クレイジー・リッチ・ドラゴンズ(ラオとクン・ジン)
クレイジー・リッチ・ドラゴンズ
ラオが従弟のクン・ジンに電話をかけた時、彼は街を歩いている気配がした。
雑踏のざわめきと行き交う車の音がする。クラクションと怒鳴り声がする。誰かがジンに挨拶する声がする。ジンがそれに応えてハイファイヴを打ち鳴らす音がする。街を歩いている時に誰かから電話がかかってきたら、ラオであればどこか往来の軒先やビルの隙間で立ち止まり話せる場所を探すし、なければ相手に断ってかけ直すだろう。でもジンは歩いたままで話す。ラオには年若い従弟が長い脚で大股に街を闊歩しながらスマートフォンに向かって大きな声で話す様子が容易に想像できる。礼儀知らずでお行儀が悪いが、それがどうしようもなく様になっている様子が。
ふいにジンの背後で聞き慣れないパトカーのサイレンの音が聞こえた。アメリカのパトカーではないその音にラオはスマートフォンを右手から左手に持ち替え、話を中断して従弟に尋ねる。
「ジン、そこはどこだ。LAじゃないのか?」
「パリだよ」
「パリ!?」
てっきりLAの自宅にいるものと思っていたラオは驚く。電話の向こうでジンが笑った気配がした。
「ファッションウィークだぜ、兄弟」
それですべての説明が済んだと言わんばかりのジンの言葉にラオは苦笑する。このファッションヴィクティムの従弟がファッションウィークが始まれば今日はパリ、明日はミラノと世界中を飛び回って捕まらないのを忘れていた。そもそもラオ自身はブランドのファッションショーに全く興味が持てないので日程を毎シーズン忘れてしまう。そうか、今はパリコレの時期か。
「すまない、そちらは真夜中だろう?てっきりLAにいるものだと」
「構わない、まだ一時半だ。宵の口だろ。ディオールのアフターパーティーに向かってるとこだ」
「どうだった?気に入った服はあったか?」
「まあまあだ、今年は退屈なシーズンだな」
そういうジンがワンシーズンで数百万ドルをオートクチュールの洋服に注ぎ込んでいるのをラオは知っている。ジンの着道楽は今に始まったことではない。ラオが親戚のなかで一番仲が良く信頼しているジンだが、二人の趣味はまるで合わず話が合うこともない。そもそも自分たちがこう頻繁に電話をする仲だとはクン家の人間は誰も知るまい。ラオはクン家の跡取りで、ジンは一族の落ちこぼれだったから。
「名門の男の子は、お金の話をするものではありません」と言われて質素倹約を旨として育てられたラオにとってジンの金の使い方はいっそ爽快なほどだった。ジンは自分が裕福であることを隠そうとせず人生を楽しんでいる。金があるのにないふりをして質素な生活を送るクン家の人間たちが下品だと眉をひそめるようなジンのライフスタイルはラオにとっても決して羨ましいものではなかったが、ある意味では憧れと言ってもよかった。18歳でカリフォルニア工科大に留学(たとえどんな名門校だろうと、クン家の子弟でイギリスに留学できずアメリカの大学に留学するのは落ちこぼれだと見なされていた)し、サンフランシスコで西海岸のスケート・カルチャーと出会ったジンと久々に再会したのはラオがオックスフォードを卒業しニューヨークの大学に東洋史の講師の職を得たためだが、その時はもう彼はスケーターとしてちょっとした有名人だった。オリンピアン候補に目されるほど(もちろんクン家の子弟にそんな生き方は許されていないが)のスケートの腕前に加えその華やかな私生活は常にゴシップ好きの格好の話題だったのだ。ファッションウィークともなればフロントロウでKPOPアーティストと並んでいるところをパパラッツィに撮られゴシップサイトを賑わし、自らもインスタグラムで有名アスリートやアーティストやモデルとの交友を無邪気に披露する。世界に50足しかないスニーカーを履いて、「10年先まで予約が取れない」と言われる人気のタトゥー・アーティスト、ドクター・ウーの手による美しく呪術的な刺青を脚の脛から首筋までびっしり刺し、血統書つきの猟犬のような容貌を洗練されたストリートファッションで包んだジンは熱狂的なファンを持ち、長く伸ばしたつややかで真っ直ぐな黒髪を高い位置で結い上げたシンボルマークのような髪型を世界中のアジア系の少年たちがこぞって真似をした。ジンが自分のライフスタイルを見せびらかすようなことをするのはおそらくそれが目的なのだろうとラオは思う。ジンは世界じゅうのアジア系の少年たちの憧れなのだ。
もちろん彼の生き方はクン家ではまるで歓迎されていなかった。クン家はヴァンダービルド家やロックフェラー家やヒルトン家のような成り上がりの下品な成金とは違う。先祖を辿れば清朝の皇帝の血筋につらなる高貴な家系なのだ。富を見せびらかしてまわるような真似をするものではない。それが彼らの主張だった。かたくななまでにプライヴァシーを重視するがゆえクン家の存在さえ一部の人間をのぞく世界の人々は知らないだろう。なのにジンは何百年にも渡るクン家のルールを破ったのだ。一族から非難され孤立するジンはしかしそのことを気にかける様子もない。タトゥーを入れた時は母親が、つまりラオの叔母が心痛のあまり卒倒し病床からラオに電話をかけてきて、どうかレーザー手術でタトゥーを除去するようあの子を説得してくれないかと涙ながらに再三せっつかれた。一応、義理を果たすつもりで「母上が心配なさっていたぞ」と忠告だけはしたが、ジンは鼻で笑い、「成人した大人がタトゥーを入れるのに親の許可が必要か?」と歯牙にもかけなかったし、正直なところ、ラオも内心ではそう思っていた。一族からは厄介者扱いされているジンのことを、だがラオは気に入っている。大切なことを相談するくらいに。
「リュウは元気にしてんの?」
ジンが電話の向こうからラオに尋ねる。二年前から付き合っている同じ大学の体育学部の教員であるリュウ・カンをジンに紹介したのはそれこそ彼がファッションウィークでニューヨークを訪れた昨年のことだ。ラオほどではないが、リュウもまたきまじめな性格で遊び歩くタイプではない。心中ひそかに恋人と従弟の話が合うか心配していたのたが、それは杞憂に終わった。保健医療の専門家であるリュウの特に理学療法と鍼灸を組み合わせた独自のメソッドにアスリートでもあるジンは興味を持ち、二人はあっという間に打ち解けたのだ。リュウはジンの履いていたNBA選手のサインの入ったバスケットシューズを褒め、ジンはそれを喜び「ラオに自慢しても全然興味ないから張り合いなくてさ」と嘆くふりをした。リュウはジンの語るスケーターの慢性的な筋肉疲労に興味を持ち、専門家としていくつか有益なアドバイスをし、ジンはリュウの行きつけのヴィーガンカフェをひどく気に入り、LAに帰ってからいくつかのメニューを食生活に取り入れたそうだ。リュウはジンに連れて行ってもらったクラブでかかっていた曲をとても気に入り、ほとんど半同棲状態のラオのフラットではあの頃ザ・ウィークエンドの新譜ばかりかかっていた。ラオにはわからない昔のNBA選手の話で盛り上がる二人にいっそひそかに嫉妬したほど、リュウとジンは馬が合ったようだった。
「元気だよ。会いたがってる」
「送ってくれたストレッチの動画、毎日やってる。調子いいよって伝えて」
「必ず伝えよう。喜ぶよ」
ラオは慎重に答える。今日ジンに電話をしたのは、まさにそのリュウのことを相談したかったからだった。ラオは咳払いをして、ジンに告げる。
「旧正月に、帰省しようと思っている」
電話の向こうで、ジンが沈黙する。
★
「……リュウを連れて?」
慎重に、声をひそめてそう尋ねると、従兄は電話の向こうで咳払いをした。ジンは答えを待つ。そうだ、と重々しく従兄が答えた。
「二年も付き合ってるんだぞ。遅すぎるくらいだ」
「……まあね」
あんたたちが普通の恋人同士ならね、とジンは内心で付け加える。いや、少し違う。ラオとリュウが普通の恋人同士じゃないわけではない。普通じゃないのはラオの方だ。正確には、ラオの家の。
「リュウはなんて?」
「まだ話してない」
「なんで」
なんで、と聞きながらジンにはその答えがなんとなくわかっている。断られるのが怖いのだろう。ジンの従兄、偉大なるグレート・クン・ラオの末裔であるこの王子様は、こと恋愛にかけては少年のようにうぶなのだ。だがそんなのんきなことを言っている場合じゃない。クン家の跡継ぎが、恋人を連れて帰る。それはおっそろしく一大事なのだ。
「リュウは知ってんの?家のこと」
「家の、何をだ」
「クン家のことだよ」
「特になにも。口うるさい母とのんき者の父と、手に負えない不良の従弟がいると言っただけだ」
従兄の冗談にジンは儀礼的に笑ってあげて、すぐに「そういうことじゃない」と続けた。
「ほかに何を言えと言うんだ」
「あるだろ、肝心なことが。自分の家は金持ちのくそったれダウントン・アビーみたいなとこですってさ」
ラオは沈黙する。ラオがこの手の話題を苦手としていることはジンも知っている。金があるのにないふりをするのがクン家のルールだからだ。高級メゾンの服など着ず出入りの仕立て屋が作ったオーダーメイドの服を着て、流行りのレストランなど行かず家でお抱えのシェフが作った食事を食べる、それが何百年も続くクン家のやり方だった。ラオもまた、幼少の頃から金の話をしないよう躾けられてきた。自分の総資産がいくらあるのかさえラオは知らないだろう。従兄のそういう鷹揚さはどちらかといえば好ましい性質だったが、この場合はむしろ致命的な欠点だろう。なにをのんきなことを言ってるんだ?「グリニッジ・ビレッジの貧しくも幸せな恋人同士」ごっこのやりすぎで忘れちまったのか?自分が王子様だってこと。だがジンはそれを言葉には出さない。ラオがひどく傷つくことがわかっているから。ラオが自分にこんなにも胸襟をひらいているのはつまりそういうことだ。ラオは憧れているのだ。クン家の期待を裏切り続けるジンに。自分は家の期待を裏切ることはできないから。それを知っているので、ジンには何も言えない。
「ラオ兄がリュウに何も言わないって決めたのなら俺には言うことはないけど、でも、俺なら言うね。リュウには心の準備が必要だろ」
「……どう言えばいいんだ」
「……まあねえ……」
ラオとジンは同時にため息をつく。たしかに自分たちの家のことを他人に説明するのは骨が折れる。ジンはラオの祖母の持つ膨大な宝石のコレクションのことを思い出す。時の皇帝から直接下賜されたという、黄金の龍が五本爪の前脚で掴んでいるゴルフボール大の翡翠の玉や、革命から逃れてきた亡命貴族が逃走資金を捻出するためにクン家に売り払ったというロシアの世界最大のブルーダイヤ。あんなものを見慣れて育ったラオから見ればティファニーもブルガリも露店のプラスティックのおもちゃの指輪と変わらない価値しかないだろう。ラオの鷹揚さ、物質主義ではない精神性、高価なものに対する無頓着さは、あまりにも高価なものに囲まれすぎて育てられた性質なのだ。リュウはそれを知らない。ラオが金にこだわらないのは、彼が善良だからだと思っている。
それに、とジンは思う。もうひとつ、肝心なことがある。リュウはとてもいい奴だし、自分は彼が好きだ。けれどリュウがクン家に受け入れられることは、決してないだろう。ラオからさりげなく聞いたリュウの生い立ち、身寄りがなく、苦労しながら奨学金で大学まで卒業したというそのストーリーはアメリカンドリームそのものだろう。だがクン家の人たちはアメリカンドリームを毛嫌いしている。下の人間が上に上がることを。
「お袋さんがリュウに親切にすると思う?」
「リュウは誰にでも好かれるだろう?現に君も」
「うん、俺もリュウのことは大好きだよ、でも」
「母も気にいるはずだ」
その言い方、本人は気づいていないんだろう、その言いぐさは王子様のそれだ、とジンは思う。ラオはあの家から逃れたいと思っているのに、やはり最終的にはあの家に帰るしかないのだろう。おれならこう言う、「母がリュウを気に入らなかったからといって、それがなんだ?」と。それが言えないのは、ラオがクン家の次代当主だからなのだろう。ならばなおのこと、リュウはあの家にはけして受け入れられることはない。血筋をなによりも重んじる人たちだから。リュウの存在はラオが初めてクン家の期待を裏切ることになるのだろう。
ジンは大きく息をつく。腕に巻いたスマートウォッチにちらりと目をやる。ディオールのアフターパーティーはとっくに始まっているだろう。まあそれはいい。それより。
「俺も帰るよ」
「……本当に?」
電話の向こうでラオのあきらかにほっとしたような声がした。「旧正月だしな」と自分でもまるで説得力のないことを言う。旧正月に実家に帰ったことなどこの十年一度もない。けれど。
「リュウには味方が必要だろ」
「……ありがとう」
ラオの、肺の底から絞り出すようなその礼の言葉にジンは改めてこの尊大で傲慢でバスケ選手の名前を一人も知らない従兄のことを自分はけして嫌いになれないことを悟る。仕方ない。ラオのため、そしてリュウのためだ。俺はこの二人がけっこう好きだからな。
電話を切ったジンは真夜中のパリの夜空を仰ぐ。橋の向こうにライトアップされたノートルダム寺院が見える。本当ならあそこで行われているパーティーに参加していたものの。
嵐の気配がする。そのただなかに飛び込もうとしているラオと、リュウと、そして自分のことをジンは思う。
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