残響は永遠に

 夏の闇夜の隅田川に、江戸中から人間が集まっていた。
 川沿いの道筋や流れにかかる両国橋の上はもちろん、川面まで屋形船や屋根船が埋め尽くしている。ある者は酒盃を傾け、ある者は団扇を使いつつ、誰もが星の少ない空を見つめていた。
 屋台の客引きや芸人たちの騒がしい呼び声がふっと途切れた、ちょうど寸の間だった。白い光が夜空をまっすぐに切り裂き、龍のように駆け昇った。遅れて、どぉん、と低い轟音が夜の空気を震わせた。
 待ってましたとばかりに陸からも船からも歓声が上がった。地を揺るがす轟音が続けざまに響き、次々に花火が打ち上がる。
「たーまやー、ってね」
 小ぶりな屋根船の舳先に片肘をついて、高野長英が上機嫌で囃し立てた。頬を薄朱に染めた渡辺崋山が「かぎやー」と続ける。彼は少し酒が入っていて、花火の上がる前からやけににこにこしていた。
「船を借りて正解でしたね。あの人混みじゃあ、おちおち花火も楽しめませんよ」
 後ろで足を伸ばしていた小関三英の言葉に、長英が振り返る。頭の上で束ねた長髪が、船提灯の明かりにつやつやと輝いた。
「ね、言った通りでしょ。船ならくつろぎながら、しかも間近に花火を楽しめるって」
 長英、崋山、三英、それに気心の知れた尚歯会の面々は船を借りて、花火大会の開催地である隅田川へ納涼に繰り出していた。
「私は去年の宴会場も好きでしたけどね」
「確かにあそこの芸妓はなかなかいけたけど、ありゃ両国から遠すぎた。やっぱり船が一番だます」
「そうですねえ、高野くんが提案してくれてよかったです」
「でしょー」
 胸を張った長英に、三英が渋い表情を作った。
「なんですか、我こそは功労者みたいな口ぶりで。君はほぼ何もしてないでしょう」
 花火大会向けの船は著しく需要が高い。家格を誇る武家から大店を構える町人まで、船遊びしたがる御大尽が殺到する。安価な屋根船一隻とはいえ無事に借り出せたのは、三人の友人である江川英龍の財力と人脈によるところが大きかった。
「やあ、お三方とも。さっき屋台船が通ったんで天ぷらを買っておきましたよ。なかなか美味そうです」
 艫の方から身軽に近寄って、川路聖謨が声をかけてきた。下級幕臣の家で苦労してきた分よく気が付いて、陰でくるくると働いてくれる人だ。
「私は先に夕飯を頂きましたから結構。渡辺どのは?」
「あいにく酒で腹がふくれてしまって。高野くん、どうですか。君は若いからお腹すいてるんじゃありませんか」
 長英はこういう時に遠慮する質ではないのだが、うーんと気のない返事をするばかりだった。
 屋根の下から、江川がにゅっと首を突き出す。大作りな目が順繰りに三人の表情を捉えた。
「それなりの量を買ってありますし、各々お好きな時に召し上がればよろしいのではありませんか」
「ええ、我々はもうしばらく花火を見ていようと思います」
 三英の言葉に了承の旨を示して、江川は首を引っ込める。その様子にようやく川路も頷いた。
「分かりました。では先に頂いてますね」
 川路が軽く片手を挙げて、屋根をくぐっていった。がやがやと飯やら酒やら広げている様子を背中で聞きながら、三英は船縁の方を見やる。
 わずかに揺れる船体に背中を預けて、長英は花火の咲く夜空を仰いでいる。長英と袖が触れ合うほどの距離に、いざりよって崋山が座った。いつになくぼんやりした長英と酔っ払いの崋山と、うっかりどちらか川に落ちやしないかと不安の雲が差しかけたが、まあ三人いればなんとかなるだろう、と思い直して三英は花火と友人たちを眺めていた。
「綺麗ですね」
「うん」
「晴れて良かったです」
「ほんとに」
「高野くんは花火が好きなんですか」
 並んで天上を仰ぎながら、崋山が尋ねる。
「好きだます。とびきり派手だし、見てて景気がいいし、なんか憧れるんスよねえ」
 いきなり長英は握り拳を掲げて、頭の上でパッと五指を開いてみせた。
「ここぞという見せ場でどーんとひと花咲かせて、思いっきり注目を集めて、果たすべき役を果たしたら潔く散る。これぞ男の生き様って感じがしませんか」
 ぎょっとして息を呑み、三英は重いため息を落とした。以前にも長英は似たようなことを放言したのだ。まったく大言壮語が過ぎる。
「なるほど、君らしいな」
 崋山は動じずに、ゆったりと笑う。長英は嬉しそうに声を弾ませた。
「渡辺さんはわかってくれると思ってたんだ」
 医者ならもう少し命を丁寧に扱ったらどうだとか説教しそうになって、いいや、それはまったく的外れだと三英は思い直した。言われるまでもなく、彼も命の重みは知っている。
 どんな風に生きたいか。与えられた時間をどのように生きて、どのように終わらせたいか。長英はそう語っているのだ。
「どう、三英さんはどんな死に方がいい?」
「くだらないことを考えていられるほど毎日暇じゃないんです。それに縁起でもない」
 早口で言い捨てて三英は顔を伏せた。意図がわかっていてなお腹立たしかった。齢を経るだけ現実として迫ってくる感触を知らないから、そんな夢見がちな軽口が叩けるのだ。
 あるいは、と乾いた唇を結ぶ。恐らく友人たちを置いていくであろう年齢の差が、ただただ悲しいだけなのかもしれない。
「ちぇ、つまんないの。渡辺さんはどうだます」
「いざという時は大恩ある主家に殉ずるつもりです」
 即答だった。しかも赤い顔に似つかわしくない、はっきりとした声音だった。
「やっぱりそれなんスか。らしいっちゃらしいけどさ」
「渡辺どのは死ぬことが恐ろしくないのですか」
 気が付けば、縋るように尋ねていた。崋山は揮毫を頼まれた時のように軽く笑った。
「主家の顔に泥を塗り、親不孝を為すことに比べれば、大した恐怖ではありません」
 死よりも怖いことが三英にあるだろうか。自分の細い神経がぷっつりと切れて用を成さなくなってしまうほどのことなど、想像しただけで身も凍る思いがする。
「ならば、未練はないのですか。これをやり残しては死ねない、ということは」
「それはもう、山のように」
 崋山はおどけた口ぶりで言いながら、今手掛けている仕事を指折り数えてみせた。藩政改革、画業、蘭学研究と、彼の務めは幅広い。
「ですからしばらくの間は、死を選んでいる暇はありませんね」
 穏やかに言い放たれた、死を選ぶ、という言葉が三英の薄い胸を突き刺した。模範的な武士にとって、死は待つよりも自ずから迎えに行くべきものだという意識がそこに表れていた。
「貴方が死を選ばざるを得ないような出来事など、万が一にでも起きてほしくありませんが」
 万が一が出来した時、三英にもその選択は開かれているのだ。ぞっとしない。
「言葉の綾ですよ。いずれにせよ、武士たるもの見苦しく生き恥を晒すような真似はすまいと誓っています」
「それだよ、それそれ、俺ぁ生き恥ってもんがどうにもわからねえ。どれだけ世間に謗られようが、人間じゃいられなくなるような恥なんて滅多にあるものか」
 元は武家に生まれたとは思えない長英の言い草である。
「高野くんはそれでいいんですよ」
 だいぶ酔いも醒めた頃合いだろうが、崋山は相変わらず機嫌がよかった。
 花火は断続的に上がり続けていた。しゅるしゅると打ち上がって人々の目を楽しませては、微かな煙を残して消えていく。
「蛍火のようですね」
 自分の口からこぼれた似つかわしくない例えに、三英は目を見張った。長英が不思議そうに小首を傾げる。
「いや失礼、なんでも」
 ああそうか、と唐突に悟った。死が怖いというよりも、寂しいのだ。今こうして共にいる人たちが、いつか必ず別れ別れになってしまうという、動かしがたい事実が。
 ずっと彼らと共にいたい。なんと幼い願いだろう。
「お気持ち、わかりますよ」
 崋山がゆっくりと首を振って、そのまま目を伏せた。
「お祭りの間は本当に楽しいんです。全てが終わって人混みがまばらになって、しんと静かな帰り道を辿る時、私はどうしようもなく胸が締め付けられる」
 花火の残響がどろどろと尾を引いて消えた。
「でも確かに花火は咲いたんだぜ」
 不意に長英が張りのある声で言った。
「咲いてしまったら跡形も残らないけど、俺は息の続く限り覚えてるよ。あんたらと一緒に船遊びしたことも。俺だけじゃないはずさ」
 長英は屋根の方へ顎をしゃくる。艫の方で船頭を巻き込んで酒盛りしている、江川と川路の楽しげな姿があった。
「俺たちの周りにいた人の心にも、少しずつ俺たちの人生の欠片が残って、俺たちや俺たちを知る人が次の世代へとまた繋いで。この世に人がいる限り、きっと花火は絶えないんだます」
 三英たちの視線に気付いたらしく、江川たちは何やら言い交わしている。ご飯買い足しましょうか、という仕草をする彼らに、お気遣いなく、と崋山が手を振った。
「それはそうと高野くん、ひと花咲かせて散りたい、なんて話はここだけにしておきなさいね」
「ええー?」
「止めたところで素直に聞く人じゃないですけど」
「よくわかってらっしゃる」
 小突き合いながら、崋山と長英は内緒話をする少女のようにくすくす笑い合った。三英は大袈裟に咳払いする。
「お二人とも、私がいること忘れてませんか?」
 その声に二人は顔を見合わせて、互いの身体を離した。空いた空間に手招きされて、三英は面食らう。
 戸惑いながら膝を進めると、両側から肩をがっちり挟まれた。
「忘れてなんかいませんよお」
「三英どのあっての私たちですからね」
「そうそう、三人で仲良くしましょ」
「さっきから何なんですか急に!」
 肩を組まれたり背中を叩かれたりすることよりも、自分の首筋がひどく火照っているのが嫌でたまらなかった。絶対に気付かれたくない。
「寂しがらなくても大丈夫ですよ、ってことです」
「ていうか、妬かなくてもいいのよってこと」
「寂しくないし妬いてません!」
 笑い声の狭間で三英はむくれた。歯を見せて笑っていた長英が、花火を追うように天を指さした。つられて夜空を見上げる。
「よーし、決めた! こん中で一番長生きしたやつが、他の二人の墓に碑文を書きましょう! ねっ、そしたらずっと一緒にいられますよ!」
 どきんとして、思わず三英は胸を押さえた。早まる鼓動を隠して、呼吸を落ち着けるための深いため息をつく。
「碑文だなんて、また大きなことを……」
 だけど、胸の高鳴りは止まない。死という冷たく巨大な終わりが、今はなんでもない通過点のように思われた。
 月も星も煙の向こうへ隠れた空に、崋山が眩しげに目を細めた。
「君たちに胸を張れるくらい、立派な生を送らねばなりませんね」
 三人揃って仰いだ夜空に、一際明るい花火が吸い込まれていった。

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