飲み過ぎ



夜席のトリを終えて虎の子の和装を日暮亭に置いて戻って来ると、寝床は店が閉まるところだった。
今まさに店の暖簾を下げようとしているお咲さんに向かって、こんばんはと頭を下げる。
「草若さんなら、まだ中にいてるから。四草くん引き取ってってくれる?」
「草若兄さん、しゃんとしてますか?」と聞くと、お咲さんは暖簾を手にしたままで苦笑して、ううん、と首を振った。
「タクシー呼ぼうか、って何度か声掛けたんやけど、四草来るまで待つ、て強情張って飲み続けて、そのうちに寝潰れてしもたんよ。店仕舞いもほとんど終わってしまってどないしようか、ってさっきまでうちの人と話してたとこ。」
「大変だったんと違いますか。」
「今日くらいなら、なんてことないわ。草若さんも、酒癖はあの頃ほどは悪ぅはないからね。……ただ、テーブル拭いて椅子上げて床水拭きしてる間もちょっとも目ぇ覚まさんで。」
「量はどれほど?」
「一升瓶までは行かないけど、五合では足りんくらいかな。日暮亭建てる前にギター両方あげてしまわんと片方取っておけば良かったなあ、ってうちの人とそない言ってたとこなんよ。なんやあの人、格好付けか知らんけどアカペラではよう歌わんらしいて。」
そうお咲さんに言われて、そうですか、と笑ってしまった。
危機一髪、かどうかは分からないが、そこまでされたら草若兄さんも確実に目は覚めていただろう。
これまでの伝聞で、熊五郎さんの歌が壊滅的に下手だということを若狭や草々兄さんから聞いてはいるが、僕は全く聞いたことがない。
もしかすると、師匠が復帰したあの日の寝床寄席が、初めて熊五郎さんの歌に接する機会になったかもしれないが、結局はああいう結末になってしまった。
この店の小さなステージで寿限無を演じ、途中から身も世もなく泣いてしまったこの人のみっともない顔を、僕はまだ忘れていないし、この人も覚えているだろう。
「あっ、もしかして、今四草くんひとりなん?」
あの子も一緒に戻って来るかな、と思って一人分アイス取っといたんやけど、と言われて、すいません、と謝った。
「子どもは若狭にお願いしました。明日の朝になったら引き取りに来ます。」
「それやと四草君があんまり寝られんのと違う?」とお咲さんは苦笑した。
街灯の明かりがあるだけの暗がりでも、お咲さんの口元には、薄い笑い皺が見える。
子ども達がすくすくと育って行くようにして、僕らは皆段々と年を取っていて、あの頃のような体力ももうない。
「どうってことないです、僕はまあ、若狭みたいにしてあいつのこと赤ん坊の時から面倒見てたわけとは違いますから。」
草々兄さんとの間に出来た子を幼稚園児に預けられるようになってからは、寝床で食事をした後に時々船を漕いでいるという妹弟子の名前をあげると、お咲さんは納得したようにして頷いた。
「そんならええけど、無理したらあかんよ。」
「ありがとうございます。草若兄さん起こして帰ります。」
店はまだ明るくて、中に入ると、奥から熊五郎さんが顔を出した。
「四草君、よぉ来たな、待ってたで。」と笑っている。
「あんた、そこはお疲れさん、が先とちゃうの?」と後ろでお咲さんが苦笑している。
「今日は夜席のトリやったんやて? このところ、ますます人気が出て来たなあ。」というコメントに、ええまあ、と返す。
本当のところは、草原兄さんの代打である。
どうやら今また落語ブームの波が来ているらしく、カルチャーセンターでの単発の落語講座で、移動の時間が厳しいというので、急遽演者が変更になったのだ。
高座の仕事より講座の仕事を取るというのは、未だに本番でも噛むことが多い草原兄さんらしいが、昔はこんな風にピンチヒッターの仕事が回って来るということもほとんどなかった。トリの人間が三十分やそこら遅刻したところで、前座が二席するとか、その場にいる人間でなんとか繋いで回していくことも出来るのだから。
世間が突然生真面目になったというのでもない、「こうあるべき」のガチガチな規範を、自分が破るのはいいが、他人が破るのが気に食わない、とそういう人間がこのところ、妙に増えてきているような気がする。
「支払いは、」と口にすると、熊五郎さんは手を振って「それはもう草若さんから支払って貰てるからええで。」と言った。
「お子さん、若狭ちゃんと草々くんとこに預けたんやな? まあ今日はそれがええわ。なんや飲んでたさかいなあ。タクシー拾えるとこまでオレが肩貸してこうか?」
「大丈夫です。」
「そうか、まあ頑張れ。これも持っていきぃな。明日の朝ごはんの菜にしたらええ。」と言って鳥の唐揚げらしいお菜を包んだものを差し出された。普段ならカウンターと調理場の間にあるスペースに並んでいる京風のおばんざいの大皿もすっかり片付いてしまっている。後に残るのは食べ物の匂いばかりだ。
昔は今ほどフードロスとかいう風潮もなかったし、師匠の酒のつまみにと包んでもらうなら包んでもらうでそのように支払いを済ませる前に伝えておいていたのでこういうことは一度もなかったが、今は、寝床の夫婦の方で、僕の子どもに対する親切心もあるのか、初夏から盛夏以外の時期に、こうしたやりとりも多くなった。スーパーの袋に入っている。それをカウンターのテーブルに置いて、兄弟子の肩をそっと揺する。
「草若兄さん、帰りますよ。」
寝床の暖簾も降りたところで、店の中の時計はあとちょっとで十時半回るところになっていた。
「んぁ、シーソー、お前もう天狗座のトリ終わったんか?」
天狗座て。
「日暮亭です。ここは寝床ですよ。」と言うと、そやった、そやった、と寝ぼけた兄弟子は手を振った。
瞼はずっと開かないままだ。
「草若さん、完全に寝ぼけてるなあ。」と熊五郎さんが心配そうな声でこちらを見ているのが分かった。
「起きられますか? タクシー拾ってとっとと帰りますよ。」
「分かった、分かった、て。オレはもう四代目ソージャクやねんで、お前に助けて貰わんでも、一人で帰れるわ。」
テーブルに腕を付いて、よいせ、と腰を浮かそうとしたところ、腕の力が弱かったせいか、尻もちをつくようにしてカウンターの椅子に座ってしまった。
「これがニュートンの発見した重力ちゅうやつでして、」などと呟いている。
こらあかんで、と熊五郎さんの合いの手が入る。
「しょうがない人やねえ。そこの駐車場までタクシー呼ぼうか?」とお咲さんが店の電話を取ったので僕はお願いします、と返事をした。
「熊五郎さん、店の片付けはもう済んだんですか?」
「とっくの間になあ。日暮亭が始まった一時期は、地方から深夜バスで来てるお客が夜席の後の待ち時間に立ち寄ることもあったけど、日曜の夜はまあ、昔っからこないして客も少ないし、楽なもんやで。」と熊五郎さんは言った。「まあ若狭ちゃんのお母さんが良く言ってた、一時のビームってヤツや。……あれはホント言い得て妙、ていうか、面白いたとえやで。息の長いブームになるどころか、お客さんたち、光みたいに消えて行ってしまったからなあ。」
「今時の若い人、みんなうちとこみたいな定食屋より、コンビニのサンドイッチでお昼済ませたり、お弁当持って行ったりする方が増えたもんねえ。」と言ってお咲さんがタクシー会社に日暮亭の横の道路のとこまで一台お願いします、と言って電話を掛けている。ほしたら、駐車場のとこまでタクシー先導するから表出てるね、と扉を開けて出て行った。
「四草くん、俺が草若さんに肩貸そうか?」
「いえ、とりあえず、肩貸すくらいなら僕でもどないかなりますから。」
「そうかあ?」心配げな顔をしている熊五郎さんに「ええ。」と頷いた。
「無理せんでええで?」
「大丈夫です。」
気遣いは有難いが、寝ぼけた兄さんの口から軽率な発言が出ないうちに、出来ればさっさと調理場に引っ込んで欲しいところだった。
それを正直に伝える訳にも行かないのが難しいところだ。
「もし良ければ、お咲さんの言ってたアイスが食べたいんですけど、手土産に包むことって出来ないですか?」と言うと、流石に無理があるのか、熊五郎さんはははっと笑った。
「アイスなんか、帰るまでにすっかり溶けてまうがな。冷蔵庫の中に、杏仁豆腐の残りがあるから、そっちでもええか?」
「はい。」
この際なんでもいい。
店の主が引っ込んだどころで、行きましょう、と草若兄さんの脇に腕を通してよいしょ、と持ち上げる。
そうすると、猫の身体が伸びるみたいにして、細長い小草若兄さんの体がやっとのことで椅子の上から持ち上がった。
いくら骨と揶揄出来る薄っぺらい身体でも、ある程度の背丈はある上に、すっかり脱力してしまった身体は、それなりに重たい。
米俵のように運べるならそれが一番いいが、寝床の出入り口の高さの制限もあるので、なかなかそれも難しい。
「草若兄さん、起きてください。」
僕が肩を貸しますから歩け、と続けようとしたとき、「あと五分寝かしてくれ。」と言ってこちらの首に腕を巻き付けて、名を呼んで首に頬を擦りつけてきた。
「………。」
外で待つなら絶対に飲むなて言うたのに……。
うっかり可愛い、と思ってしまう自分にも腹が立つ。
「行きますよ、草若兄さん。」と言って、ついでに耳朶でも噛んでやろうかと思うが、まだこの時間で、理性もそれなりに機能している。
「四草くん、タクシー来たで!」
「杏仁豆腐お待たせ! 今日のお代は負けとくからまたふたりで昼に食べに来てや!」
ふたりの声が響くと、肩に頭を乗せた人は「んあ、」と間抜けな声を出して顔を上げた。
飲んだくれた人間特有の、酒の匂いがする。
何があったのか知らないが、とてもじゃないけど、こんな状態のこの人を子どもの前には出せない。
「おい、シーソー。」
「いくら寝床でも、飲み過ぎでしょう。もう家が正面にある訳じゃないんですから。……隣の二階で草々兄さんと雑魚寝したいて言うなら僕は止めませんけど。」
「……そんなわけないやろ。」と覚醒したばかりの掠れた声が耳元に聞こえてきた。ちょっとは頭が覚醒しただろうか。
「歩けますか?」
「ああ。」
肩の重みが逃げて、ヘッドロックを掛ける時のように近づいた人に肩を抱かれた。
「タクシー、お咲さんにそこまで呼んで貰ったので、そこまで頑張ってください。」
後は帰りに適当にコンビニに立ち寄って、後は階段を登れるようにカフェインの入った何かを買って飲ませたらいい。
失礼します、と言うと、お咲さんが、忘れ物、と言って、熊五郎さんが手渡したおかずとデザートの包みを持って、タクシー、こっちに待たせてあるから、と横に付いて来た。
タクシーは黒塗りのハイヤーに近く、初乗り料金が普通のタクシーに比べても妙に高いが、きっと割り増し料金のせいだろう。とんだ出費だった。今日の出演料と差し引きして、と頭の中で勘定していると、ドアが開いて、数字を頭の中から締め出して、兄弟子を後部座席に押し込んだ。
「四草くん、草若さんも、今日はお疲れ様。明日、お迎え忘れないようにね。」と言って、窓の外からお咲さんが手を振っている。
「はい。」と言っている間にも、奥の座席の窓に顔をくっつけんばかりにしていた兄弟子は、唐揚げと杏仁豆腐が乗るはずだった僕の膝の上に、ごろりと器用に頭を乗せた。
「あのお客さん、シートベルト。」と運転手が言うのに、「ちょっと飲み過ぎてしもたらしい、このままで走ってくれ。」と答える。
「さっきの人に、天狗座までって聞いたんですけど。」
「天狗座の向かいの道路の中華料理屋の前や。」
「こっちから行くとUターンですけど……まあよろしい。」
そう運転手に言われて、タクシーは夜の街を走り出した。
「ん……。」車が走り出すと、兄弟子も、また膝の上で、夢でも見ているのか、身じろぎした。
しのぶ、という声が聞こえる。
「……飲み過ぎですよ。」と言っている間に、一件目のコンビニが過ぎ去っていく。

それからは、すっかりエンジンの音と寝息しか聞こえなくなった。

powered by 小説執筆ツール「notes」

29 回読まれています