夜明けの国

 渡辺登が襖を引いた途端、まばゆいほどの明るさが押し寄せてきた。
「おはようございます、父上。大福茶が入りましたよ」
「父上ー、お勉強見てください!」
「ちちうえ、お絵かきしようよ」
 盆を掲げた長女の後ろから、本を手に長男が駆け寄ってくる。まだ甘えた盛りの次男が登の膝に取りつく。子らのはしゃいだ様子を、妻のたかが苦笑混じりに諫めた。
「あまり父上を困らせてはいけませんよ。先におばあ様にご挨拶なさい」
「もうしたよ。ちちうえが一番お寝坊なんだ」
 次男がきゃらきゃらと笑った。その頭を優しく撫でてから、座敷の上座に向き直る。
「お正月から騒がしいわね」
 普段は厳格な母が、唇の端に微笑を浮かべている。登は裾をさばいて座り、背筋を伸ばして静かに額ずいた。
「母上、新年おめでとう存じます。今年もどうぞお健やかに」
「ありがとう。お前も重々気を付けるんだよ」
 母が眉根を寄せて、噛み締めるように言った。劣悪な環境の牢に入れられていた影響で、登は昨年長いこと病臥していた。一家が預けられた田原は田舎で、まして蟄居を命ぜられた身では、薬もろくに手に入らない。優れた医者の友人とも別れ別れになってしまった。
「もうすっかり治りましたから。臥せっている間、母上に孝行を尽くせないのが何より無念でございました」
「それなら今年は昨年の分まで頼もうかね」
「はい、喜んで」
 登は嬉しそうに頷いた。その膝元に、家にあるうちで一番欠けの少ない湯呑を長女が置く。登は礼を言って大福茶を取り上げた。
「ねえねえ父上っ、早く早く」
「ぼくが先だよ」
「父上の前で喧嘩しないの!」
「よしよし、みんな順番だからな」
 湯呑を両手で包みながら、大人たちはほのぼのと笑った。


「お疲れ様でございます」
 質素な夕餉を下げた後、たかが部屋に来た。登は絵筆を置いて、布団に横になった。たかが背後から寄り添い、肩や腰を揉んでくれる。
「やれやれ、今日は子どもの相手で終わってしまった。こんな正月は初めてだよ」
 一瞬妻の手が止まったので、登は慌てて言い添えた。
「違うよ、嬉しいんだ。去年までは正月といえば半月ばかりも挨拶回りに明け暮れて、子どもたちの顔を見る暇もなかった。めでたい日をゆっくり過ごせると思えば、この生活も悪くない」
 腕の隙間からちらりと顔を上げて、言い訳がましく登は呟いた。
「本当にそう思っているんだよ」
「承知しております」
 たかは手を休めないまま、ふくふくした頬に寂しげな色を乗せた。
「でもあなたにとっては今も、陽の昇る方角が江戸なのでしょう」
 登がはっと息を呑んだ。泳いだ視線が、覚えず机の上の文箱に向かう。以前、そんな便りを弟子に出したことがあった。
 田原から見れば、江戸は地理的に東にあたる。しかし含意はそれだけではない。大都市の文化を吸収して育ち、自らも発信する者の一端となり、数多くの知識人と交流を持っていた登にとって、僻地での暮らしはどうしても耐え難いものがあった。
「あなただけではありません。あの子たちにとっても、ふるさとは江戸です」
「……そうだな。お前にも、母上にも、慣れぬ土地で苦労をさせた」
「お辛いご心情、お察し致します」
 登は妻の手を止めさせて、ゆっくりと身を起こした。布団の上に座り、たかと向き合う。
「あの事件で、私は友人を喪った。藩預けになったことで多くの親しい人と引き離されてしまったし、進んで離れていった人も少なくない。世間から切り離された私の言葉に耳を傾けてくれる人は、ほとんどいなくなった。私は死んだ者も同然なのかもしれない」
 一呼吸おいて、でもね、と登は語気を強める。
「私ごときがいなくなっても、江戸は死なない。まだあの場所で戦っている人がいる。決して諦めない人が確かにいるんだ」
 決然と顔を上げて、登は縁側の先の深い闇を見つめた。
「だから、伝えなくちゃならないんだ。必ず江戸にも朝は来るから、って」
 たかは夫の横顔を見守った。そのまなざしは、太陽の昇る場所で生きる誰かを見つめている。私は心配いらないよ、と、ひたむきなまでに届けようとしている。
「さて、寝る前にもうひと頑張りしよう。福田くんに送る絵を描かないと」
「お仕事に励まれるのもよろしいですけれど、どうか養生なさってくださいましね」
「そうだな、明日も子どもたちに付き合ってやらなきゃならないからな」
 隣室で眠る我が子たちを思い、夫婦は微笑みを交わした。良い正月になる、という確信が、二人の胸にあった。

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