サヴァイバーズ・バンケット/恋とはどんなものかしら
【恋とはどんなものかしら】
藍信一の恋は夜闇に打ち上げられる花火のようなものだ、と女たちはみな言う。この先の人生がどんなに退屈で地獄のように平凡な暗闇だとしても、目を閉じればまぶたの裏に残像のようにあざやかな閃光と轟音をともない夜空に大輪の花が咲くように、藍信一に愛されたほんの一瞬の輝くような日々のことを思い出すだけでどんな辛いことにも耐えられる。藍信一にひととき愛された記憶は最も大切な宝物だと女たちは言う。人生で一番の恋、一番の恋人だったと。
【サヴァイバーズ・バンケット】
九龍城砦が解体されたあと、虎組は正式に解散した。組長は飲食店を経営する会社を設立し株式を取得し上場して、「これからはカタギになる。黒社会にいたいならほかの組へゆけ。お前たちもお天道様に顔向けできる、真っ当な仕事をしろ」と宣言した。すべての組員を一旦放逐したものの、だがほとんどの組員が会社に残った。十二少(かつて十二少と呼ばれた男も)も例外ではない。というより、十二少が率先して「兄貴がカタギになるなら俺もそうする。俺を追い出そうったってそうはいかない」と涙ながらに訴え会社に残ったので残りの組員も若頭に右へ倣えとほとんどが黒社会の構成員から足を洗ったのだ。ほかの組に移ったものはいなかったらしい。アホくさい、とんだ茶番だ、と四仔(かつて四仔と呼ばれた男)は言う。看板が変わっただけでやってることは黒社会だった頃の神農とそう変わらない。「どう違うんだよ」と四仔が問えば、「税金を払ってる」と十二少は答えた。「それが肝心なことなんだ」
四仔は町医者を続け、洛軍は理容店を開業した。もっとも予想できない道を選んだのは信一だ。なんとカラオケ店で歌っているところを芸能界にスカウトされたのだ。あの不安定な音程でか、とそれを聞いた四仔も十二少も(口には出さないが実は洛軍も)スカウトマンのあまりの蛮勇に戦慄したものだ。だが翌年リリースされたデビュー曲で信一は別人のような美声を響かせて三人の度肝を抜いた。ボイストレーニングに通っていたこと、「経理の学校の方がよっぽど楽だった」と毎日のように愚痴をこぼしていたことは三人とも知っていたが、「それにしてもトレーニングで治るわけないだろ、あの音痴が」と確信していたのだ。「やればできるもんだなあ、大したもんだ」と信一本人ではなくトレーナーの努力を四仔は讃えた。その甲斐あってか、その年は香港のどこへ行っても信一の歌う悲しい恋の歌が流れていた。十二少もひそかに従業員に自分の店で信一のアルバムをBGMに流すよう全店舗に指示していたらしい。その甲斐あってか、その年の新人賞を総なめにして、翌年は映画デビューを果たし、あっという間に信一は香港芸能界のスターダムを駆け上がった。そして今に至る。
★
たまに電話はしていたものの、忙しすぎて実際に会うのは半年ぶりだ。だけど今日だけは、何があっても四人で集まることにしている。もう何年も。
毎年、一番に来た、と思うのに必ず先を越されている。墓前に供えられた赤いソフトパッケージの煙草の箱を見て信一は思う。毎年誰かが先に墓参りを済ませている。誰なのかは知らない。たくさんの人に慕われていた人だから。同じ煙草をポケットから取り出し、封を切って咥え、火をつける。一口吸ってから線香立てに立てる。手を合わせて、目を閉じる。背後に人の気配がしたが、構わず黙祷を続ける。隣に誰か並んだのがわかった。強い芳香がして信一は目を開ける。目に沁みるような清冽な白い百合の花束が、十二少の手により無造作に墓前に供えられた。酒も煙草もやらない男のお供えものも毎年変わらない。花、白い花。信一は新しく自分の煙草に火をつけて振り返る。憎らしいほどよく晴れている。今日は彼が死んだ日だというのに。
【恋とはどんなものかしら】
信一が九龍城砦の出身であること、黒社会の構成員であったらしいことは当の本人が別段隠し立てもせずあけすけに話していたので特に悪い噂になることはなかった。指がないのも抗争で失ったのだと最初からインタビューで語っていた。けれども
「僕の指を切り落としたのは敵対する組織のボスで、気功使いの達人で、真っ赤に焼けた炭を飲み込むような奴だったんですよ。皮膚も鋼鉄のように硬くて刃物も弾丸も跳ね返すので、四人がかりで折れた刃を飲ませて内側から腹を破ってようやく倒したんです」
なんて大ボラを吹くものだからそんな冗談は誰も信じていない。おおかたバイクの事故で失ったか、工場に勤めていたときに旋盤の操作を誤って落としてしまったのだろうともっぱらの噂だった。たぐいまれな指のない明星はだが、指が十本あるどんな男より優雅な仕草で煙草に火をつけ、髪をかきあげ、女の頬に手を添えた。トレードマークとなった切断された指にはめた黒い革の手袋を外す瞬間はエロティックですらあり、いつしかそれは信一の主演映画に欠かすことのできない一番の見せ場になった。アクション映画で敵を前にゆっくりと手袋を外す、あるいはロマンス映画でヒロインに初めてキスをするとき手袋を外す、陰謀に巻き込まれた敏腕スパイが銃を撃つとき手袋を外す、そして指のない手を見せる。スクリーンで満を持してそのシーンになると劇場には拍手と口笛と歓声とつんざくような悲鳴が上がったという。
歌や演技と同じくらい人々の興味を惹いたのは信一の華麗な恋愛遍歴だ。デビュー曲を作詞した二十も年の離れた女流詩人との恋は二人の年齢差や当時詩人には内縁の夫がいたことなどあまりにスキャンダラスで芸能ゴシップ誌を大いに賑わせた。それを皮切りに信一は以後さまざまな女性と浮き名を流すことになる。共演した女優や歌手、モデル、季節が変わるたびに藍信一の新しい恋は香港の風物詩になった。今の恋人が何番目の、何十番目の恋なのか誰もが数えるのを忘れた頃、最初の恋人が再び人々の話題を攫った。数年の闘病の末に亡くなったのだ。
翌年発表された詩人の最後の手記に信一の名前があった。闘病中であることを公表したその翌日に、はるか昔に別れた恋人の名前で病室に一輪の白い花が届いたのだという。翌日も、その翌日も、その次の日も一輪の白い百合は届けられた。一週間が一月になり、半月になり、一年になっても花は毎日病室に届いた。信一が海外ロケに行っていて香港にいない間も、ツアーに出ている間も花は欠かさず届いた。十年も前に別れた恋人からの贈り物は、詩人の命が尽きるその日まで続いたという。
『信一から届く花が病床での毎日のほとんど唯一の楽しみだった。わたしが死ぬその日までこの花が届くと思えば、死ぬのが少しも怖くない。信一がわたしにくれたのは花だけではない。彼はわたしから、死への恐怖を優しく奪ってくれたのだ。』
そう締めくくられた手記は発表されるや否や香港中の涙を搾り取った。それは人々が求めていた、あまりに美しい物語だった。なにより人々の心を打ったのは、信一と詩人がとうの昔に恋愛関係にはないということ、にもかかわらず彼が死の間際まで彼女に尽くしたというその一点であった。星の数ほどいる別れた恋人たちに信一を悪く言う者はいない。だがそれは、「よほど別れ方が綺麗なのだろう。うまく手を切るものだ」と思われていたのだ。だがそうではない、と香港人たちは思い知った。信一は女たちと別れたあとも、彼女たちがこの世界から退場するその日まで、ずっと恋人たちのことを想い続けているのだからだ、とわかったのだ。信一が死への恐怖を奪ったのは詩人だけではない。すべての別れた恋人たちも同様に、死せるその日まで信一が自分を思っていてくれる、そう思えば死ぬのは少しも怖くない、そう思ったからだ。
【サヴァイバーズ・バンケット】
「今年もすげえよ、寄付金の額。過去最高だ」
龍捲風(かつて龍捲風と呼ばれた男)の墓前で十二少が信一に書類を渡す。ざっと目を通して信一は小さく頷く。それは信一と十二少がひそかに資金を援助している慈善団体の収支報告書だった。性暴力の被害者、ドメスティックバイオレンスの被害者たちを保護するシェルターを運営する団体の代表は燕芬姐(かつて燕芬姐と呼ばれた女)だった。魚蛋妹(かつて魚蛋妹と呼ばれた女)の死んだ母親の名前を冠したその団体は設立当初は「黒社会の汚い金なんかいらない」と二人の援助を拒んだ。十二少がカタギの会社の代表となり信一が芸能界に入ってようやく援助を許されたのだ。「加害者をボコボコにするよりマシなことしてるよ」と彼女は言った。
信一が目を通した十二少が手渡した収支報告には、二人からの援助とは別に今日の日付で多額の寄付金が記されていた。何十人いるか数えないとわからない振り込み人は、だがすべて同じ名前だ。藍信一。寄付をしたのは、すべて彼のファンたちだった。
デビューから何年か経ち、信一が歌番組の生放送で司会者に断り、カメラに向かってこう言ったことがあった。
「ご存知ないと思いますが、もうすぐ僕の誕生日です。……ありがとうございます。毎年、ありがたいことにファンの皆様から事務所にたくさんの贈り物をいただきます。……ええ、そうです、本当に、トラックが何台も連なって配達してくれて、事務所に置く場もなく、倉庫を借りて保管させてもらってるんです。本当にありがたいことです。ですが、あまりにたくさんで、僕自身がみなさんからの贈り物を使い切る頃には来年の誕生日が来てしまう。なので僕からファンの皆さんに提案があります。今年もまた、僕の誕生日に贈り物をしてくださるおつもりでしたら、どうかそのお金を、この藍信一の名前で慈善団体に寄付していただけませんか?皆さんのおかげで、さまざまな団体から僕に寄付の報告をいただけるでしょう。それを見ながら誕生日を過ごせるなら、これほど幸せな誕生日はない、と思います」
長い前髪をかき上げ、きらきらと星を浮かべた瞳をしてそんなことをカメラ越しに切々と訴えるものだから、信一の誕生日のために一年間なけなしの小遣いを貯めていた少女たちがその金をこぞって寄付することとなった。少女たちだけではない。まずマカオのカジノ王の娘が、親のない子のための奨学金制度を設立し藍信一の名前をつけた。張り合うように大手出版社の社長が貧困地区のすべての小学校に百科事典と世界名作全集を藍信一文庫と名付け寄付した。共演の経験のあるアニタ・ムイが行ったチャリティコンサートはテレビ中継もされその年最高の視聴率を稼いだ。藍信一の誕生日は、香港のすべて慈善団体がもっとも潤う日になったのだ。
「すげーよな」
依頼人の欄に信一の名前が延々とならぶ通帳のコピーを眺めながら十二少が感に堪えない、というような口調で言う。
「お前みたいな嘘つき、見たことねえよ」
信一はただ黙って微笑むばかりで、十二少の言葉を否定も肯定もしない。
信一は孤児で、自分の誕生日を知らない。デビュー前に事務所に言われてプロフィールをでっち上げた。名前も本名ではないし、誕生日も「適当に好きな日にしなさい」と言われそうした。信一が自分の誕生日だと言っている日は誕生日ではない。信一の誕生日は、龍捲風の命日だ。
「誕生日おめでとう」
十二少が皮肉っぽく笑いながら言う。信一もまた片方の唇を吊り上げ、墓前に顔を向ける。
「……褒めてくれるかな、兄貴」
ちいさなつぶやきを、十二少は聞こえないふりをする。この男は、あのひとに褒めてもらいたくてやったのだ。あのひとの命日を、どんな日より美しい日にしたくて、すべての人たちから祝福される日にしたくて、行き場のない人たち、助けを求める人たちのために生きたあの人のための日にしたくてやったのだ。そういう男だ、と十二少は長年の付き合いでそれを知っている。この男は、あのひとのために、今でもそのためだけに生きているのだ。
【恋とはどんなものかしら】
信一の恋人たちはみな口をそろえて言う。信一と付き合ったあの短い日々が、自分の人生でもっとも美しい瞬間であったと。
真夜中にホテルの部屋を抜け出して、クローズしたあとの真っ暗なプールに忍び込んで二人で裸で泳いだの。
わたしが女友達と飲んだあと、迎えに来てくれるとき、いつもお土産にって友達みんなのぶんのチョコレートを買ってきてくれたのよ。
雨の日は必ず会いに来てくれた。わたしが雨が嫌いなことを知っていたの。
二人で歩いていて、猫を見つけたら呼び寄せて必ずわたしに抱かせてくれた。あの人、猫に好かれるのがとても上手だった。
いつも甘いものを用意してくれたのよ。わたしの好きなものばかり、いつも。
死ぬまで毎日、病室に花を贈ってくれたの。
十二少だけは知っている。信一がたくさんの恋人たちにしてやったことのすべては、本当は、ただ一人の男のためにしてやりたかったことのすべてなのだと。だから女たちはみな信一を愛した。ほんの一瞬、この男から命懸けで愛されたような、まばゆい錯覚を覚えることができたから。
(いや、……二人、かな)
墓場の長い階段を登ってくる洛軍の姿が見える。信一が指のない手をひらひらと振ると洛軍が足を止めて手を振り返している。自分も手を振りながら十二少はそっと信一の横顔を盗み見る。微笑んでいる。まるで恋してるみたいに。
もうすぐ四仔も到着するだろう。四人揃えばやることは決まっている。麻雀だ。それだけは変わらない。どんなに変わったように見えても、それだけは。
龍捲風の命日は、藍信一の誕生日は、そうやって過ごす。何十年も、ずっと。
powered by 小説執筆ツール「arei」
1846 回読まれています