「世界は意味と観測者で溢れている」――制作ノート

ここ最近で一番書いたものといえば就活のエントリーシートで、代償に小説を書く筋肉がすっかり衰えている感じがします。なので今回はリハビリも兼ねて、本作の裏話を、少し真面目に、でも気楽にエッセイ形式で綴ってみようと思います。

とはいえ作り手の思考が見えるのは得てしてウザイので、ほんと、気が向いた人だけ続きを読んでいただければ。

一見ラブコメかつギャグ、ファッションコーディネートの話に見えるこの作品ですが、裏テーマとしてずっと念頭にあったのは、「意味づけの暴力性」と「観測者という立場の危うさ」でした。


■ きっかけは、タキオンの“物語主義”
最初に構想を思いついたのは、アグネスタキオンのある台詞でした。

「起こった出来事のすべてが、私の物語の材料になり得る。そう思えば、世界はずっと、豊かで、愉しい」

これに近い言い分をしている人が身近なところにいまして、ある種自己中心的な面を持つ彼女のセリフとしても馴染む気がしました。
でも同時に、これって危ない思想でもあるな、と。
だって、「意味を与える側に自分が立っている」という前提って、気づかないうちに誰かの物語を勝手に編集しているかもしれないから。

その視点から物語を組み立てていったとき、「観測者であろうとするタキオンが、他人に意味を与えられてしまう」展開がどうしても書きたくなったんです。つまり、自分で舞台に立ったつもりが、いつの間にか“配役される側”になっている構図。


■ だからオペラオーを出すことにした
この作品の後半では、唐突にテイエムオペラオーが登場します。
実は彼女、物語構造の中では「舞台装置そのもの」を象徴する存在です。たとえば「周囲の空気ごと劇的な何かに塗り替えてしまう」や「自走型の舞台装置」という言い方で示されています。
タキオンが用意した“恋と観測”の実験を、オペラオーは彼女自身の劇に組み込もうとする。

「その装いは、舞台に上がるために生まれてきた!」

この台詞は、タキオンの世界観への強制的な“意味の上書き”なんですよね。
タキオンは当初「私は、誰のどんな行動でも、自分が自分のために良い意味を見いだせれば、それでいいと思ってるんだ」と信じていたけど、それは他者の目に晒された瞬間、全然違うストーリーになってしまう。

「観測者であるつもりが、観測されていた」という転倒。自分のいいように意味付けの支配権をふるっていたタキオン自身が、ストーリー後半でオペラオーによって勝手に自分の行動を意味付けされてしまっています。この皮肉を書きたかったので、オペラオーの登場は必要不可欠でした。


■ アグネスデジタルの登場は、正直やりすぎたと思う(でもやった)
後半に出てくるアグネスデジタルは、「尊い」「しんどい」といった感情語で世界を処理するキャラクターであり、“観測と意味づけ”というテーマの最終形態として登場します。
彼女は、自分の感動・信仰・脳内の幻覚ですら真実として扱ってしまう人です。

これは、本作のような知的対話や科学的概念によって構築された「意味の網」ではなく、直感・感情・愛で世界を理解する立場。彼女は思考や議論を通じて意味を探るのではなく、感受の爆発によって物語に“参加”します。

たとえば

「尊みは幻覚も引き起こすんですよォ!!」
「私にしか感じ取れない幻覚であろうと、それもまたリアル!!!!」

という台詞は、彼女が幻覚(虚構)と現実の区別を積極的に解消していることを示しています。

ある意味、デジタルは「作者」そのものです。誰にも頼まれていないのに、「この尊さには意味がある!」と叫び、物語に“推し解釈”を突っ込んでいく存在。でも、読者もそうだし、創作する側もそう。結局みんな、自分の中の“意味”を信じて、物語に貼りつけている。

またこの台詞は、タキオンが言っていた「世界は私の物語でできてる」という主張と構造的に同じでもあります。しかし、タキオンが科学的ロジックの皮をかぶっていたのに対し、デジタルはそれを全力の感情と狂気で可視化します。

結局どっちも「観測者」なんですよね。
このあたりは完全にメタです。読者としての我々自身を、彼女は鏡のように反射しています。

誰かの振る舞いや言葉を勝手に意味づけて、「尊い」と感じて泣いて、「分かる」と思う――そういう“観測者の狂気”を、彼女はむしろ誇らしげに体現してくれる。いわば“観測者の成れ果て”のようなものです。

オペラオーが「舞台装置としての意味」を押し付けるなら、デジタルは「感情としての意味」を押し付けてくる。

作品自体が作中で言及されているカオス理論そのもののような構造を持って進行し、どんどん混沌としていく。そしてこの三者がそろった時点で、もうタキオンの「私の物語」はとっくに崩壊しています。でも、その崩壊すらタキオンは面白がっている気がするんですよね。


■ カフェという静かな批評者
「他人の行動の意味まで、自分の都合で決められるようになるからです」

これは、タキオンの台詞に対する批判であると同時に、カフェ自身の葛藤でもあります。
彼女は「視える」側の人間であって、同時に「他人には“変わってる人”として見られている自分」も知っている。カフェはどこかで「見られることの怖さ」を感じ取っています。

カフェのこうした視線が入ることで、作品全体に冷静な“引き”の視点が加わります。物語に酔いそうになるタキオンと読者を、そっと止めてくれる役。

でも彼女自身も、香水のシーンでは明らかに揺れてる。タキオンに香水を貸せなかった瞬間の感情は、彼女がもう“意味を与えた側”に回ってしまったことの証拠なんです。だからこそ、彼女自身もまたタキオンに「意味」を与えてしまう瞬間には、ほんの少しだけためらいが出るように描きました。

香水のシーンや、服を選ぶ時のため息の奥には、彼女なりの“物語から逃げたいけど、逃げられない”という弱さと愛しさがあると思っています。

「彼の視線が、その服に落ちる。それはタキオンさんの身体を通して、私の美意識をなぞる行為だ」

という認識から、彼女もまた“意味を投影する側”へと引きずられていきます。カフェはタキオンと異なり、意味づけの正当性を自覚しつつ、それでも観測者であろうとする矛盾した主体でもあるという、とても繊細な立ち位置にいます。


■ 最後に
この作品では、誰もが「意味を与える側」になろうとして、でも結局誰かに意味を与えられてしまうという循環を描いています。

タキオンの哲学は素晴らしいし、共感できる部分も多いけど、実際の世界では「意味」は一人で完結しない。他人の視線、他人の物語、他人の観測――それらが否応なく自分に影響してしまう。

アグネスデジタルはその極致ですし、オペラオーはそれを舞台にしてしまうし、カフェですらそこから逃れられない。

じゃあそれをどう受け入れるか?

オペラオーによって意味を押し付けられ、彼女の演出する舞台の主人公にさせられ、「断ったとして運命は変わらないさ!」とまで言われて追い詰められることで、タキオンは自ら語った価値観に突きつけられることになります。「意味づけの自由」が自分だけの特権ではないことを、彼女は痛みを伴って理解せざるを得ません。

それを分かっているからか、タキオンはこの“意味の上書き”に対して、最後まで怒りません。反撃はせず、カフェと一緒に逃走することで対応します。

さらに言えば逃走の最中、

「……やっぱり世界は、私の物語でできてるんじゃないか?」

と再び語ることで、「他者による意味の侵入すら、物語の一部として吸収してしまう」ような柔軟性すら見せています。これは彼女の「世界観=自己解釈力」の強さでもあり、同時に、「他者に巻き込まれたことを自分の物語にする」という、物語化のさらなる高次段階への到達と見ることもできるかもしれません。

ちょっと危ういけど、なんだかそれも救いになる気がします。物語ることに対して自覚的な態度があれば、物語メーカーを暴走させない程度に動かして、物語ることの“おいしい部分”だけを抜き出すことができるかもしれない。

長々とここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
今後もこのシリーズは更新を続けます、よろしくお願いいたします。

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