弟子バロ(未満) クリスマスの夜の話
|倫敦《ロンドン》一有名な住所――ベイカー街221B。その家のドアを開けて外に出た途端に肌を刺す冷たい空気に、バンジークスは小さく息を詰める。つい先程までのあたたかで明るい室内とのギャップで、余計にこの冬空を寒く暗く感じてしまうようだった。
厚手の|外套《コート》を着ていてもなお、冷たい空気がすり抜けてくるのがこの倫敦の冬の厳しさだ。見れば、空からは|細雪《ささめゆき》が舞い散り、地面を少しずつ白く染め始めている。何時の間に降り始めたのか。どおりで寒いわけだ、とバンジークスはひとりごちた。しかし隣を歩く東洋人の弟子はといえば、バンジークスよりも遙かに薄着だというのに寒がる素振りなどひとつも見せないのだから不可思議だった。
雪の夜更けに通りを歩く人は少ない。それもそうで、今日は|特別《、、》な日でもあるからだろう。雲に覆われた暗い夜道に並ぶ|瓦斯《ガス》灯が、ある家の庭にかわいらしい装飾と共に飾られたクリスマスツリーを静かに照らしている。
クリスマスを祝う文化は、いつしかこの英国にもすっかり浸透した。この家のようにクリスマスツリーと呼ばれる木に装飾をして飾ったり――一部の貴族の家などは、電飾を巻き付けより華やかにしたりもするらしい――、豪華な|晩餐《ディナー》を用意して家族で共に過ごしたりする日だ。
バンジークスもかつては例に漏れず、そのようなクリスマスを過ごしていたのだが、この十年はとんと縁が無かった。いや、自分から遠ざけていたと言う方が正しいのかもしれない。とにかく、クリスマスを祝う気になどなれず、共に祝う相手も今やおらず、使用人たちの多くには家族と過ごすよう|暇《いとま》を出し、バンジークスにとっては広い屋敷の中で静かに過ごすだけの日となっていた。
だが、今年は――。
「|晩餐《ディナー》、どれも絶品でしたね。流石はミス・アイリス」
亜双義の頬は、普段よりも僅かに色づいているように見えた。食事と共に|葡萄酒《ワイン》がかなり進んでいたようだったから、その所為だろう。それとは対照的に彼の吐いた息は空気を白く染めて、この夜の芯から冷えるような寒さを伝えている。
「ああ。どれもとても美味しかった」
そう言って頷いたバンジークスが吐いた息も、揃いのように白かった。
(クリスマスには定番の|鶏肉《チキン》料理が出なかったのも、彼女の心遣いであろうな)
バンジークスはそうちらりと思ったが、わざわざ彼に言う必要もあるまいと言葉にはしない。
昼間にはこの通りを何台も行き交っていた馬車も今夜はほとんどない。さく、さく、と薄く積もり始めた雪をブーツで踏みしめる音が二人分、しんと静かな夜に響いている。
あの極秘裁判から、一ヶ月と少し。まだまだ混乱の最中の倫敦の法曹界を立て直すべく、日々あちこちと奔走しながら新しい日々を構築し始めていたバンジークスと亜双義のもとに届いたのは、バンジークスの姪――まだ本人はそのことを知らないが――アイリス・ワトソンからのクリスマスパーティの招待状だった。
忙しいと思うけれど、腕を振るって美味しい料理を用意するから是非来てほしい、とのことだった。あの探偵もついてくるということだけが唯一の懸念点ではあったが、彼女の心遣いに感謝し、バンジークスも亜双義も二つ返事で了承した。
どうやら|倫敦警視庁《スコットランドヤード》のジーナ・レストレードも誘いを受けていたらしく、仕事を早めに切り上げて三人で221Bへ向かうと、テーブルいっぱいに用意された豪勢な|晩餐《ディナー》とともに迎えられた。
そこからはもう、良く言えば盛り上がり、悪く言えばどんちゃん騒ぎ。美味しい食事や酒を頂き、アイリスの発案でプレゼント交換なるイベントをし、主にホームズとジーナを中心に大層賑やかな回となった。
夜も更けてきたところでバンジークスと亜双義はお暇したのだが、ジーナはまだアイリスと話し足りないと言ってもう少し残るようだった。そのまま泊まるつもりなのかもしれない。どちらにせよ、明日遅れずに出勤してくれれば良いのだが、まあそれは、アイリスがいる限り大丈夫だろう。
そうして今、バンジークスと亜双義はちらちらと雪の舞う倫敦の夜に二人、静かに帰路についている。
最近では二人の間で他愛の無い会話も少しずつ増えてきたものの、もとよりあの探偵や刑事のように|矢鱈《やたら》にお喋りな|性質《たち》でもない互いだ。師弟関係には、必ずしも馴れ合いのような仲の良さが必要だともバンジークスは思わない。二人きりの会話はこの雪のように途切れ途切れに溶けて消えて、しかし、酒の所為か気分が良いからか、今夜の亜双義のバンジークスに対して発せられる言葉たちはいつもより滑らかで、少し多弁になっているようだった。
今夜の美味かった食事のこと。交換会でのプレゼントの行き先と顛末。その他、大いに盛り上がった会のあれやこれや。亜双義が「ミスター・ホームズから貰った発明品は|如何《いかが》するおつもりで?」と、プレゼント交換会でバンジークスが引き当ててしまったホームズのプレゼント――何だかよく分からない発明品、ホームズがなにやら使い方を熱弁していたがバンジークスには荒唐無稽な話にしか思えなかった――のことを揶揄すれば、バンジークスは思い出すだけで頭が痛くなる思いで「どうもしない」と息を吐いた。その息はまた、空気を白く濁らせ倫敦の夜に溶ける。
そんなバンジークスにとって頭の痛い事態もありつつも、それ以外は概ね楽しい会だった、と思う。暖炉の火が灯ったあたたかな部屋、テーブルに乗り切らない程の豪勢な食事、会話と笑い声の絶えない空間。絵に描いたような明るく賑やかなクリスマスパーティ。新鮮さと懐かしさとが入り交じり、自分が今この輪の中にいるということに対してバンジークスは終始不思議な気持ちでいた。
クリスマスは、家族と共に過ごすものだ。バンジークスはそう思っていた。だからこそもう自分には一生縁も無ければ、縁も持とうとは思わなかった。
(――こんな風に、誰かとまたクリスマスを祝う日が来るとは、想像もしていなかった)
一等冷たい風が通りを吹き抜ける。真冬の夜の冷気は、体の内に残ったあたたかな余韻を少しずつ奪っていく。粒のような小さな雪がバンジークスの髪を掠めてふわりと溶けて消えた。
小さな丁字路に差し掛かったところで、隣の足音が止まる。踏みしめられた薄い雪が小さな音を立てた。
「それでは、オレはここで」
バンジークスを見上げて亜双義が言う。亜双義の後ろには薄暗く細い道。いつの間にか分かれ道に辿り着いていたようだ。先程まで淡く色づいていたように見えた亜双義の頬の色は抜けて、気付けば|何時《いつ》もの白さに戻っていた。冷たい冬空をしばらく歩いていた所為で、彼の体からも熱の余韻は少しずつ褪せていったようだった。
今亜双義が暮らしている下宿は、街灯の整備が大通りほどには追いついていないこの道をしばらく行った先にある。バンジークスは直接訪ねたことがあるわけではないが、何かあった時の為に住所は把握しているし、あの辺りの下宿のこともある程度は知っている。治安がそこまで悪いわけでは無いが、お世辞にも上等とは言えない下宿の多い通りだ。有り体に言えば、建物も設備も古くて安い。
改めて祖国からの留学費用の支援は紆余曲折の末どうにか取り付けられたものの、そこまで潤沢なものではないから下宿に金はかけていられないというのが亜双義の談だった。そう話した彼の表情には不満げな色はひとつもなかったものの、バンジークスは善意で下宿費の支援をするか従者時代のように屋敷の空き部屋を使って貰って構わないと申し出たりもした。が、これはオレの留学なのだからそれには及ばないなどとばっさり断られてしまい、今に至る。
健康に影響が出ているような様子も、よからぬことを企む輩によって危険な目に逢っているような素振りも無いし、彼が選んだのだから口を出す道理はない。そう思ってバンジークスはそれ以上何も言うつもりはなかったが、なぜだか今夜は違った。――あの明るい221Bの空気に、あたたかな温度にあてられたのかもしれない。
バンジークスは今日も例年通り使用人たちには家族と過ごすよう暇を出していたが、それでもバンジークス家に特に長く勤めてくれている数人は自らの意思で屋敷に残りバンジークスの帰りを待ってくれている。玄関に明かりを灯し、暖炉に火をくべ、部屋の中をあたたかくして。帰宅しても、バンジークスはひとりきりではない。
だが、亜双義はどうだろうか。
この体の芯から凍るような冷たい夜に、彼は寒くて暗いひとりの下宿に帰るのだ、と。そんな想像がバンジークスの脳裏を掠めてしまった。
普段は気にしていなかった。けれど今夜は――皆にとって特別な、この夜くらいは。そうしてほしくないと思ってしまったのは、バンジークスのエゴだ。
目の前の彼のひとときの幸福を願う、バンジークスにとってはただそれだけのつもりだ。それを亜双義が望んでいるかすら分からないのに。そしてこの感情を同情では無いと証明する術は、バンジークスはまだもたなかった。
「……バンジークス卿?」
返事の無いバンジークスに、亜双義が怪訝な顔をする。バンジークスはハッとして、誤魔化すように「いや、すまない」と小さくかぶりを振った。二人の間を舞う雪は少しずつ地面に降り積もり、明日の朝にはきっとこの辺りは白銀に染まっているだろう。
「また明日、検事局で。……、今夜は特に冷える。風邪など引かぬよう、あたたかくして眠るように」
本当に言いたかったことは口には出さない。代わりにこれが、今のバンジークスが彼にかけられる精一杯の言葉だった。
それを受け取った亜双義は一瞬面食らったような表情になってから、「なんですか、それ」と可笑しそうに僅かに口元を緩める。その反応に少し恥ずかしくなったバンジークスが「……最近、検事局でも|警視庁《ヤード》でもこの寒さで風邪が流行っているそうだから……」などと言い訳がましくもごもごと付け加えていると、亜双義はふっと小さく息を吐いた。その息の白さは先程よりもずっと薄まっていた。
「まあ、確かに体調を崩しては元も子もありませんからね。師匠殿の言いつけ通り、今夜はあたたかくして寝るとしますよ」
少しだけ|揶揄《からか》う響きを混ぜながら亜双義が返した。それに対する気恥ずかしさと同時に、素直に受け取って貰えた意外さと|擽《くすぐ》ったさがバンジークスの胸の内でじわりと緩やかな熱をもつ。
「――それでは失礼します、バンジークス卿。今日はありがとうございました。おやすみなさい」
亜双義の言葉に、バンジークスも「ああ。こちらこそありがとう。おやすみ」と返事をする。軽く一礼をした亜双義が自らの下宿へ続く道に足を向けかけた時、バンジークスはもう一言付け加える。
「……今夜は、よい夢を」
そう願うことくらいは、今の自分にも許されるだろうか。バンジークスの言葉に振り返った亜双義は、その黒く長い睫毛を一度瞬かせる。それから彼の|眦《まなじり》が、少しだけ柔らかく細められた気がした。
「ええ。貴君も、よい夢を」
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