【名夏】ALLURE
「あ、これ、好きなやつ」
声に出したことに気が付いたのは名取さんが振り返ったからだった。
話しかけたかったわけではないので敬語でもなく、振り返った名取さんに対し失礼がなかったかとどぎまぎしているおれに向かって、何?とでも言うように少し口角をあげて優しい顔で首を傾げる名取さんに急いで取り繕う。
「におい、匂いです」
「おれの?」
「いつもと違いますよね」
前を通りかかった名取さんからうっすらと、いつもの匂いとは違うものを感じた。嫌味な感情は一つも湧かないそれ。いい匂い、何だろう、と思ったときには声が出ていたようだった。変なことを言わなくてよかったと心底思う。
お風呂に入ってから数時間は経つ名取さんは自分の部屋着の襟元を掴んで嗅ぎ、その後手首をすんすんと嗅いでみて、名取さんは「あ」と短く言って目を細めた。その手首をこちらに寄せてくる。
「これかな」
「……あー……」
人生で人の手首の匂いを嗅がされたのは初めてで、差し出された手首に一瞬戸惑ったがすぐにさっきの香りがして気が付いた。これだ。ここに付いている。風呂に入っても落ちないらしいその香り。
「当たりかな」
「当たりです」
それが離れていくのが惜しいと思うほどそれが自分の好みだということも初めて知った。
「夏目ってこういう匂い好きなんだね」
「こういう」
「なんだか意外だったよ。これ、ちょっと癖があるっていうか。あ、悪い意味ではないんだけど……」
ぶつぶつ言いながら名取さんは一瞬姿の見えないところに行きすぐ戻って来る。手にはシルバーの四角い瓶のようなものを持っていて目の前に差し出されて分かった、香水だった。開けてもいないのに強く香りを放っており自分とは無縁で見たことすらほとんどなかったがすぐ分かった。
大人の男性の手のひらにしっかり持たれるほどの結構な大きさで、柄もなく文字だけの質素な瓶なのに繊細というより厳つい雰囲気のある瓶だった。蓋が黒いからそう思うのだろうか。香水のこともわからず、自分のセンスもそもそもないだろうから判断ができないが目の前に出されたそれがなんとなく高いものだということはわかった。
「広告撮影の時に使って、もらったんだ。欲しければあげるよ」
「おれが、ですか?」
「……つけないね」
笑いながら手を引っ込められて、香水瓶は見えなくなったのに残り香が強く残る。名取さんが言ったのは、こういう強い匂いをおれが好むとは思わなかった、という意味なのだろうと理解した。
瓶を差し出されて思ったが確かに名取さんから香ったのはこの匂いに似ているけどこれ単体から香るものとは少し違う気がしてなんでだろうと思っていると座っていたおれの頭上から笑い声が聞こえる。
「何考えているの」
「そんな変な顔してましたか」
「悩んでます、って顔してた」
「そこまでではないですけど」
ごと、と瓶がテーブルに置かれる。見た目もそうだが置くときの音すら厳ついのかと頭の隅の方で思った。目で追っている名取さんはソファに座っているおれを覗き込むように立つ。ゆっくりと馬乗りになるように膝をついて座り、何をされるのかわからなすぎて言葉を失っていた。乗られているせいで自分は逃げられないし、されるがままに混乱しているしかなかった。
こんなときでも優しいからか名取さんは上に乗っているのに体重がおれに乗っていない。腰をかがめてきて、顔が近づいて「されるかも」と咄嗟に目を閉じると頬のあたりに髪の毛がくすぐったく触れる。
「ここらへん、匂い違うでしょ」
「ほぁ」
目を開けるのと一緒に口も開いてしまったようで変な声が出るが考えることが多すぎて気にしていられない。
匂い、と言われて鼻から空気を吸い込んでみるとさっきの香水の香りのような気もするがそれよりも甘いしそこまで強くもなくてどちらかというと最初に気が付いた、あの香りに近いような。近いが少し違う。自分が麻痺している可能性もあるなと思いうまく言葉に出来なかった。
「体温とかつける部位、付けてからの時間でも匂いが変わるんだよ。奥が深いんだ」
肩口で名取さんが話している。抱きしめられるような姿勢なのに身体がほとんど触れていない。名取さんが近いせいでさっきの香水の匂いも強いし名取さんの匂いもするしこんなに近いのに、触れていない状況がよくわからない。そうして混乱しているおれは抱き締められると無意識に思っていたらしく、両手が勝手に名取さんを抱き締め返そうとして失敗し宙に浮いたままになっている。
「……いいにおいが」
「ふは」
どうにか声を出したのに笑い声で消された。
名取さんは吹き出すように笑って離れて行った。香水やらいろいろ混じった圧から解放される。
目が合ったその目は涙ぐんでおり、文字通り涙が出るほど面白かったらしい。
「ごめん、ちょっと揶揄おうと思って」
たしかに襲われるのかと、そういう雰囲気のような気も少し感じていた。違ったらしい。
いつのまにか肩に力が入っていたようで意識して脱力し、口からどっと息を吐いてみる。
「き、キスされるかと思った……」
「そうだと思った。すごい力入ってたし」
「何する気だったんですか」
「耳の裏にも香水つけてたから、またちょっと違った匂いがするよって教えてあげたかったんだけど」
「うう」
キスされるかと身体を強張らせていた自分にどっと恥ずかしさが沸く。揶揄われたことが少しずつ沁みてくる。
意識的に脱力中のおれから一歩離れて立つ名取さんの方を見上げると、まだなにか企んでいるような笑い顔だった。
「してくれてもよかったのに」
「おれが!?」
「しないの?」
「しませんよ!」
「なんで? いつもこっちからなの?」
「わかっていて言ってますよね」
何回しても、緊張してしまってこちらから出来ないことをわかっていて言っているのだと、名取さんの考えまでわかることにまた腹が立つ。考えていることがだんだんわかるまでの距離になったのに知らないことはまだたくさんあるようだ。例えば名取さんがどこに香水をつけるのかとかどんな匂いが好きなのかとか、だ。
▽
朝、名取さんはまだ覚醒しきっていないのかぼんやりと窓際に立っていたので手を引いて覗き込み、そのまま正面に立ってみる。
目が合い、名取さんが笑った。
「おはよう」
応えるように首の後ろに手を回して、顔を近づけてやる。
名取さんはびっくりしたようで両手が浮いたのが視界の端に見えた。
回した腕を結んで名取さんを囲い、昨日うまく嗅げなかった耳の後ろあたりを鼻先で擦る。風呂に入っても、一晩明けても、いい香りがした。香水のことはよくわからないままだが、付けたばかりよりこうして名取さん自身に馴染んできた香りが好きなんだと思った。
すりすりと頬擦りをして匂いで肺を満たして、離す。
「おはようございます名取さん」
「き……」
「?」
離した名取さんは顔が真っ赤だった。
「キスされるかと思った……」
初めてでもないのに。朝の窓際で男二人、何してるんだろうと思い至るまでもう少しかかった。
いつまでも慣れない、いい香りがずっとここら辺に充満していた。
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