遥けき声

  スウは空を見上げる。
  一面の薄い青に綿をちぎったような雲が浮かんでいた。乾いた風は今日も強い。砂粒が髪に絡む。雨が降ったのは一週間前。しかもすぐにやんでしまって水たまりができる前に砂の中に消えた。

 ここはスウが生まれたところでも育ったところでもない。スウはひと月前ここにやって来た、らしい。
「らしい」というのはスウがその前後、高熱を出していてよく覚えていないからだ。久しぶりに頭がすっきりして目が覚めたと思ったら、見知らぬ場所にいて驚いた。
 見知らぬ場所にいることだけではなく、生きたまま、どこも損なわれずに目が覚めたことに驚いたのだ。
  けれど一週間も経たないうちに、ここが今まで過ごした場所のどこよりも静かで清潔で安全な場所だとわかった。
用意される食べ物は腐っていなかったし水も濁っていなかった。怒鳴られないし、目が合って殴られるどころか挨拶をしてくれる。スウが何かを尋ねるとたいていは手を止めて教えてくれたし、何より名前を呼んでくれた。
  剃髪している人が多かったので、ここはお寺かと聞けば「そうだ」と答えが返ってきた。学校のようなものもすぐ近くにあるらしい。スウも望めばそこに通うことになるらしいが、今はまだ新しい環境に慣れるのが先だとも教えられた。ただ、彼らがなにを信じているのかはまだ聞いていない。

「スウ、豆を剥くのを手伝ってくれるか。今日の夕食に間に合わせないといけないんだ」
  |厨《くりや》の僧の一人がスウを呼び止める。スウが一番最初に親しくなった人たちだ。今も籠いっぱいの豆をスウに見せこっちへおいでと手招きしている。
「やります!」
  スウは走り出す。いつも美味しくて温かいものを作ってくれる厨の僧たちがスウは大好きだ。手を洗い袖をまくって台の前に立つ。
「いつもより多くないですか?」
  スウは目の前にこんもり積まれた山と声をかけてきた僧を交互に見やって目を丸くした。スウにあてがわれた籠の中身はまだ残っていたし、さらにまだいくつもほかの野菜が山と積まれた籠がある。
「今日は客人と外に出ていた仲間たちが戻ってくるからな。たくさん作らないといけない」
  大量の下ごしらえに勤しみながらもみんな楽しそうだった。
  莢を割ると中にはつやつやとした緑色の豆が並んでいる。それを親指でこそげて笊にあける。莢は乾かして焚きつけに使うから足元に置いた|箕《み》に投げ入れていく。
  無心に作業を続けていた手を止め傍らのを笊見ると、緑の豆たちはちょっとした宝石の山のようになっていた。
「……きれい」
  うっとりとした声が漏れる。
  合間に食べるといいと貰った棗菓子を齧って一息ついたスウは次の山に取り掛かった。

  ここは日が落ちるとすぐに冷えが忍び寄ってくる。朝のうちに洗って乾かしていた上掛けを取りに、スウは中庭を横切っていた。本当は日のあるうちに取りに行くつもりだったが、厨での手伝いに思いがけず時間を取られたせいでこんな時間になってしまった。
  客人や戻ってきたという人たちにも会ってみたかったが、明日の朝にも機会はあるさと、僧に言われ夕食も皆が揃う食堂ではなく厨で食べさせてもらった。

取り込んだ上掛けを胸に抱き自分の房に戻ったスウは|臥榻《がとう》を整える。
「──」
  誰かに呼ばれた気がした。けれど振り向いても誰の姿も見えなかった。気のせいかと背を向ける。
「──」
  また聞こえた。決して気のせいではない。
  ぎゅっと上掛けを抱える腕に力がこもる。スウは恐る恐る外を伺い一歩外に踏みだした。
 夜空が開ける。明かりがほとんど外に漏れないおかげで足元の砂粒と同じほどの数の星を抱えた夜空。
  きらりと、夜空と砂の間で何かが光った。
  駆け寄ると緑の小さな破片が散らばっている。 
  昼に剥いた豆のようなつやつやした緑。けれどあの緑よりもっと濃くて、なのに透き通ってきらきらしている。
  ぴったりの言葉があるはずなのにそれがわからない。スウはうまく言い表すことのできない歯がゆさに焦れた。
「──」
「──!」
「────!」
  切々と胸に迫る声、けれど言葉として理解できず何を言っているのか、誰を呼んでいるのかわからない。スウの足は根が生えたかのように動かない。
  頭の中で音が駆け巡り、目の前に緑の破片が煌めき続けた。

「何を泣いている?」
  初めて聞く声がスウを引き戻した。もう音は聞こえず、緑に光る破片は包然と消え砂と夜が広がるだけだった。
  肩で息を繰り返しながらスウは声の方を振り返る。そこには黒髪の見たことのない青年が心配そうに立っていた。
  胸が熱い。伝えなければこの人に。
「こ、こえが、豆の色よりもっともっときれいなみどりで、きれいで悲しくて──」
  昂る感情のままスウの目からぽろぽろと涙がこぼれる。
「さびしくて──」
  つかえながらようやくそこまで言うと、青年が目の前にしゃがんでいた。黒い髪に絡む赤い紐がはっきりと見えた。
  スウの頬に流れる涙を拭いて青年が微笑む。
「私の名前はリュウ・カン。私と一緒に中に戻ろう。そしてもう少しその話を聞かせておくれ」
  差し伸べられた手に灯る炎は暖かな色をしていた。




※臥榻:寝台、ベッド

初出:2021.12.04『道の知らなく』

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