インスタントコーヒー



「K先生、たまにはお休みを取られたらどうです? 富永先生に御実家に戻られてから、ほとんど休んでないでしょう。」
麻上くんが差し出して来たチラシに一人は目を丸くした。
「不死の湯☆開店記念。イベント盛りだくさん……?」
太文字の中を彩る虹色が目に痛い。
チラシの端には四角い点線が書かれていて、子ども用只券と書いてある。
明らかにパソコン初心者が精いっぱいワードを駆使して作ったと思われる、センスの欠片もないチラシをまじまじと見つめた一人は、相手の意図を測りかねて、彼女の顔を眺めた。
「ここへ出かけろと?」
四時からはヤクルト飲み放題、みかん食べ放題と書いてあるが、村にはもう一也と同年代や年が下の子どもはほとんどいない。まあ誰かが孫を連れて来るだろうと思っての企画かもしれなかった。
「配管のやり直しで、今はもうガスの懸念もないようですし、ほら、休憩所に新しいマッサージ機を用意しています、と書いてあります。大学や他所の病院にいらっしゃるのも結構ですけど、近場で気分転換もいいものですよ。」
「君はどうする?」
「私はイベントの後で顔を出します。張り切り過ぎた人たちの健康状態が気になりますから。」という彼女の顔を見て、気分転換と言いながら、やはり半分は気がかりもあるだろう。
「たまの外風呂か。」
きっと楽しいですよ、と言いながら彼女がコーヒーを出してきた。
二回に一度くらいは自分で淹れようと思っているのに、また忘れてしまった。
富永がいれば、こういう時に適切なツッコミが入るのだが、と思いながら、一人はいつものインスタントコーヒーに口をつけた。




「もしそのうち何かの拍子でオレの家に顔を出す機会があったら、やっぱ浴衣の着られる場所で泊まって欲しいんですよね。ないでしょ、パジャマのサイズ。」
富永の息抜きタイムは、いつものように唐突に始まった。
実家の病院の最寄り駅周辺にあるという旅館のホームページを見ながら、富永は言った。
ここなんかどうです、と言って、回転させたパソコンの画面には、割烹の料亭のような落ち着いた佇まいの建物の写真が写っていた。
休憩につきあえと言うのでコーヒーを淹れながら写真を見ていると「オレ、そういえばこたつでダラダラしたことってないんですよね。」と、富永が言った。
淹れたばかりのコーヒーの中に、今朝食べたヨーグルトについてきた粉砂糖をさらさらと混ぜている。
話に脈絡がないように思えるが、何かが富永の中では繋がっているのだろう。
「いつも白石さんのお宅でこたつに当たって来てるだろう。」
「患者さん家で、本気でダラダラするのは難しいっすよ。テレビ付けて、時計を見ずにぼんやり過ごしたいんです。」
確かに、普段の往診中では、いくら茶菓を出されたところで、やはり気を遣う。
こう見えて富永はそれなりに大人で良識もある。
と、そこまで考えたところで、先日、うたたねをしていたところを起こそうとした際に、寝ぼけてアイドルの名を口走った男の顔を眺めた。『モエミちゃん、思ったより手がごつごつしてますね。』
鼻先にこみあげて来た笑いを抑えて「実家にこたつがなかったのか?」と尋ねると、ウチもほとんど洋間だったんで、と富永は肩を竦めた。
「この診療所にもないじゃないですか。」
「いや……、」と言葉を濁すと、富永は記憶を探るような顔になった。
「ふーん。見たところ、物置になってるとこには仕舞ってなかったような気がするんですけど。」
「古くなったのを使い続けるのも危ないから捨ててしまった。」というと、富永はこちらを伺うような顔になった。
父母が揃っていた時代は、確かに村の住人は多かったが、皆若く壮健で、それだけに病の人間も少なかった。今のように、冬場や夏場になれば、毎日のように不調の人間が出るということもなかったのだ。
だからこそ、正月だけ出していた時期はあったが、母が亡くなり、父が消えて、村井さんがいなくなったその後、こたつを安置していた二畳分の畳敷と一緒に粗大ごみにした。
「診療所で一台買うか?」
「え?」とコーヒーを啜っていた富永が顔を上げた。咄嗟に口が滑った、と思ったが、富永は既に、その顔に喜色を浮かべている。
「ここに置き場がないとしても、空き家のどこかに置けばいい。」
村には、いくつかの無人の家があることを富永も知っている。
農業や林業に従事して残る人間は減っていくばかり。その一方で、生活の便利さや職場からの利便性のために、村を離れていく人間は年々増えている。それでも、いつか移住するか、戻って村で暮らしたいと思う誰かが使うことがあるかもしれないという一念から、診療所でも、いくつかの家を季節ごとに風通しや雪囲いをしてその管理の一端を担っている。
基本料金の支払いをして掃除のための電気は引いているので、誰でも一時の逗留は可能だ。かつてのように、畳を買わずとも正月の間だけこたつを使うということも出来なくはない。
「いや、正月の時期だけって、勿体なくないすか? それに、こたつ以外の熱源がないとやっぱ寒いっすよこっちは。」とS県育ちの富永は考え直したような顔で言った。
確かにそれはそうだ。ストーブを炊けばいいのだろうが、それで火事になっても困る。
「診療所に復活させるにしても、空き部屋そんなに広くないですしね。一番でかいサイズで四隅あっても、オレの入る場所ないかも。」
「……?」
「一也くんとKで満員だろ。まあスペースなくても詰めてもらうけどさ。大型のテレビと一緒に、そのうち、今度の冬にでも買いましょうよ。でかいテレビがあれば、駅伝見るのも、きっと楽しいだろうな。」


インスタントコーヒーの暖かな湯気を眺めていると、もしかしたらあるはずだった光景が目前に現れた。
受け取ったチラシを眺め、叶いもしない約束というものはするものじゃないな、と呟くと、麻上君が、少し困ったような顔でこちらを見ているのが分かった。
そういえば、あの日淹れたコーヒーは、誰かの家から貰った歳暮の品で、いつまで経ってもなくなる気配もなかった。
いつまでもなくならないインスタントコーヒーのように、あの生活がずっと続くと思っていたのだ。
思い出を振り返り終えた一人は、今日は早めに仕事を切り上げよう、とコーヒーを飲み干し、もう一人の相棒に笑顔を向けた。

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