侵食

 初めてその顔を見た時、今にも割れそうな薄氷を眺めているような気持ちを抱いたのを覚えている。
 始まりは何時だったのか、意外にもそう遠くは無い過去であるはずのに明確な時期は覚えていない。ただ寒い季節であった事だけは覚えている。
 きっとインターホンを鳴らすのを長い時間悩んだのだろう、扉を開けた先に居た男はしっかりとコートを着込んでマフラーを付けていたにも関わらず、鼻先も、耳も、真っ赤にして震えていたのだから。
 物静かな眼差しだった。
 吐いた息が白く揺蕩わなければ人形が置き去りにされてしまったのではないかと思うほどに動きもしなかったので、この男が生きている人間だというのを忘れてしまいそうであった。
 ひょっとしたら、人形であった方が良かったのではないかと思う。
 人間の、心の表面に張られた薄い鎧が、今にも割れそうな姿など、そう見たいものではないのだから。

 その男とは、特別親しいつもりはなかった。

 共通の友人を介して知り合って、顔を合わせるのだってやはり、その友人達を交えた席ぐらいなもので、しかも、それで共に席についてグラスを傾けたとしても、自分の記憶が間違いないのであれば決して、親しげに会話を重ねた事だってなかった。
 だから、広義の意味では友人であったかもしれないが、世間一般的な感性からいうに自分達は凡そ、顔見知りという枠に収まるのがせいぜいであったはず。
 なのに、今にもどこからかヒビでも入りそうな表情をなさって、寒さに凍えながら、顔見知り如きの目の前に立っていた。
 不思議に思いもしたけれど、朝の早い時間にわざわざ来ているのだからきっと、自分には思いもよらないような用事があるのではないかと思い、口を開いたのだけど、実は彼の人の名を呼ぶ時少し悩んだ。
 なんという名前だったか、薄情にも、しかし当然と言えば当然で、顔見知り程度の男の名前がすぐには出てこなかったのである。
 はくりとひとつ、口を開いて、それから口についたのは男の名前ではなく、これまた共通の友人が親しげに男の事を呼ぶ時に使っていた愛称であった。呼んで始めて、自分はこの男の、その愛称すらも、そう呼んだことが無い事に気づく。それほどまでにこの男と自分はトンと話なんぞしたことも無かったのだ。友人でも顔見知りでもない、ほとんど他人と言ってもいい様な関係であると、再度認識を改めた。
 男の愛称はトラ男と言った。そう、呼んだ時、男の表情が変わったのを覚えている。今にも割れそうだった薄氷が、割れるのではなく、緩やかに溶けたのだ。春の訪れがやって来たように。
 人形が、息づいた瞬間であった。
 どうしたのか、と問いかけると男は、トラ男という愛称を持つ男、トラファルガー・ローは少しだけ迷うような仕草をした。視線を下に向けた時にパサリと前髪が目に掛かり表情を分からなくさせたけれど、深く悩んでいるのはわかった。
 次にローが顔を上げた時、寒さとは違う意味で頬が色付いていた。どうしてわかったのかと言うと、顔を上げて良く見えるようになったそのご尊顔のためであった。蛇足になるがその男、同じ男から見ても随分と整った顔をしているのである。その顔にまるで神様が自ら手を加えたように正しい位置に嵌め込まれた瞳がゆるゆると潤んで居たので、寒さだけでは無いなにか、それはあまり自分にとっては宜しくない意味で、頬を染めているのだと思ったのだ。
 ローは艶のある声で、それはまるで褥で女子にでも語りかけるように、小さく告げてきた。お願いがあるのだ、と。それはどんな願いなのか、聞いてはいけない、聞くと自分はその願いを聞き入れねばならないと感じながらも、己の口は勝手に意志を持ったように開き問いかけていた。そして男が続けた言葉に、ああやはり、聞かねば良かったと思ったのだ。
 今日一日時間を貰えないだろうか。何もしなくていい。いや、何もしない事こそがお願いである。
 どうか身の回りの世話をさせて欲しい。生きるのに必要となる事全てを、生活に必要となる行動の全てを己に任せて欲しい。
 そしてどうか、自分が上手に出来たら、一言でいい。褒めては貰えないだろうか。

「──おれは、Subだ」





 この世には男と女という生物学上の雌雄の他に、また別の性が存在する。ダイナミクスと呼ばれる力量関係にある性別だ。
 DOMと呼ばれる性が男女共にあり、Subと呼ばれる性が男女共にあり、Normalと呼ばれる性が男女共にある。
 DOMは主に支配者という言葉がよく当て嵌められた。または庇護する者か。Subから信頼を得て、Subを支配したがる者をいう。
 Subは逆に庇護下に置かれる者を言った。DOMに信頼を委ね、DOMからの支配を受ける者を言う。Normalはそのどちらともつかない者の事であった。
 細かく言えばもっと複雑な関係性があり、それぞれの性質もまた三者三様十人十色と、まさに千差万別であるのだが、それだけに語り尽くせるものでは無い。故にその当時重要であったのはまさかこの男がと言う驚きであった。どちらかと言えばDOMであろうと、思っていたのだから。
 男をDOMだと、断じていた訳では無い。だがSubであるとは全くもって思いもしなかったのは事実である。それはSubという性別上、共通する特徴を、この男が持っていなかったからだ。
 庇護下に置かれることを望むという性質のためか、Subと呼ばれる者は総じてどこか線が細く儚げであり、そして無意識でも意識的にでも誰かの言葉に従うのを常とした行動を取ることが多い。Play呼ばれるCommandを用いたコミュニケーションだけではなく日常的にSubには誰かの傍で何かしらの指示を貰い行動を起こし、そして、褒められたがるところがあるのだ。本人達はわざわざ己の性別を口にしたりしないが、見ていればなんとなしにその性別を察することが出来る。
 しかしこのローという男に関してはまるでそのSubらしい所を見たことがなかったのだ。もちろん、顔見知り程度でしかないので、よくよく見た事などないのだから断言出来るかと言えばそうでは無いであるが、それでも凡そこの男の言動には庇護下に置かれたがるSubらしさは見たことがなかった。故の驚きを持ち、そしてセンシティブな話題をわざわざ己のような、何度も言うがただの顔見知り程度の、男に打ち明けて、あまつさえPlayじみたものを望むなどと、昨夜の己とて夢にも思っては居なかった。
 驚きと、少しの困惑。当然朝早く突然やって来てそのような申し出をされようとも、はい良いですよとは言えずに口篭り、どうにかこうにかお暇いただけないだろうかという、そんな気持ちが態度にも、そして表情にも出てしまったのだろう。みるみるうちに春の雪解けのように綻んだ男の顔に再び冬がやってきたように氷が貼り始めてしまった。
 無理は承知だった。不躾でもあった。すまない。
 そう言う男の顔と来たら、なんと言えばいいのだろうか。これでも平均身長を超える己であっても見上げなければならない程の身長を持つ大の男に対して、果たしてその印象が正しいのかはわからないが、そう、まるで、捨てられ雨に打たれた子犬のように見えてしまったのだ。動物は特別好きというわけでもなかったが、見捨てるほど冷徹であるつもりも無い。なによりそのような表情をしたSubを見捨てることなんて出来なかった。それもまた、性別によるものであった。
 突然の訪問者に困惑する己もまた、性別に人生を翻弄される、DOMであったから。





「いきなり全ては無理だ」

 この家の場所についてはどうやら共通の友人に聞いて知ったらしい。勝手に教えた麦わら帽子の良く似合う男に対して思うところがない訳でもないが、その怒りにも似た苛立ちを男に向けたところでもう終わってしまったことであるので、飲み込むこととした。
 迫っ苦しいワンルームの我が家へと渋々男を招き入れてお茶を出しながら伝えれば、神妙にして頷く。出されたコップを見つめてどこか不服そうなのはそのコップがちゃちなプラスチック製であったからという訳でもないだろう。男は言っていた。生活に必要となる行動の全てを、と。恐らくお茶出しもしたかったという所であるのだろうと直ぐにわかったけれど、流石にいきなり任せる訳には行かない。この時点で男はまだ、客人であるのだから。

「そもそも」

 自分にもお茶を汲み一口飲んで唇を湿らす。そうでもしなければ、いつまでも、沈黙を作りそうであった。

「なんでおれなんだ。お前の周りには居ないのか」
「居る。だが、おれの信頼を任すのに値しない」

 まるで不遜。コートを脱ぎマフラーを取り払った男のほっそりとしながらも服の上からでもわかる筋肉質な体からは自分に対する絶対的な自信と、自立した男である大人の雰囲気が醸し出されている。コップへと伸ばされた手には物騒にも刺青が彫られており、よくよく見ればその刺青は文字のようであった。DEATH。刺青そのものが物騒であるのにそのような言葉を誰の目にも、自分自身の目にも入るような所に入れるその心理にはまるで理解が及ばぬが、理由を聞くにはまだ男の事を知らなすぎた。

「おれである理由にはならねぇよ」

 強気に刺青なんぞ刻み、態度も今まで出会ったSubの誰とも似つかわしくなく尊大。凡そSubには見えず、やはりまだ、少しの困惑が残る。だが本人がわざわざ申告するのだから本当なのだろうと、思うしかない。ならばやはりなぜ自分なのかと思わずには居られなかった。
 見るからにプライドが高いSubであるのならば、その態度に見合ったもっと強いDOMである方が男の欲求を満足に満たせてやれるだろう。
 謙遜でもなんでもなく純然たる事実として、己は極々普通の感性を持った、ただのDOMという性別を持っているだけに過ぎない男なのだから。

「お前しか居ないと思った。出会った時からそう思っていた」

 口に運んだコップがピクリと震える。
 自分は男と出会った時の事を正確には覚えていない。だが男は違うらしい。まるで大切な思い出を真綿に包み宝箱にそっとしまい込んでいたのだと言いたげな表情で、告げてくる。

「おれは、この性別の為に、それなりに、苦労してきた自覚がある。性格と全く合わないためだ」

 それには頷く。
 話し方ひとつ、まるで、どちらかと言えばDOMなのだから。

「こんな性格のくせに、それでもおれのSub性はどうやら、人より、強いらしい」
「そうは見えねぇが」
「そう見えないようにしてきた。苦労話のひとつだ」

 詳しく話すつもりは無いらしい。ただ自嘲する笑みは全てを語っていた。
 ダイナミクスの性別にも強弱があるという話は、その性別を持つものならば誰もが知る話であった。
 Sub性が弱ければそれこそちょっとしたお願いを聞き届けただけで、そしてそのお願いが上手に出来た事を褒められただけで嬉しく思う者が居れば、被虐的行動を伴わなければ満足がいかない者もいる。強い責めを受けなければならないだとか。
 DOMもまた同じだ。Subを散々いじめ抜き、時として人に話すにははばかられるような事をしなければ満足が出来ない者も居れば、ただお願いひとつをするだけで、そのお願いを叶えて貰うだけで満足する者もいる。

「強いってなら、あれか、いじめられたい、だとか、そういう方面になるのか?だがお前の申し出にはそういう意図は感じられなかったが」
「そうだな、おれはどちらかというと尽くしたいタイプのようだ。それこそ、なんだってしたい。医者という仕事に就いたのもその為なのかもしれないな」
「お前、医者なのか」

 そんな物騒な刺青をしていて、という言葉を飲み込みながら男を見れば寂しそうな顔をしていた。そう、顔見知り程度なので、この男の職業すら全く興味もなく、知らなかったのだ。聞いたかもしれないが、覚えていなかった。

「お前が、ゾロ屋が、おれに興味を持っていないのはわかっていた」

 言い当てられ、少しだけ気まずい思いをする。逸らしかけた視線を、それでも男の声が引き止めた。

「もっと、興味を持ってもらってからと思っていたんだ。だが……正直、もう……」
「……どれくらい寝ていない。その隈、一ヶ月やそこらじゃねぇな」
「慢性的なもんだ、寝不足も、体調不良も……騙し騙しで、生きてきた」

 ダイナミクスの性別を持って生まれてきた者は、その性別故に人生を翻弄される。言葉を選ばずに言えばその被虐性、または、加虐性を満たさなければ精神や体調面に不調をきたすのだ。
 まるでこの世から必要とされていない不安感や、疎外感。自己否定から食事を取ることもままならなくなり睡眠の質は下がり抑うつ状態に陥る。
 Sub性もDOM性も、弱ければすぐに満足するため大きな問題には発展しないが、強ければ強いほど満足するには時間も、そしてPlayの濃密度も必要となり、お互いに満足するパートナーと出会うのは、また、更に困難を極める。故に性別が強いものほど精神不安定を抱くものは多い。
 騙し騙しで、というほどだ。恐らくは、本当に満足したことなどなく、男の言う通り慢性的な睡眠障害を抱えてしまって生きてきたのだろう。恐らくは他にも根深い問題を抱えていそうであることは暗く俯く様子から伺えた。

「頼む。ゾロ屋……いきなりの事であるとわかっている。迷惑であるだろう事も、だが、一目見た時からお前しかもう居ないと思ってしまったんだ。もう、他に居ねぇんだ」
「……」

 まるで熱烈な告白を受けているように思えてしまう。それも当たらずとも遠からずであろう。
 ダイナミクスでお互いの欲求を満たし合う者達はパートナーと呼ばれるようになる。全てが全てそうではなく、多数の相手を持つ事もあるが、信頼を預けるというSubの特性上、SubにとってDOMはひとりだけを選ぶ事が多く、DOMもまた献身的なSubをひとり選び生涯のパートナーとなる事が通例であった。パートナーから恋人、そうなる例も少なくは無い。
 正直、弱った、というのが本音である。男の方は相当に参ってしまうほどらしいが己は自分の性別にさほど困ってはいなかったのだ。DOM性が弱いのだ。たまに、誰かに、お願いを聞いてもらう。そして褒めてその者が喜ぶ姿を見るだけで十分に満足してしまう性質であるからして、切迫した感情というのが理解できなかったのだ。であるのに目の前の男の熱量を当てられても、持て余してしまうのがせいぜいであることは想像に容易い。
 だが、やはりこれも性別故であろうか。
 目の前のSubが困り顔で弱り果て、どうにかお願いしますと言うように頭を下げる姿を見て、どうしても拒みきれない己も居た。思えばもうその時点で、行先は決まってしまったのかもしれない。決して後戻り出来ぬ道へのその切符を手にしてしまっていたのかもしれない。

「言ったように、いきなりは、無理だ」

 こつんと、ローテーブルを指先で叩く。ビクリと男の肩が揺れた。俯く姿が項垂れるそれに変わるのを見て、さらに言葉を重ねる。

「それに今日は予定もあるし、突然すぎる」
「……すまない」
「だから、今日は一度帰れ。また、ちゃんと話をしようじゃねぇか」

 その言葉に男が勢い良く顔を上げて、目をまん丸にして見つめてきた。言葉の端に添えられた希望を見逃さないように、縋り付いて無くしてしまわないようにとするような、勢いと必死さをその瞳の中に見つけてしまっては、自分で言ってしまった言葉をもう取り戻すことなど出来ないと腹を括るしかない。
 許容するようなため息まじりの吐息を吐いて、部屋の隅にあった充電器に繋がれたままのスマートフォンを手繰り寄せた。なにせ、顔見知り程度、己はこのローという男の連絡先も存じ上げてはいないのだ。

「まずは来る時は事前に連絡しろよ、なるべく空けるようにするから」
「あ、ああ……ああ!」

 いそいそとスマートフォンを取り出していくつか操作をする男を頬杖を着きながら眺める。物騒な刺青に、不遜な態度。しかしそのスマートフォンには愛らしいシロクマのステッカーがカバー越しに見えて内心微笑んでしまった。
 通話アプリを介して男の連絡先を交換し、まるで宝物のようにその画面を見やるその姿に、また、一つ声をかける。

「それとな」
「なんだ?」
「よく、話してくれたな」

 ダイナミクスは繊細な話だ。いつからかなんてのは分からないがそれでも目の下に隈を住まわせ、長い間悩んで来た男が、己のような交流もほとんど無い人間を、頼るのは勇気のいることだったに違いないだろう。なにが男の琴線に触れたのかわかりはしないがどうやらいたく気に入られたとしても、それでもやはり他人に違いは無い。自分で言うのもなんではあるが、人に気にいられるような容姿も性格もしていない自覚もある。それでもこの男は己を選び、そして心の内を話した。それは同じようにダイナミクスに翻弄される自分からしても、賞賛に値する。

「おれに、話してくれてありがとう、トラ男。これからよろしく頼む」

 今の段階で、自分がこの男にしてやれるのはそんな男の覚悟を認める事くらいだ。それでも男は驚きに目を見開かせたあと、うっとりと微笑みを浮かべた。
 嬉しくて仕方ないように。
 幸せであるのだと、言うように。





 忙しい職業故か、ローは連絡を滅多にはしてこない。それでも一週間に一度か、半月に一度の割合で週末の予定を尋ねてくるようになった。
 少し経てば週末にしか休みが取れないのかもしれないと感じるくらいにはなってきたので、己自身なるべくその日に予定は入れないようになったのは、自然の流れとも言える。
 いきなり全ては無理だと、初めに言ったように生活の全てをローに委ねる事はしなかった。
 どうにもPlayをするよりも日常的な事でDOMの世話を焼く方が効率よく心を満たせるらしいローは何でもすると言っていたのだけれど、なにせこちらは彼のことを何も知らぬので、どこからどこまでを任せたらいいのか判断が付かなかったのである。これならば普通にCommandを使ったPlayをした方がずっと過ごしやすいというところではあるのだけれど、これはローからストレスを取り除くための行為であるので、彼のストレスになるような事は避けねばならない。
 だから最初は極々簡単なことから始めてもらう事にした。それはちょっとした、お手伝いだ。掃除であるとか、洗濯物であるとか、家事のような事で、しかしなにぶん己は一人暮らしで狭いワンルームなので、そのような事はものの数分で片が付いてしまう。ひとつひとつ、終わる度に「ありがとう」「助かった」「よくしてくれている」と伝えると嬉しそうに、満足するような顔をするのだけれど、やはりどこか物足りない顔をしてくるので、そのうち、もう少ししてみるか、今度はこれもお願い出来るか、と頼み事を増やしていってしまった。
 ある時、昼食時に必要な買い出しを頼んでみた。財布を渡すのははばかられたので後で精算するということにし、お願いをしてみれば自分では到底手を出せそうもない材料を買ってきたので酷く驚いた事がある。どうやら金銭感覚というものがローと自分では違うらしい事にその時初めて気づいた。
 なまじ器用なもので、教えれば家事はなんでも出来たのだけれど、そもそもとして家事のひとつ、本当はほとんど自分では行っていないらしい。自宅には寝に帰る程度で、あとは民間のサービスを利用しているとの事で、ローとの生活習慣の違いに気付くのが遅れてしまった。
 普段、ロー自身の生活をする分にはどのような生き方をしようとも、金銭感覚が高水準であろうとも構いやしないが、己と過ごす時間だけはせめて合わせて欲しいと伝えると酷くしょげてしまった。失敗したと、思ったらしいローに、少し言いすぎたかもしれないと、一瞬だけ頭を過ぎったけれど、自分とローの関係性を考えるに甘い言葉を使う訳にはいかなかった。Subが間違いを犯した時、DOMはそれを正す責任が付きまとうのだ。間違いという程でもないと思われるかもしれないが、少なくとも精算する時に頭を悩ませる事を考えると正さなくてはならない。
 高いものでなくともいい、なんなら惣菜なんかでもいいし、カップ麺でもよい。あまり無駄にお金を使うことも無い。
 ローはどうにも飲み込みにくそうにしていたので、それから食事の買い出しには同行するようにした。ここのスーパーだとタイムセールがある、生鮮食品は商店街の方で、日用品は少し歩くが大型のドラッグストアなんぞで手に入る。そのような事を伝えれば、やはり根が器用で、おまけに頭も良いからだろう。すぐに覚えてしまった。指定された金額以内で買い物が出来たぞと伝えてきた日なんぞは己も思わず嬉しくなり褒めちぎってしまったほどである。
 褒めると殊更、ローはたいそう嬉しげにした。それはこちらが褒めすぎてしまったかと思ってしまうほどに喜色に瞳を緩ませるのだ。
 一週間に一度か、半月に一度程度しかローとは会わぬので、普段のローがどのような振る舞いをしているかなど正直知り及ぶところではないのだけれど、ハッキリとした物言いや驚くほど博識なその頭脳、医者でありたまに電話で仕事の話をしている時の姿や口調や適切な指示出しなんぞを見ていると、なんとなしにではあるがそう容易く感情を表には出さぬ男なのだろうとは察することは出来た。それこそがローが言うように彼自身の性格なのであろう。確かにどうにもSubらしからぬ振る舞いが多い。
 それでも、己と過ごす時は随分と甘い。そして褒めれば溶けるようにして表情を、堅苦しい雰囲気を和らげる。
 何でもしたいと言う言葉通りに、慣れて来た頃には朝から晩まで傍に居て、それこそ本当に何でもするようになった。家事全般も、それどころか、親が幼子にするような事まで。
 朝早くから行ってもよいか、モーニングコールと言うやつだ。なんて言われ、何時の起こして欲しいかとまで聞かれて、それならばと、合鍵を渡してしまって。
 気付けば朝のおはようから夜のお休みまで丸一日を、ローに任せる日が出来てしまった。それは本当に気付けばという程に徐々に、しかし確かに、深く深く根付いてしまっていたのだ。

 いつの間にか、一週間に一度の割合は、一週間に二度ほどの割合になっていた。

 このままでは、なにかが危うい気がする。
 己自身DOMであるので、ローと過ごす一日は随分と充実したものだ。正直に言えばもう、ほかのSubを必要としない程に、それどころかダイナミクス性の弱い己にとっては供給過多であると感じるほどに満たされ尽くしている。だからこそそのような危機感を抱いた頃に、思わずローへと言ってしまった事がある。

「余りにも、され過ぎている気が済んだよな」

 ひとつひとつのお願いや、率先してくれている事に対して、そのひとつひとつに、褒め言葉やたまに腕を伸ばして己より高い位置にある頭を撫でる行為。それで満足するローを見て、また、己も満足してしまっているのだけれど、やはりどうにも、され過ぎている。

「迷惑、なのは、わかっている……」
「そうじゃねぇよ」

 家事のほとんどを終わらせて、よく出来ましたと褒めてからベッドを背もたれに並んで座っているローへと告げたところで、しょげてしまった彼の頭を撫でくりまわし違うのだと首を横に振る。
 迷惑という感情もまた、いつの間にかどこかへと消えてしまい、ただあるのは漠然とした危機感。その危機感の正体を掴めぬままに言葉を続ける。

「ただ、なんつーか。これで満足してるってのはわかってんだけどよ。このままじゃおれの方が駄目になっちまいそうだ」

 それは抱く危機感に近いが本質を捉えては居ない。だがきっと少し、そう、自分は持て余してはいるのだとは、感じている。週に一度や半月に一度程度であったのが、いつの間にか一週間に二度ほどの割合になってきて、その日一日、または半日、あるいは夜にやって来てからの数時間。そんな短い時間でもやって来るローに、全て委ねてしまっている。そういうPlayであるのは確かだが、持て余している。され過ぎているし、し過ぎているのだ、と。
 言葉拙くも、そのように感じているのだと包み隠さずに伝えればローは神妙な顔をして顎に指を引っ掛け考え込んだ。その姿は己ではあまり見ぬが、きっとローという男の平素の姿なのだろう。蕩けた表情よりもずっと男らしい顔に、暫し魅入っていると何かを思いついたらしいローが目を合わせてきた。

「言うようにおれは今までの人生でも有り得なかった程に満足している」

 それには大きく頷いた。ローの表情は初めてこの家にやってきたときよりもずっと血色も良くなっているのだから。普段会わない時こそSubに見られないように、ともすればDOMであると思わせるような行動をしている為にすぐにストレスは溜まるようであるが、それを差し引いてもずっと健康的になってきている。目の下の隈もだいぶとそのなりを潜めていた。

「だがゾロ屋に合わないやり方であるというのならば、少し、やり方を変えようと思う」
「ああ?だが、どうすんだ?今のやり方が一番トラ男に適してんだろ?変えたら変えたでまた同じようにストレス溜めるんじゃないのか?」
「変えると言ってもおれではなく、お前だ、ゾロ屋」
「おれ?」

 ローの意図がわからず、思わず首を傾げてしまう。

「そうだ。おれの行動ひとつひとつにゾロ屋はいつも答えてくれているだろう。おれはそれをとても嬉しく思っている。お陰で満足しているし正直、元の生活には、戻りたくない」
「おう」
「だけど、それがゾロ屋にとってされ過ぎているだとか、し過ぎているのだと感じ供給過多だと思っているのならば、逆にゾロ屋のストレスになる。これはおれが始めたことで、ゾロ屋はおれの為にしてくれているわけだが、ゾロ屋のストレスになるは間違いだ」

 なるほど、と今度は小さく頷いた。確かに今はまだなんの不調もありはしないが、もしこのまま漠然とした危機感を抱き続けていたらいつか自分の方がなにかしらのストレスを抱え込み生活に支障をきすことになりかねないだろう。
 最初はローの為ばかりで、そしてローもまた自分のことに精一杯で他に考える事が出来なかったが、ストレスがだいぶと軽減されたためだろう。余裕を持った考えを持てるようになったらしいことにそこはかとなく嬉しく思う。

「おれのために何か考えてくれたんだな?ありがとう」
「んんっ……それだ」
「あ?」

 ありがとうと言ったその瞬間こそ綻び表情を緩めたが、すぐに咳払いをして強い眼差しを向けてきた。

「それ?」
「ひとつひとつ、褒めてくれるだろう。その度におれは……その、嬉しくなるが、ゾロ屋はそれがきっと供給過多に繋がっている」
「……なるほど?」
「だから、試しにだがその褒める頻度を下げてみてはどうだろうか」
「下げる?そりゃ、お前はいいのか?」
「いいかどうかを試すんだ。上手くいけばそれでよし、駄目なら他の方法を考える。おれは一日をゾロ屋と共に過ごし、だけどゾロ屋はおれの行動その全てに対して気持ちを返さなくていい。ただ、一日の終わりに、一度、褒めて欲しい」

 小分けの褒美を、一度にまとめる。ということだろう。確かにそれはお互いにとって大したデメリットは無いように思う。ローは一日の最後に必ずご褒美があるとわかっているから今までの行動に大してその全てに褒め言葉がなくともやって行けるだろう。そして己もまた、ひとつひとつにご褒美を与えずたった一度にしてしまうので供給過多になることも無い。いい案だと思った。

「それと、もう一つ、試して欲しい」
「ん、なんだ?」

 心の中で何度か頷いていると、ローがおずおずと言い出した。
 生活に必要となる行動の全てをさせてほしい。したい。そう願うだけのローが、して欲しいと言った。それを無視するほどもう男に対して情がない訳では無い。なんであろうと聞き入れてみようと首を傾げると少し言いにくそうにしながらも、ローは伝えてくる。

「Commandを……一日の最後に、使ってみてはくれないか」
「っいい、のか……?」

 ローと過ごす日を何度重ねても、実はCommandを使ったPlayはした事がなかった。ロー自身がその方が効率が良いと言っていたためでもあるが、そこはかとなくCommandを使用したPlayを忌避している様でもあったためだ。言葉にされたことはないのだけれど、雰囲気というものであろうか、Commandを使われることをどうにも避けているようであったのだ。それはやはり、彼の性格上の問題であるのかもしれないし、もしかしたら、そのようになってしまうなにかが彼の過去にあるのかもしれない。踏み込みすぎる話題故に己からも提案した事はなく寧ろなるべく話題にはしないようにしていた話を、まさかこの時ローの方からされるとは思ってもみなかった。
 確かめるように呟き、ローの顔を伺い見ると、思いのほか強い眼差しが帰ってきた。覚悟を決めたというようなその目には、寧ろ実は望んでいたのではないかと思わせるものも潜んでいる。

「良い」

 頷く男に、されどもう一度、問いかける。

「いいのか?本当に?だってお前、避けてたろ」
「そうだな。あまりいい思いをしたことはないのは事実だ。だけど、ゾロ屋になら、いい」

 Commandを使用したPlayともなるとそれは本当にSubがDOMに対して信頼を預けることを意味する。実際にPlayが始まればSubは基本的にそのCommandに従わざるを得なくなってしまうからだ。
 自分にとって嫌なことを明確に口にして、そしてその嫌なことを絶対にしないと約束し、守ってくれるDOMでなければ、Subにとっては苦痛の時間が始まってしまうだけであるので、SubがPlayを許可するのは相当な覚悟が必要になってくる。その覚悟を決め、信頼に値すると、認められた。
 ふわりと、体を包み込める温かさを覚える。
 喜びであり、嬉しさだ。
 ローが来た時は随分と迷い、手に余ると思ってしまっていたというのに、現金な事にも男からの信頼を向けられたと思うや否や、嬉しく思ってしまったのだ。
 だから、頷いた。構わないと。それを望むのなら、と。
 決して戻れぬその道へ、軽率にもまた進んでしまった。
 そう気づいたところでやはりもう、遅かったのだ。





 使うCommandは少なく、セーフワードは『ロロノア』。ローはゾロ屋と呼ぶため苗字とは良い案だと思った。
 生活に関わる全て、その範囲というのはどこまでを言うのだろうか。
 朝やって来て朝食を作りながら洗濯物を回し、そして着替えを用意してから起こしに来るローを見るようになってからその考えは段々と麻痺するように薄らいでいく。最初こそ戸惑いもしたけれど慣れとは恐ろしいもので誰かに見られるわけでもあるまいと、甘受し続けて居たらとうとう食事を口に運ばれるまでになってしまった。まるで介護だとボヤいた事もあるけれど結局は好きにさせてしまっている。なんせ世話を焼くローが、酷く楽しげで幸せそうであったから、どうにも今、それを止めさせるという選択肢を取りにくくさせたのだ。
 ローの行動一つ一つ、以前は褒め言葉を添えながら礼を言っていたのだがCommandを使うと決めた時からは礼のみに留めるようになった。初めはどうにも違和感が、恐らくDOMとしての本能が、居心地の悪さを作り出していたが繰り返す毎にその違和感は徐々に薄れ、寧ろ快適なリズムを作り出していった。それはローと同じく、一日の終わりにこそ自分たちの本当の関係が現れる事を確約していたからかもしれない。
 一日中ローの世話となった夜。帰宅する時間が迫る頃、ローはソワソワと落ち着かなくなる。風呂も終えて己のベッドへと腰掛けるとそれがローにとっては合図のようなものでよりソワソワとするものだから苦笑し、手招きする。

「トラ男、Come」

 おいでと、告げたその途端に、ローは蕾だった花が一気に花弁を開き芳醇な香りを漂わせるような表情を浮かべ、直ぐに近寄って来た。期待に瞳を輝かせて正面に立ち、次の言葉を待つように真っ直ぐに見つめてくるので、その様子がどうにも、愛らしく映ってしまう。

「Kneel」

 続けて言ったCommandは所謂「お座り」だ。己よりもずっと背の高い男が、そして随分と顔立ちの良い男が、僅かに開いた足の間にペタリと座り込んでしまう姿といえばなんというのであろうか、背徳的とでも、言えばいいのだろうか。ローにそのような事をして良いのかという戸惑いを感じながらも、毎度その姿を見る度に感じるどうしようも無い多幸感を否定し切れない。DOM性が弱いと言えど、されどDOMであるのだと、自覚せずにはいられない瞬間である。
 潤み頬を高揚に染め上げたローを見て、少しだけ癖のある髪の毛に両の手を差し入れ指で軽く梳きながら、今日一日の事を思い返す。

「朝からよくやってくれていたな。ありがとう。飯、美味かった。味噌汁も上手く作れるようになってきたじゃねぇか」

 料理もほとんどして来なかったと言う。故に最初は味が濃すぎたり薄かったりとその日により随分と落差があったのだけれど、ようやっと最近では手慣れてきたようで、なんなら己よりもずっと己好みにしてくれるようになった。

「洗濯物も大変だったろ?でも天気がいいからって布団まで干して、今日はよく眠れそうだ」

 確か次の週は雨が降るという予想だった。その前に干してしまおうと張り切って布団を干して、取り込む時にはフワフワになったぞと楽しげにしていたのだ。

「それに夕食、わざわざおれ好みの店を探してくれたんだよな?美味かった。あの店は気に入った」

 たまにローは夕食を外でと、連れ出す事がある。どんな店かはその日その時が来るまでわからないが、いつだってとことんリサーチしてから誘うようにしているらしい。やたらとお上品なお店で堅苦しいもののそれに見合った酒や料理が提供されるようなレストランである時もあれば、あちらこちらで酔っぱらいの笑い声が響くような、大衆居酒屋であるときもある。またはひっそりと人に忘れたかのような場所にある隠れ家のようなバーであったり、よく知っているものだと、感心するほどに他者多様な店へと、連れて行かれては舌鼓を打った。あまりにもされすぎていると感じる所以のひとつであり、あまり無理しなくて良いと言うのだけれど、ローはこれも楽しみの一つであるのだからと譲りはしなかった。

「今日も一日、ありがとうな」
「んっ……」

 指の間に髪の毛を絡ませて梳くようにして、頭を撫でると。鼻から抜けるような甘い吐息がローから漏れる。床に付かれていた腕がゆるりと持ち上がり、そわそわと脚に添えられ、ズボンの上から筋肉の筋を撫でるようにして指先が滑った。こそばゆいと、感じて居るとその手は徐々に上へ上へと向かって、太ももを通る。すりっと、ローの体が浮いて、腕が腰へと回されると同時に腹に男の顔が埋まった。

「ぞろや……」
「……」

 ただ褒めるだけだった日々にはなかった行動だ。Commandを使うようになってからそのようにするようになってしまった。幼子が甘えるようにと言えばその通りである。Subが自身の信頼を預け頼るものに見せる甘えというのであれば可愛いとすら思えた。

 それだけならば、ただ、これがSubの姿のひとつであるのだろうと、思うだけで流せた。

「ぞろや、ぞろや」

 ハア、と腹の奥底から熱い吐息を吐き出す。
 グズるように額を腹にこすり付け、腰に回された手が、背骨を沿うようにして、撫でる。

「っ」

 褒められると、Subは多幸感に包まれる。そして、それは場合によっては性的興奮を、呼び出す。パートナーがそのまま恋人関係になる理由のひとつだ。DOMもまた、Subのそのような行動に、献身的な姿に胸を打たれる。
 だけれども、己は違った。如何にローという男の行動が、喜びに溢れる姿が、表情が、愛らしく写ってもそれは己がDOMでローがSubであるから感じるものであると理解しているので、ローがどんなに心の内を、醸し出そうとも、応える事は出来ない。

「ゾロ、屋」

 ぴとりと腹にくっついていた男の体がより近づく。上半身はほとんど胸元と胸元が重ねられる程になってしまい、必然的に男の顔が己に近づく。吐息が顔に掛かる程の至近距離で、瞳の奥にある訴えが言葉にされなくともよく見えてしまった。
 Commandを使うようになって、少ししてからローはそのように近づくようになった。訴えて、訴えて、でも、応えることは出来ない。

「STOP」

 近づく顔に、己でも無情だと思うほど低い声が出る。ピタリと顔が止まり、代わりに低い唸り声が喉元からせり上ったようだ。グルルと獣のような声が、不服を訴える。

「駄目だと、言った筈だぞ、おれは。またお仕置されてぇか」

 以前、STOPの声を掛けても明確な意志を持った手が止まることを知らぬように服の隙間から肌を撫でたことがあった。肌が粟立ち毛が逆だった感覚は今も覚えている。嫌悪感とも、言い知れぬ、今まで感じた事もない感覚であったとも言えるがその時は拒絶をする事しか出来ずに、そしてSTOPの言葉を聞かぬ男への苛立ちもあり、初めて「Corner」のCommandを使ったのだ。三分、壁へ向かえと。
 余程ショックだったのだろう。顔を真っ青にしながらも男は壁に向かって正座をした。震える肩が余程のストレスを感じていることはわかったが許す訳には、いかなかった。
 その後はcareとしてめいいっぱい褒めて慰めたものだが、二度とするなという約束だけはさせたのだ。しかし、男はどうにも、その手を止めることが出来ないらしい。
 何度目ともなるSTOPを、男もそれこそ何度も聞いたであろうに、それでも時折男は手を忍ばせ顔を寄せ、唇を近付けようとする。

「お仕置は、嫌だ」
「なら聞き分けろ。次は五分だぞ」
「っゾロ屋!」
「トラ男、駄目だ」

 ぐるっとひとつ鳴いて。諦めた男は顔を肩口へと押し付ける。ひとまず、言うことを聞いたことを褒めるために頭を撫でて「Goodboy」と囁いた。気休めでしかないことは男も、そして、己自身自覚している。
 はじめは、その距離だって許しては居なかった。ただ男がどうしようもなく弱り果ててしまうので、少しづつ少しづつ、許してしまったのだ。その一連の流れはまさにこのパートナーのような関係が始まった頃とよく似ている。
 だからこそ、漠然とした危機感が今でははっきりとしたものとして心に巣食うようになった。このままでは、ダメになる、と。

 最初は簡単な事から。それから徐々にやる事を増やし、そしてとうとう合鍵まで渡して。
 家の事のみならず、己の事も、朝の起床から食事、湯浴みや、睡眠までも、任せて。
 男は確かに己の生活に入り込んでしまった。それはいつの間にかという程に自然に、時間を掛けて、許すべきでは無いことまで許して。
 だからこそ本当はそろそろ、ハッキリとした線引きをするべきであろうとは重々承知なのだ。だけれども、男の捨てられた子犬のような、または凍てついた氷のような姿を思い出させるように不安げな表情を見せてくるのだから、どうにも、拒みきれないのである。
 抱きしめる腕だって許しては居なかった。顔を肩に埋めることだって。でも、いつからか許してしまっていて、だからこその危機感。いずれは今STOPと声をかけているその行為すら、許してしまいそうで。
 そうなるとその次がやってくる。分からぬほどに初心なつもりも無いために容易に想像出来てしまう。だからこその、危機感。

 どうしたものか。いずれはちゃんと話し合わなければならない。
 そう思うのにどうにもその、話す時を見誤って、今に至る。  
 毎度のように褒めるのではなく、一日に一度というそのリズムが、快適であるのは確かなのだが、危機感をも伴っているのは理解している。それでも、今の今まで流してきてしまった。

 肩から除く素肌に、唇が寄せられるのを、感じた。
 それを拒むべきだとわかりながら、それ見た事かと言うように、己の口からは「STOP」の声がかからない。

 どうしたものか。どうしようもない熱量の違いをはたしてどう理解してもらおうか。
 そう考えながらも今日もまた男の背中を見送るのだろう。
 確かな話もできずに、ただ男に絆されるだろう次の来訪を待ってしまう。

 DOMは支配をし、Subは支配を受ける側。だというのにこれでは、まるで。

 支配者は果たして、どちらか。

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