クリスマスツリー



「車で来たら良かったです……。」
「なに言ってんだ、今更。」
項垂れている譲介の横で、徹郎はいい具合にぬるくなった酒を飲み干した。
目の前には宵闇のとばりが下りた中、光輝くクリスマスツリーが見える。
寒空の下、頬を切る冷たい風の吹くような場所であれば、もう少しマシなムードがあったかと思うが、譲介と徹郎の前には、スターウォーズに出て来るヨーダの顔がでかでかと描かれたTシャツを着て歩くオタク青年や、何を買ったのか、黒いビニール袋を提げて微笑み合う男女、周りは全て書割とばかりにキスし合うカップルが行き交う無法地帯――クリスマスじゃなくとも、年がら年中この街の至る所で見かける風景――があるばかりだ。
まあ、人のことは笑えないだろう。徹郎も、ここに着いたばかりのタイミングで、暖かな出汁の匂いに誘われて、韓国直輸入となぜか漢字で書かれた幟の下で買ったおでんの練り物を譲介と並んでつつき合っていた。最近ゾンビ映画で名を馳せた釜山は、どうやらここサンフランシスコの姉妹都市らしい。
酒を買ったのは、その後のことだ。ワインとビールをちゃんぽんした酒を、冷めないうちにすっかり飲み切ってしまった譲介は、その酒の力を借りて「これ、うちのツリーの飾りつけにいいですよね。」と言って、何が気に入ったのか、丸くて赤いオーナメントをひとつ買って、そのままポケットに仕舞ってしまった。
もし、十代前半だった頃の自分――分別盛りとは到底言えないような年代だった頃のことだ――が、誰かの心臓めいた色をしたそのボールをいくつか手にしていようものなら、その辺りにいるカップルに無差別に投げつけて、多大な顰蹙を買っていただろう。
財布の紐を一度緩めてしまえば後は気楽になってしまうのか、譲介は、そのオーナメントを買ったことを皮切りに、突発的な物欲が生まれてしまったようだった。
年下の男は、飲酒で赤らめた頬をして居並ぶ店を物色し、堰を切ったように買い物を始めてしまった。あのタイミングで諫めるべきだったか、と自分の胸に問い直してはみたが、答えは否だ。
誰が使うのか分からねえようなミトンや鍋敷きだのに加えてのクリスマス飾り。正月を過ぎたらゴミになりそうなものまで、成人の男が持つには小さな買い物かごに浮かれ調子でぽいぽいと放り込んでいる様子は、見ていて小気味良かった。
好きに買い物をして来いと言ってクリスマスの只中に譲介ひとりを放しても良かったが、そもそも、空手でいればすぐに手をつなぎたがる男と買い物をするには、どちらかといえば飲み物片手の方が都合がいいことに気付いてそのままついていくことにしたのだった。
「徹郎さん、あっちにも行きましょう、こちらのテントも。」
そう言って引き回された先で、これはいい、あれもいい、と見比べていたが、それは単なるウォーミングアップだったようで、一通りのところを見て回ると、次は実際に財布を取り出した。普段の仕事のストレスが、そのまま物欲に直結したと言う様子で、徐々に手首に掛けられる荷物が増えて行く様子を眺めた。
最終的に、家に戻れば足元にある袋の中身を整理してしまうまでに、たっぷり一時間は掛かるだろうという土産の山を前にして、徹郎は苦笑した。
「まあ、置いておけねえってのがありゃ、また家の前に『TAKE FREE』っつって書いて出しとけや。」
誰かが適当に持っていってくれんだろ、と言うと、譲介は「家に戻って開封する前からそんなこと言わないでください。」と世にも情けない声を出した。



譲介が通勤に使ってる道沿いにあるファーマーズマーケットの駐車場の一角にクリスマス市が出来たのは、十二月に入って暫くした火曜日のことだった。
駐車場が狭くなってる、とぼやきながら空きスペースを探す譲介に「どこでもいいから適当に停めちまえ。」とツッコミをした記憶がある。
まあ、普段は分不相応に広大な、地平線が見えるほどの広大な駐車場だ。
奥に行けば空き地はあるが、そこまでの買い物を運ぶ面倒を考えると少しでも近い場所に泊めたいと思うのは人情だろう。
結婚の後に手入れが面倒な戸建に引っ越した後で使うようになった店で、初めて見た時は、流石はアメリカ、とふたりでしきりに感心していたが、こんな風に年に一度のデカい祭りで占拠されてしまうのなら必要な広さだったと思える。
譲介はクエイドの地下にある広大な駐車場を普段遣いしているので、バックでの駐車も慣れたものだが、スーパーは子どもいるから普段よりもっと気を付けないと、と言って難しい顔をしながらハンドルを切っていた。
大体、駐車スペースがマーケットの入口から遠くなるのも不便だが、まあ商業主義とイベントごとは抱き合わせになるのが世の習いというやつだ。こんなもんは、面白がった方が勝ちだぜ、と車を降り、急ごしらえの吹きさらしのテントや、休憩所となっているテーブルと椅子が置かれた場所を横切った。
テントを数えれば、ひ、ふ、み、よ、と続いて片手に余る数が立っていて、食い物の屋台が多いのか、妙にいい匂いが漂って来る。
腹が減って来た、と思いながら普段のように中に入って買い物に行って、帰りにショートカットのために素通りしようとしたとある屋台の前で、譲介は足を止めた。
理由は聞かなくとも分かった。
隣の屋台から漂う強い揚げ物の匂いと一緒に、暖めたワインの芳香が、ふわりと風に乗って鼻先に香って来たのだ。
普段の譲介は、どちらかと言えば赤より白を好むので、時折の晩酌に付き合って飲んでいるうちに、徹郎の方でもワインは白の方に馴染みが出来たものの、燗をつけてまで飲もうと言う気はない。ホットワインといえば、オレンジやシナモンスティックを入れた赤の方が見栄えがいいが、この屋台は白でなければならない理由があった。
半分ビールを満たしたジョッキに、柄杓で掬ったホットワインを注いでいるのだ。
赤になれば、ビールの泡の白が決まらないだろうことは想像に難くない。
店を切り盛りしているのが髭のサンタ面をした恰幅のいい男というのがまたいい画だった。赤い服を着ているわけでもなく例の白いポンポンの付いたサンタ帽を被ってもいないが、そこにいるだけでサンタクロースを連想してしまう佇まいがあった。
「ビールをグリューワインで割ったお酒の屋台だそうです。」
譲介は顔を上げてそう言った。
店の前で足を留めて、看板を写真に撮ってスマホのツールでちまちまと翻訳をしている様子はまあまあ可愛く思えないこともないが、こういうのは、気になったらさっと買って試し飲みしてみりゃいいだけの話で、二十代ならまだしも、三十代に足を突っ込んだ男がそれをやるのはどうなんだ、という気持ちの方が強い。
「オヤジの顔とやってることを見りゃ、すぐ分かんだろうが。」
「そうですね、大学の寮で隣に住んでいたヤツが良くこうして自撮りと一緒に翻訳していたのを思い出して懐かしくなったんですけど、僕も確かに、横で見てる時には、スマートフォンに頼り過ぎると思ってました。」
大学に通っていた頃のことを思い出し、すいません、と言って苦笑している穏やかな顔を見ると、一緒にいなかった時期の話を聞くのは、それほど悪くはない、と思う。
「飲みてえか?」と荷物を持ってやるつもりで腕を差し出しながら希望を訊いた。
交代で運転する分には、こっちが飲まなけりゃいい話だった。
記念日とあらば、互いの生まれ年のワインを買ったりシャンパンで口を湿らせるくらいのことはするが、そういうのはまあお決まりのセックスの手順のようなもんで、互いに、相手が酒をさしていいもんとも思っちゃいないだろうことくらいは分かっている。それでも、暖めたワインの芳香に気を取られている様子だった譲介の顔は今、単純な好奇心で輝いていて、その顔がどんな風に変わるのか見てみたいような気がしたのだ。
すると、おめぇは一体何世紀に生まれた何人のつもりだと言いたいほどの素早さでこちらの指先にキスを落とした譲介は「今は止めておきます。」と笑いながら、ホリデーシーズンの籠城のために缶詰や冷食を詰め込んだ紙袋を腕に抱え直した。
財布を出してとっとと買っちまえばよかった、と思っても後の祭りだ。
「飲酒運転になっちゃいますし、こういうのはその場で飲むのがいいと思うので。」
「来週に店仕舞いしてても、オレは知らねえぞ。」と徹郎は鼻を鳴らす。
チャンスの女神は前髪だけだという故事には理由がないわけではない。
過ぎた時は巻き戻せない。
闇医者として過ごし、時には気が滅入るほどに暗いばかりの、修羅の巷を歩くようになる以前から、それは徹郎が生きる世界では自明のことだった。
そうした徹郎の懸念を他所に、譲介はいつものように微笑み「それならそれで、徹郎さんと一緒にコーヒーを飲みます。それに僕、この手の運は悪くない方なんです。そのことは、あなたが一番良く知ってると思いますけど。」とそう言って、こちらが目のくらむような明るさでもって笑い飛ばした。



譲介のその予言じみた発言を聞いてから、一週間後。
クリスマスイブも目前というこのタイミングに、徹郎は「今夜出かけましょう。」と唐突に切り出した譲介と共に、日暮れた道をてくてくと歩く羽目になった。
「なんで今日なんだ。」
徹郎は、時にはこちらがうんざりするほどこざっぱりした格好で隣を歩く男に尋ねる。
二年前に譲介が買った裏地のあるコートを着込み、襟巻まで巻いた着ぶくれの姿だが、アウターの前釦を留めずとも気にならない温度というのは、流石にサンフランシスコだった。
譲介の方も、着込んでいるのは尻が隠れない丈のジャケットだ。
「ここ最近で一番夜の気温が高くなりそうだったので。それに、クリスマスに近い日程の方がデートっぽくないですか?」
クリスマス当日は、ここ数年、譲介が買って来たケーキを食って映画を見て寝る、というルーティンが出来つつあり、紅白を見て鐘撞きにいく大晦日にも似て、粛々と過ごすことが多くなった。
イルミネーションと飲み食いを一緒に楽しむなら、まあ夜の方がいい。酒も堂々と飲めて、多少の酔っ払いは多めに見て貰えるだろうという寸法だ。
理屈はそうだとしても。いつものマーケットまでの道のりは、近くて遠い。自宅から車を飛ばせば五分という距離は、歩けば二十分掛かる。
行きましょう、とこちらを急き立てる年下の男の様子は、まるで散歩をせがむ犬のようだ。
だが、十二月の夜と言ってもロサンゼルスの気候のこと。一旦外に出れば、思ったよりは寒くはなく、家々の街灯は輝いていた。
「そういえば、座って食べるスペースってありましたっけ。」
譲介が久しぶりに出して来たのは高校の頃に使っていたようなリュックだった。あの頃はどこへ行くにもハマーありきで、今も変わってないが、こんな風に並んで夜歩きした記憶はほとんどない。
「車で行きゃあ、まあ椅子と机がなくともどうにかなる。行ったところで食う場所がないっつっても、持ち帰って食えばいいだろ。立ち食い出来るような屋台も出てたんじゃねえか。」
さっと買って店先で食べりゃいい、というこちらの提案に、譲介は「空腹で飲んだら回りが早いですし、徹郎さんがオーケーならそうしましょう。入口から近い並びにあったシナモンロール美味しそうでしたよね。」と言って笑った。
そいつはてめぇが食いたいもんだろうが、と思ったが口にはしない。当然ながら、一杯飲んだくらいで潰れはしないことは、互いに良く知っている。
「おめぇが潰れたところで、うまいこと持ち帰ってやるから心配すんな。」と言うと、譲介は、楽しみです、と言って笑った。



持って帰る手土産をテトリスの要領で丁寧にリュックに詰め込んでいる譲介を眺めていると、そろそろタイムアップか、と徹郎は時計を見た。
明日の朝飯になりそうなものを含めて、すっかり買い物も終え、クリスマスの雰囲気もそこそこは堪能した。
そう思ったところで、あとちょっとだけここでこうしていませんか、と譲介は言って、徹郎の手に指を絡めた。
「酔っ払いが。」とひとこと呟き、舌打ちする。
そうして、これが見納めになる訳でもねえだろうが、と思いながら、ライトアップされたツリーを、写真を取るでもなく、ただ見上げた。
背の高いクリスマスツリーは、一人で眺めたところで今ほどは輝かないだろう。
「徹郎さん、帰りましょう。」
譲介はそう言って立ち上がり、うちに戻ったら暖かいコーヒー淹れましょうか、と言って笑った。
肌をただ撫でていくだけのような風の温度は、冬と言うには物足りなくて、徹郎は今日も、夢を見ているような気持がする。
年下のパートナーの手を取って、徹郎はベンチからゆっくりと立ち上がった。






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