遅すぎた自覚
手を伸ばしたら応えられた。だからそのまま二回三回と肌を重ねただけだ。
お互いに言葉も少なく、夜以外に接触する事など殆どなく、なぜ手を伸ばしたのかも曖昧なままに、四回目を過ごした、その翌日の朝。
「あの、キャプテン……」
「なんだ」
通路を歩いていた時だった。まだ部屋のベッドに沈んでいる男の為にと、水でも持って行ってやるかというなんとなく思い至った行動。のたりのたりと昨夜の気怠さのままにゆっくりと歩いていれば、ペンギンが気まずそうに声をかけてきた。
「声が、その」
声と聞いてすぐに、ああ、と、頷く。
俯いて、帽子のせいで元から見えやしない顔色は、この時ばかりは想像通りの色をしているんだろうなと簡単に察しが着いた。
アイツは不慣れなように見せて、しかし素直に受け取り、声を上げる。普段は低く落ち着いている声が掠れて、震え、甘やかに上り詰める様を教えてくれるのだ。
戦闘の時には刀を咥えるその口から齎される行為に溺れる声は、自分もまた熱い炎に焼かれるかのように甘美で、いつだって少し、無理をさせてしまう。
昨夜もそうであった。艶やかなその夜を思い出し、乱れる男のその声をペンギンが聞いたのかと思うと、不愉快な気持ちが沸き起こる。ギリギリと心臓に爪を立てられているような、臓腑を直接握られてじわじわと力を加えられていくような、不愉快な気持ちだ。
「忘れろ」
それだけ言って、食堂へと向かうはずだった足が部屋へと向かってしまう。のたりのたり、そんな足取りはドシドシとした、不機嫌さを表していて、部屋についてから水を忘れた事を思い出した。
はて、なぜ不愉快になったのか。そう思ったのはついに片手の指の数に届いてしまったその夜、色付く男を見下ろしていた時だった。
別に、構いやしないはずだろうに。羞恥を覚え苦悩するのはこの男で、自分はせいぜい笑ってやればいいのに。なんなら行為のスパイスに声の事を耳元で告げてやれば面白そうであるのに、そう思ってもなぜか段々と不愉快になり、穿つ腰が強くなる。組み敷く男がより一層悦びに声を上げ、耳を犯してきて、咄嗟にその口を塞いだ。突然の事に驚いた男の隻眼の瞳から、ずっとそこにとどまっていた雫が落ちていく。舌先で掬い取り、しかし口から手を離すこと無く、その後ずっと男のくぐもった声と卑猥な水音と、自分の荒い息だけを耳にした。
「殺す気か。危うく窒息するところだった」
男が苦言を呈したのは、予め用意していた水を与えたそのすぐ後だ。喉を潤してから睨む男に、そうだろうな、と自分の暴挙を少しだけ反省する。だけれど、と思い出すのはペンギンの言葉だ。
声。声が、と。
赤い顔をして居ただろうペンギンが気まずそうに言ったその、言葉。
「声」
「声?」
「お前は、煩い。抑えろ」
「っ」
言ってから、そんな話だっただろかと疑問に思う。いや正しいはずだ。しかし何かが違う気がする。そう思っている間に、男は、そうかよ、と一言呟いた。呟いたきり、何も言わない。暴挙への不満も、突然の苦情にも、身勝手極まりない命令にも、何ひとつとして文句を言わなかった。
夜を越す回数がとうとう両手にまで差し掛かった。
男はあの夜に言った言葉を忠実に守るように、声を抑えるようになった。
枕を口に押し付ける。シーツを噛む。自分の腕を噛む。唇を噛む。それでいいと、思った。くぐもった声は嬌声とは程遠く、部屋の外にまでは届きやしない。それでいい、そう思うのに何故か酷く不愉快だった。ペンギンに指摘された時よりもずっと、ずっと。
声を抑えることに意識を向けているからか、男はこちらを見上げることがない。トロリと蕩ける瞳が見えないのは固く目を閉じるから、赤く染まる顔は苦悶に満ちて、寄せる眉は深い谷を作る。こんな顔を見たかったのだろうか、声を抑えればいいだけで、それでこんな顔になってしまうのだろうか。いや、別に、顔なんてどうでもいいだろう。男を見下ろして、そういえば自分は常にそうやって居たのだと気づく。いつも、最初から自分はこの男の顔が見えるようにしか抱いていないなと。異性はもちろん、同性に手を出すも初めてでは無いけれど、大体は後ろから攻めて立てていたはずなのに、こいつに関しては最初っから、正面から見下ろしていたのだ。そう思っていた時、プツリと男が噛み締める唇から血が伝って口を汚すのが見えた。赤い赤い、忌々しい色。
気付けば口付けていた。
口付けて、それ自体は初めてであったと気づく。体こそ両の手に差しかかるほどに重ねていたのに、唇を合わせたのは初めてで、その初めての感触がどうにも、心地よい。柔らかく、赤色の鉄臭い味であるはずなのに甘く感じて、そして、暖かい。その心地良さに、どうして今までしなかったのかと言うほどに夢中になって貪ってしまった。
男は、驚いたのだろう、されるがままに暫くその唇を受けていたが突如として反乱を起こした。
ガリッと差し込み犯していた舌を噛まれて思わず口を離す。口の中で液体が溢れ、ペッと吐き出せば唾液に混じり忌々しい赤色が見えた。
「何しやが…」
見下ろした男は口を抑え、酷く傷付いたような顔をしていて、あんなに強い男がそんな顔をするなんて信じられなくて、驚いて。言葉をなくした。
「それ、は、必要、ねぇ、だろ」
震える唇が、辿々しく開く。
「……必要性がないなら、しようとしなかろうとどっちでもいいとも言えるだろ」
「なら、するな」
「なんだと?」
震えているくせに、その言葉ははっきりとして聞こえてしまった。
「必要ないことは、するな、いらない」
そんなものは欲しくない。
カッと、頭に血が上った。拒絶された、そう思うととてつもない怒りが湧き上がり、無理矢理にでもその唇を奪った。噛み付かれて、髪の毛を捕まれ引っ張られても、顎を掴んで押さえつけて、無理矢理に、最奥を貫くよりもずっと激しく、忌々しい赤色の味を感じながら、口を犯した。
翌朝、お互いに唇を傷だらけにし、こんなんじゃ人前に出れやしねぇと思っていたにも関わらず、男は部屋を出て行こうとしたものだから呆れて、なんて言い訳をするつもりだと聞いてやれば、どこか仄暗い顔をして「黙秘に決まってんだろ、馬鹿正直に話すやつが居るかよ」なんて言い放った。成程、道理である。溜息をつきながら男の消えゆく背中を見送って、ベッドへと倒れた。
何かを間違えている気がする。
どこからか間違えている気がする。
あんな顔を見たかったのだろうか、いや、見たい顔なんて拘りは無い。そこにあの男がいて、手を伸ばしたら応えられたから、ズルズルと続けているだけ。声だって別に、自分は困りやしないのだから、好きにさせればいいのに、なぜだか不愉快で、不愉快で、ペンギンの口から、他人の口から、あの男の声や、そしてつられて想像させてしまう男の醜態を脳裏に思わせるのも、不愉快で。
「……ゾロ屋……」
一回目、手を伸ばした時、あの男は何かを探るようであった。
二回目は、面白がるようで。三回目は、挑発的に。四回目は、呆れたようにして笑って。五回目は、柔らかく笑って頷いてくれた。その五回目の途中から、自分はその声を閉ざした。それから今回、男は、耐えるようにして、あの瞳は緩むことは無く、笑みなんてものは、向けられなかった。向けられたのは、驚くほど純粋に浮かび上がった、傷付いたと、痛いと訴える、顔。
「……そんな顔するなら、なんで……」
初めての時、なんで受け入れた。そして、なぜあんなにも、慈しむように微笑んだんだ。
分からないまま、手を伸ばしににくくなり、何も無いまま、ワノ国にたどり着き、男とはそれから一切接触をすることは無く、そのまま麦わらの一味達が合流し、そして、決戦が始まった。
夜の事なんぞまるで存在しなかったかのように振る舞う男。事実、男はもしかたら記憶から消してしまったのかもしれない。いや、それどころではないから、だろう。自分もまた、作戦と戦闘に集中し、夜のことを頭の隅の方へ押しやった。
そして、全てが片付いて、ようやく考えられるようになったのは眠る男を見下ろしていた時だった。
死に体もいい所の惨状。医者としての勤めを果たす以外はずっとぼんやりと見下ろして時間が過ぎるのを待った。この男の体が回復していくその時間を、ただずっと待った。
なぜ見下ろしているのだろうか、なぜ、この男が気になるのだろうか。抱きたい、のだろうか。こんなにも重傷となってしまっている男を見て、それでも尚、欲情しているのか。そんなにも非道な人間だったのか、欲に振り回される人間だったのか、自分は。
いや違う。そんなものはに振り回されていはいない、少なくとも今は。
ただ思い出されるのはあの背中。後を任せてきた、男の背中。
「ゾロ屋……」
そんな背中は見たくなかったのだと気付いて、それでも何故なのかはわからないままだった。
男が目覚めたのは自分が傍に居ない時だった。間の悪い事だと思いつつ、顔を合わせないままにするには不自然さがなかったため都合よく使うことにした。出国も間近という時まで、男とは顔を合わせないままでいたかった。正確には、自分の中の疑問が解けるまで。出国に間に合わなければそれはそれ、間に合って答えが出てしまったら、どうしようか。いや、その答えにも寄るだろう。なんにせよ、男とは接触をしないままでいよう。
そして考えをまとめようと思って夜の森を歩いていた。人口の光は遠くとも、月の灯りが辺りをぼんやりと薄暗くも照らしていた。そのままふらふらと歩いていくと、波の音が聞こえてきた。陸に居ようと海の音につられるのは最早本能に近い。その先に今は会いたくないと思っていた人物の気配があったとしても、抗えないのだから。
「よう」
月明かりと星光で辺りがよく見える、断崖。波の音が静かに聞こえる。そよそよと風が吹く度に草花が揺れて、男はそんな場所に腰を落ち着かせ酒を飲んでいた。
「酒を飲む場所を探していたら、涼しくてな、いい場所だろ」
自分が近づいてもなんともか思っていないような声、顔、雰囲気。隣に腰かけても男は、ちらりと見ただけて、なんでもないようにどうでもいい話をする。その横顔をずっと眺めた。
「……ルフィやおれ、他の奴らも診てくれたんだってな、ありがとう」
「ついでだ」
「ははっ、そか」
かすかに笑ったその顔にはまだガーゼがある。首にも頭にも包帯がある。ずっとそんな横顔を見ていると、男がちらりと視線を投げ寄越てきた。そして視線ではなく顔までもをこちらへと向け、いつかのように探るような眼差しとなった。それから、少しだけ見つめあっていると、男は呆れたような顔をして、ため息をつき、ぽつりと呟いた。
「忘れよう」
「……なにを」
「ここに来るまでの、おれ達の事。全部、忘れよう」
「……な、んで」
今の今まで、こいつ自身、忘れていたかのように、いや、記憶から消し去ったように振舞っていたくせに、改めてそんなことを口され、酷い、なんて身勝手な言葉が出そうになった。何が酷いだ。
「必要がねぇからだ」
「……ならばわざわざ忘れる必要だってないはずだ」
「なぜ覚えておく必要がある」
なぜ、言われて、口を閉ざす。探るような眼差しを受けながら、きっと答えなんて浮かんでいない自分の瞳に呆れて、そして、諦めたらしい。
「いや、いい。おれも悪かった、曖昧なままにしておいてテメェ一人を責めるのはお門違いだ」
立ち上がり、そして、立ち去ろうとする。曖昧なままにしておいて、そして、だからといってはっきりとさせるつもりは無いらしく、そこまま去ろうとするものだから、思わず腕を掴んで引き止めた。
「ゾロ、屋……」
「忘れろ、気にするな。なにもかも元通りになるんだ、不都合があるか」
「……」
男を忘れて、今まで通り。この男は、この先ふとした瞬間に、居たかもしれないと思い出すだけの男と成り下がる。不都合などない。きっと、自分の人生にさほど問題は起きない。居ても居なくとも。
「ない、だろ?ほら、離せよトラ男」
「……教えろ」
「……なにを」
「なぜ、お前、おれを受けいれた」
不都合は無いはずなのに、必要なんてないはずなのに、余計なものであるかもしれないのに。
それを手放してはいけない気がした。
「教えろ」
「……忘れると、約束するなら」
「……ものによる」
「なら話さねぇ」
「おれがお前に手を伸ばしたのはそこに居たからだ」
口にするとまた随分と酷い。呆れて、自分の事ながら温かみの無さに怒りが湧く。であるのに、耳にした男は、怒りなど浮かべずに呆れた顔をしたままだ。
「いや知ってっけど……」
「おれは理由を話した。お前は受け入れた理由を話せ、フェアじゃない」
「いやお前そりゃ……はぁ、いいけどよ……どうせ、別れるしな」
否が応でも、忘れてくれるよな。
呆れと、諦めと、自暴自棄。らしくなく、しかし腹を決めたような顔はこの男らしい。やわく緩んだ眼差しが向けられ、ああ、久々に見られたと心が震えた。
「伸ばされるとは、正直思っていなかった。おれも伸ばすつもりもなかったんだ、まさかと思って、でもこんな機会はきっと二度と来ねぇと思って、焦っちまった」
「……」
「おれが受けいれたのは、後にも先にもお前だけ」
それは男の告白だった。ひっそりとひた隠しにしていただろう、胸の内の告白だった。
「たったひとりにしか許してない。お前にだけしか許そうとは思えない」
片方だけとなった瞳が柔く緩む姿は、慈しみという言葉以外が見つからないほどに慈愛に溢れていて、どうしてそんな目ができるのか不思議だった。ただの人間が見せるにはあまりにも幻想的で、月の灯りが男を際立たせる。
「お前を好いていたから、受け入れた」
手を伸ばされた時少しだけ期待した。
でもそんなつもり全然なかったんだもんな、お前。
でも別に良かった。
こんなにも誰かに心をくれてやれてぇと思ったことはないから、そんな相手からいっときでも手を伸ばされたのだから、一生に一度、きっともうない事なのだから。
束の間に見る夢としちゃ上等だろう。
「これが理由。お前には必要のない事だろ?ほら、分かったら離せよ。トラ男……頼むから」
そして忘れてくれと、腕を振り払う男の、その腕を、もう一度掴む。
やはり、この手を離してはいけないのだと思った。
「っトラ男!」
「……そこに居たから、おれは手を伸ばしただけだ」
最初は、確かにそうだった。そうだと、自分で思っていた。
「……酷い男だ。いくら忘れるからといえど、おれだって傷は作るんだぞ」
「お前と出会う前から、今までもおれは、そうして手を伸ばしてきた」
「そーかい」
「手を伸ばした相手の顔なんて、いちいち覚えてない」
「ああ、なるほど。だから安心しろと?そりゃ嬉しいね」
「……それでもおれはお前を忘れられそうにない」
どうしてなのだろうか。この男が抱き心地が良かったのだろうか。容姿が気に入ったのか。あの海賊狩りを組み敷く優越感が、支配欲が、刺激されていたのか。それとも好意を向けられていると知って手放すのが惜しくなったのか。どれも違う。違うはずだ。この衝動は、そんな刹那の欲望なんかじゃないから。
「ふざけっ……!」
「顔なんて覚えていないのは、顔を見ながら抱いたことがないからだ」
「は、ぁ?」
最初は、そこに居たから手を伸ばしただけだったはずだった。だけれど最初から、この男の顔を正面から見ていたのだ。ずっと、そうしてきた。この男を、見続けていた。
どこからか間違えている気がしていた。そしてそれはきっと、最初からだったのだ。
「信じる信じないは……好きにしろ、信じて欲しいが」
「……」
「男でも女でも、おれは……基本正面からは抱かない」
「ぅ、そ、だろ……お前最初っから……」
戸惑いに揺れる瞳、振り払おうとしていた腕からは力が抜けて、手の中に収まる。はくりと口を開いて、閉じて、信じてはくれていない事は明白。それは仕方ない事であるけれど、これまた身勝手にもやはり、信じて欲しいと思って口が勝手に言葉を続ける。
「ああ、最初から……最初から、おれは、お前を見ていた……訂正させてくれ。まだ、おれの中でも形にはなっていないけれど、でも確実に訂正しておかなければならないと感じた」
「なに、を」
息を飲むような、または無理やりにでも吐き出すようなか細い声。夜の空気に溶けてしまいそうな声は、きっと自分も同じだ。言葉を吐き出すのをこんなにも難しいと思ったことはない。
「おれがお前に手を伸ばしたのはそこに居たからじゃない」
最初から間違っていたのだ。その言葉を吐き出すのは、ああ、なんとも難しい。
「お前が、居たから、おれは手を伸ばした」
それは今ようやく見つけたものだ。最初から見失っていた、感情だった。
「……勘違い……」
「違う……と、思う……」
「思うかよ、なんだよそれ」
ばっかじゃねぇの。
言って、笑って、見つめてくる。慈しむような、笑みだ。吸い寄せられるように、手が男の頬に伸びる。男は、拒絶しなかった。
「……時間が無い。おれは遅すぎたな」
「ん、そうだな。しかも、もしかしたら勘違いの可能性すら残ってる、最悪だテメェ」
「ぅ……済まない……」
「いーよ。別に」
おれはそれでもいい。一生に一度。想いなんて伝える気はなかったのに伝えられたのだから。
そして今ここに温もりがあるのなら、こんな幸せなことは無い。
人を好きになるなんてきっとこの先もうありはしないのだから、今この瞬間を、幸運に思わずしてどうする。
「ふふ」
「あまりそういう事を言うなよゾロ屋。おれが酷いやつなら、惚れてる事を利用してた」
「そんなやつに、このおれが、惚れるわけねぇだろ」
絶対的な信頼。そんなものを向けられたら、騙そうとか、利用だとか、そんな事をする気なんて失せる。元々ないけれど、真摯に向き合いたくなる。この男と。大切にしたくなる、この心を。まだまだ曖昧だけれども、この気持ち、勘違いではないだろう。
頬に添えた手でゆるりと男の肌を撫でる。口付けは、拒まれない。あの時拒まれたのは、きっと一方通行である事を割り切りながらも、やはり唇を重ねる事だけは、思いを通わせてからだと思っていたからなのだろう。今は、もう、拒まれない。
口付けて、その場に体を横たえ、肌に触れる。ちくりとする雑草に擽ったさを覚えたらしい。男の下に、肩に引っ掛けたままだったコートを敷いたら少しだけ肌寒さを覚えたけれども、それは直ぐに忘れた。柔く、徐々に熱くなっていったから。
男は、口を抑えていた。そうだ、自分は随分と酷いことをこの男に言った。だから、言い直さなければ。
「声」
「こえ、だから、おさえて」
「あの時、朝、ペンギンに言われた、お前の声が、と」
「ぅ、ん?」
「酷くおれは苛立った」
「うるせぇ、から?」
「違う。あいつに聞かれた事が嫌だったんだと、今、気付いた。おれ以外が聞いていたなんて、と」
「お前ほんと……全部遅い」
「すまない」
「ふふ、いーよ、別に」
「ゾロ屋」
「なんだ」
「出せ、こえ、聞きたい。うるさくなんて無いから」
「いや、ここ、そ、と」
「こんな事してるんだ、今更だ。大丈夫、誰も来ねぇから」
出して、素直に、感じたままに、前みたいに。
口付けながら訴えて。そうしたら男は、口を開いてか細く鳴き始めた。久々に聞くその声に頭が痺れてどうしようもなくなる。上がる声の一つ一つが愛おしい。ああ、愛おしい。そうだ、曖昧なものがようやく、形となる。心地良さに浮かれてその場だけの感情なんかかじゃない。上がる声、潤む瞳、愛おしいと訴えてくる蕩けた眼差し。
「ああ、おれは本当に、遅すぎる」
今からでもいいだろうか。
許してくれるだろうか。
時間はもうないかもしれないけれど、想いを積み重ねてもいいだろうか。
「ゾロ屋、ぞろや……」
「トラ男……?」
散々傷付けて来た。今更、あまりにも遅いけれど、時間すらもうないけれど、それでも良いだろうか。
「ゾロ屋……愛してる」
「……ああ、もう、ふふ、ほんとーに、おせーやつ」
でも、おれもだ。
微笑みと共に、告げられたその言葉を乗せた声は
ひときわ、うつくしかった。
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