と長い腕が後頭部に伸びてきて、顔と顔が近づいた。
話題を逸らそうとしているのか口づけを促されているのかは測りかねたが、自分がいいように解釈することにした。
口と口を合わせて、それでどつかれたらそこで退くだけのこと。
でなければ続きをする。
今から僕としたいですか、と尋ねて回答を迫ったところで、素直にはいとは言わないことは分かっているし、分が悪い雰囲気の時は、自分からは迫らない方がいい。
それでも。
「しつこくしませんから。」
視線を合わせたまま適当に言うと、「しつこくせんかったらええて話とちゃうし、……お前のやないと最後までイケへんし……。」と相手は顔を赤くして目を逸らした。
「触ってもいいですか。」
「オレがいやや、て言っても聞いたことないやろ。」
まだ腰も痛いのに、とぼやくような答えが返って来たので笑いそうになった。
止めたいと言われても止められないに決まってるから、今こうして聞いてるのに。
こちらからも手を伸ばして腰を擦ると、あ、と最中のような声が聞こえて来た。
パジャマのゴムをくぐって尻の上の方まで手を移動させると、身体が震えて、こちらに顔が近づいて来る。
中学生同士のおふざけのような口づけを終えて「布団の上で横になってください。」と言うと、年下の男は、酸欠で真っ赤になった顔のままでパジャマの下の方と下着とを一緒に脱いで布団に寝転び、いつものように目を瞑った。
上にかぶさるようにして口づけをしながら下肢に手を伸ばすと、すっかりと湿って形を変えたものが指先に触れる。
口づけの合間に「僕はコレ、何も着けずにそのまんまの方が好きですね。」と言うと、このドアホ、という悪態が聞こえ、鳥の巣に例えられた後頭部の髪がぎゅうと引っ張られた。
痛いです、兄さん。
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