竜探索の物語|《上》




 ​ふと、空を仰ぎ見る。

 澄みきった蒼、柔らかな白。その最中に、捜し求めている『竜』を見つける事は叶わない。

 シンクは前を向き、再びその一歩を踏み出した。



****



 レンダーシア大陸。

 グランゼドーラの南東部に位置するロヴォス高地に連なるは、天高く聳え立つ岩山。竜の魔物達が住まうドラクロン山地を、一人の冒険者が征く。

 その道中は険しく、垂直に近い岩肌の間を蔦や巨木を利用しながら慎重に進む必要がある。時折山間に吹き荒れる強い風、道無き道を覆う濃霧……それらを乗り越え一際大きな岩壁を登りきると、数年前と変わらぬ景色が広がっていた。
 陽光に照らされた雲海が風に乗り、鋭い爪のような岩がそれを引き裂く。まさに天の上に立っているかのような神秘的な世界が、訪れる者達の心を奪うだろう。

 そんな絶景には目もくれず、山嶺を目前に足を止めたシンクは『招待状』とだけ書かれた一枚のカードを取り出した。

「伝えたい事がある」

 そう呟くと、柔風が手元のカードをそっと抜き取るように攫ってゆく。

「勿論大歓迎さ! 思う存分、その心の内を僕に曝け出しておくれ!」

 どこからともなく響く声。
 周囲の岩陰から湧いて出た影が、宙を舞う招待状に集まる。闇の中で微かな光を求める蟲のように群がったそれは、やがて一つの塊と化す。
 視線の先には満面の笑み。大きな二本の角、魔瘴の色に近い肌、そして見る者の目を引く金と紺の派手な衣装。自らを芸術家を名乗る魔族のクラウンが、わざとらしく丁寧なお辞儀を披露してみせる。

 シンクが招待状の送り主である彼を、この場所に呼び出した目的はただ一つ。

 ​──君が自らの意思で選択する日を、楽しみにしているよ!

 その言葉と共に招待状を渡されて以来、既に数年もの月日が経っていた。それでも、まだ間に合うと思った。
 わざわざこんな場所で呼び出す必要なんてなかった。それでも、此処であるべきだと思った。

「……あの日の問いを、もう一度」

 目を逸らし続けてきた過去と、今一度向き合う時が来たのだ。



****



 ​──あの竜のように、空を自由に泳ぎたい。

 それは彼女が初めて口にした、彼女自身の願いだった。

 生きる為の理由を失った彼女と、生きる為の理由を欲していたシンク。そんな二人にとって、今は亡きフェイの望みは非常に都合の良いものだった。

 彼女がこの世界を生き続ける事。
 彼女の行く末を見守り続ける事。

 その旅路の過程に意味は無く、いつしか残る結果がフェイに向けた想いの証明となる。だからこそ、互いに向ける情は一切必要無い……そう信じた二人は『他人同士』という関係を保ちながら、数年間アストルティアの各地を巡り続けた。

 しかし、その日は違った。

 何故だろうか。普段と変わらぬ筈の彼女の表情が、僅かに異なっているように思えたのだ。
 美しい景色を眺める彼女の隣で、その横顔に目を奪われる。今まで存在していなかった、形容し難いこの感情は一体何なのか……シンクには、それを理解する為に必要な知恵も勇気も持ち合わせていなかった。

 良いんじゃないか、と呟く。
 それは決してフェイの為ではない。

 その結果が現在《いま》である事を知っているのは、翼を広げ飛び去る竜を目の当たりにしたシンクとクラウンのみであった……。



****



「……では、再び汝に問おう」

 道化は両腕を大きく広げながら、声高らかにその役割を演じてみせる。

「その身に余る魔力を手に入れた咎人は、ヒトとしての在り方を捨て天へと昇った。最早、君の手の届く存在ではないだろう」

 シンクはあの晩の事を思い出す。
 彼女の紅い瞳から零れたものが、月光を受けながら輝く様を。必死の想いで伸ばした手から、全てが遠ざかっていく様を。
 数年経った今も尚、脳裏に焼き付いたまま離れない光景……それが、シンクが後押しした彼女の願いの末路だ。

「もし再会を果たしたとしても、彼女は君の事なんて覚えていないかもしれないね。理性を失った獣なら、戦いになる事もあり得るだろう。そうなってしまえば、弱く脆い君では到底太刀打ちできないんじゃないかな。危険な獣であるという噂が広まれば、彼女を討伐しようとする冒険者達が現れるかもしれない……」

 それは『あくま』で可能性でしかない。

「嗚呼、なんて残酷な世界なんだ! でも安心してくれ、僕はいつだって困っている君の味方だ。彼女の居場所を教える事も、君に特別な力を与える事も、君さえ望めば何でも叶えてあげるよ!」

 けれどもそれは、恐れや不安から逃げ続けてきた者の心を揺さぶるには、恐ろしく魅力的な『悪魔』の囁きでもあった。過去に縋り彷徨っていた彼女もきっと、このような言葉に惑わされたのだろう。
 道化はその顔面に張り付けたような薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、シンクに向かって手を差し伸べる。

「さあ、君はどうする?」

 数年前と一語一句違わぬ言葉。かつてシンクはその問に対し、何も答える事ができなかった。
 自分が成そうとしている事は、果たして正しい事なのだろうか。それは彼女にとって幸福な未来だろうか。こんな自分にそれを望む資格はあるのだろうか……これらの感情が『逃避』であると自覚しながら、闇雲に走り続けた。

 自分は一体どこで選択を誤ったのだろうか、と何度も過去を振り返る。
 迷う事ばかりだ。失敗する事ばかりだ。
 辛いものは辛い。苦しいものは苦しい。
 消えない過去も、見えない未来も、全てが怖い。

 しかし、暗闇の只中を彷徨っていたからこそ得られたものがあった。
 孤独な旅路の中で出逢ったのは、夜空を輝く星々のような人々。そんな彼等に背中を押され、恐れや不安を抱きながらも伸ばした手の先に『光』を見た……だからこそ、シンクは再びこの地を訪れる事を決意したのだ。

 ──こんな俺だけど……いいや、こんな俺でも。

 シンクが示すべき答えは、この場所に来る前から既に決まっていた。

「俺は、このまま進み続けるよ」

 シンクは道化に対し、弱い自分を偽る事なく真正面から向き合う。その眼に映っているのは、決して『過去』ではなかった。

「僕を此処で討ち斃さなくても良いのかい? たった今、僕は君の大切なヒトを化け物に変えた『この物語の悪役』に成ったんだ。このまま放っておけば、君達の旅路に不幸な結末をもたらすかもしれないよ?」
「薄気味悪いお前を俺一人の力でどうにかできるなんて、これっぽっちも思っちゃいない。それに……」

 重ねられてゆく不安に恐れを抱く。
 それでも、シンクは止まらない。

「生きる為の理由をようやく見付けたんだ。もし『その時』が来たとしても、何度も進み続ける。それだけだ」

 道化はピタリと静止する。
 次第にその身を震わせ、嗚咽を思わせる音はやがて高らかな笑いへと変わった。

「素晴らしい……素晴らしいよッ! 君のおかげで、僕はまた先生の作品への理解を深める事ができた。嗚呼、今日はなんて素晴らしい日なんだ!」

 その良心が、後の災禍に転じる事になっても構わない。この先、何度選択を誤ったとしても向き合っていく覚悟を胸に抱いたのだから。

 シンクは踵を返し、静かにその場を立ち去った。



****



 ドラクロンの山嶺、飛竜の峰。

 あの日と同じ場所で、あの日と同じように空を仰ぎ見る。
 地表に流れ込む霧の上、天を覆う木々と蔦の合間から覗く空。その最中に、捜し求めている『彼女』を見つける事は叶わない。

 この場所に辿り着いてから、どれ程の刻が経っただろうか。夜が明け、薄くかかった雲の向こうから朝焼けの色が微かに見える。
 シンクは前を向き、再びその一歩を踏み出そうとした……その瞬間。

 強い風の音と共に飛竜の群れが飛び立ち、天を覆っていた雲が割れる。周囲に強い光が差し込むのを感じ、思わず振り返ったシンクは目を見開いた。

 澄みきった蒼。柔らかな白。
 黎明の空、その最中。
 空を泳ぐように飛ぶ、竜の姿がそこに在った。

 海を思わせる柔らかな青緑の鱗に、宝石のように煌めく茜色の瞳。
 風を纏い、熱帯魚のような色鮮やかなヒレを靡かせながら優雅に宙を舞う。何者にも囚われる事のない自由なそれは『美』という言葉を表現するに相応しい在り方だった。

 見間違える筈など決してない。
 シンクは空に向かって『彼女』の名を叫ぶ。

 喉の奥底から絞り出された音が、岩山の合間にこだまする。竜はそれに動じる事なく泳ぎ続ける。
 あの日と同じ影が、あの日と同じように遠ざかってゆく。光に向かって手を伸ばすが、未だ掴む事は叶わない。
 けれども、シンクがそんな現在《いま》を後悔する事はなかった。

 止まっていた二人の時間が、ようやく動き出す。
 シンクは前を向き、再びその一歩を踏み出した。



《 to be continued 》

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