行って来る


平兵衛に水をやっている間に、背後からごそごそと言う物音が聞こえて来た。
頭隠して尻隠さずとはこのことで、押し入れの下の段に顔を突っ込んでいた男は、やっぱここやったか、と一言、この部屋に来たときに持って来たボストンバッグを引っ張り出した。
「何してるんですか。」
言わずもがなの言葉が、思わず口から出て来た。
「何て、家の片付けとか色々やることあるし、とりあえず一旦家に戻らなあかんやろ。」そう言って、ペラペラのパジャマやらトランクスやらをせっせと詰め込んでいる。
(……明日の朝までには、いつもの客間を片付けておく必要があるんやった。)
おかみさんのときは、そうしたあれこれを例年の大掃除のように自分たちだけでやるのだろうと思っていたのに、いつもの草若邸には、気が付けば近所の人が入れ代わり立ち代わりにやってきて、ここはここに仕舞う、こういうものは全部稽古場に入れてしまう、前の時はこうやった、今時そこまでせえへんやろ、と指図をしたりされたり。腹減ってなくても何か食べなあかんで、とおにぎりを差し入れして貰ったり。香典を仕舞う箱の横に座っているように言われたこともあった。
愛人だった母親に祖父母は既に亡く、それまでの僕に、葬式の経験は一度としてなかった。
テレビで見るような、陰鬱な情景を想像していたから、葬式の前後と言うのが、あんなに賑やかなものとは思わなかった。
いつもの客間が、草々兄さんと若狭の結婚式の準備をしたよりもずっと早く、あっという間に片付いていって、自分もその中にいるというのに、そうした流れをぼんやりと見ているだけのようだった。
小草若兄さんがいつものようにキャンキャンと師匠に喚き始めたのも、お客が全部引けた後のことで、あの時は、次の『機会』がこんなに早くやって来るとは思いもしなかった。
「しばらくはあっちにおるわ。」という兄弟子の言葉に、そうですね、と絞り出すように口にすると、師匠がもうこの世にいないのだということをまた思い出した。
「焼き場に持ってくまでの暫くは、オヤジの横で寝たりたいし、家の片付けとかあるしな。」と小草若兄さんは妙に湿っぽい声で言った。
分かりました、と頷くしかない。庇を貸して母屋を、ということわざのままに住み着いてしまった兄弟子と妹弟子の顔を見ながら過ごすのが辛いのではないかと思ったが、そういうことはまだ考えられもしないのかもしれなかった。
「ちゃんと寝て、メシも食ってくださいよ。」
「お前もな。」と言われて、その言葉に何か気持ちが引っかかる。
やっと一人になれる、という気持ちと同じくらいの強さで、どうしてこの人が今更、あそこに戻る必要があるんだろう、ふとそう思った。師匠もおかみさんも、もうあそこにはいない。いるのは、兄弟子と妹弟子の夫婦だけだ。

病院に行くと、亡くなった師匠を、菊江さん、磯七さん、若狭の母親が取り囲んでいた。
オヤジは寂しくなかったんやな、と自分に言い聞かせるように兄さんは言って、おかみさんの時に世話になった葬儀社の人間に電話を掛けた。
棺にドライアイスを入れる時代に、僕らは生きているのだった。
廊下で師匠の最期のことを聞きながら、悔やみの言葉に相槌を打っているうちに着替えを終えた草原兄さんたちもやってきて、葬儀社の人間が遺体を引き取りに来るまでの短い間に、先のことを話し合った。
狭い身内と、草若師匠と親しかったよその師匠方を数人呼んで、おかみさんの時のように自宅葬をして、それを終えるまでは一切新聞には名前を出さないこと、告別式もなしということになった。
寝床もしばらく臨時休業にして、葬儀を手伝ってくれるということだったがそこまでは考えてなかった。
「あの家に戻ったら、しばらく草々兄さんと若狭のふたりと暮らすことになりますよ。」
「せやなあ。」と言いながらまだせっせと荷物を詰めているが、さして膨らむことはない。
喪服やシャツの一式はほとんど母屋の二階に準備してある。沈黙が耐え切れないゆえのポーズにも見えた。
「おい、四草、お前も九官鳥と一緒に来るか?」
「はあ……?」
「いや、おかんのときに比べたら、母屋の二階の物置、荷物増えてしもたやろ。使ってない内弟子部屋、坊さんの控室に出来んかな、と思って、こないだ一遍片付けて来たんや。」
「それは覚えてますけど……。」
そもそも、『家片付けてくるな~♪』と意気揚々と出て行ったものの、内弟子部屋にあった不用品を母屋の二階の物置に好きに突っ込んで、ほとんど散らかしたも同然の状態になったところを、若狭や草々兄さんと一緒になってなんとか他人が入っても見れるように片付けたのは僕や。
「ずっと使ってない布団が嫌なら、貸し布団屋に手配すればええやろ。オヤジもその方が賑やかでええんと違うか?」
「……それはまあ……流れでいいのと違いますか。棺の横で思い出話してて飲んでて寝てしまう、ていうのならしゃあないですけど、ここなら、師匠の家からは歩いて帰れますから。」
あの頃、おかみさんが亡くなった時は、小草若兄さんは隣の、若狭の部屋だった部分を使っていたのだった。師匠と同じ部屋を使うのは嫌だと言って……。それも、内弟子の修行を終えた身であっても、血縁だから許されたというのはあった。僕は師匠にとっては他人で、最初から泊まる気で行くとなると。
「草原兄さんがええ顔しはらんと思います。」と言うと、「まあ、それもそうか。」と年下の男は言った。
「その代わり、夜はギリギリまでいますよ。」
「そうか。」という横顔がさっきよりもずっと陰って見える。
「抱きしめて欲しいですか?」
「そうか……ってええ!? いや、お前、何考えてんねん!!」
兄弟子は勢いよく立ち上がって、ちゃぶ台の上の食べ物を齧っているのを人間に見つかった鼠のように素早く、部屋の隅に背中をくっつけた。
「今日は上手い事立ち上がれて良かったです。師匠の葬儀の時は、おかみさんの時みたいに足しびれんように気を付けてください。」
「……お前は……底抜けに紛らわしいんじゃ!」
なんやねんもう、と言って、年下の男は眉を顰めた。
なんや、冗談かいな、と。笑って済ませるような度量の男ではないことが分かっていて、なんでこのタイミングでこんな、冗談にもならない言葉が口から出てきてしまったのか。
「草若兄さん、あの家でちゃんと寝られますか?」
「ここにいてても、どうせ寝られんのは同じや。」
「夢枕で会えたらええのに。」
「そうですね。」と言うと、「アホ、師匠がこんな、不甲斐ない弟子の夢枕に立つはずがないやろ、……今夜は草々のとこにでも行って、後は頼む、て言うてんのとちゃうか。」
自嘲しているような兄弟子の顔を見ると、そうだとしても、師匠の隣にいてあげてください、と頭に浮かんだ言葉は、なぜか口から出て来なかった。
夕陽に溶けて消えてしまえばいいのに、と思っていた兄弟子が、自分からどこかに消えてしまいそうな気がした。
胸の中に重苦しい感情が渦巻いている。
この人と同じように振舞えないことが腹立たしいからか、こんな時に、この人の隣にいられないのが腹立たしいのか。

麦茶を入れて、「気を張り詰めすぎないようにしてください、」と言うと、分かった、と行って来る、が返って来た。
僕の部屋を後にする男の背中を見送っていると、追いかけて、何か声を掛けたいような気持になった。
行くな、もオレも行く、も言えない相手の背中が視界から消えた瞬間に、僕は大きなため息を吐いた。



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