もう一個



どさっという音と共に、目の前に、小さな包みが雨あられと降って来た。

こたつでぬくぬくとうたた寝をしていた譲介の目の前には、いつのまにか小箱の山が出来ている。
「やるよ。」
帰宅した恋人の声が聞こえて、寝ぼけ頭で譲介が上を向くと、「こっちだ、こっち。」とまた声がした。
「TETSUさん、」
振り向くと、唇の端にキスされた。
ただいま、と言う挨拶もそこそこに、恋人の冷たくかさついた唇が、小鳥のような可愛いキスをして離れて行く。
「コーヒーでも飲んでたか?」と譲介に尋ね、TETSUはさみいな、と言いながら長い手足をこたつの中に潜り込ませている。
「はい。」と頷くと、愛しい人は悪戯が成功したかのような顔つきでこちらを見て、当たったな、と笑っている。それだけで、譲介の胸はいっぱいになった。
おかえりなさい、と挨拶を返して、それから、ふと、こたつの中で手を繋いでみたいと思ったのでそうした。
恋人の手の大きさは譲介の手には余るので、親指だけ外してギュッと握ってみる。
「……つめたい。」
「ったりめぇだろうが、今外から戻ったばかりだぞ。」と彼は呆れた口調で言うが、譲介の指を敢えて外そうとはしない。
冴え冴えとした寒気に冷えたその指先の温度は、徐々にいつもの暖かさを取り戻していく。
「おい、譲介。オレが男前だからって、ぼんやり見惚れてんじゃねえぞ。地獄めぐりを終えて帰った恋人に何かねぎらいの言葉はねえのか。」
地獄って、と思って口元をほころばせた譲介は、壁に掛けられたカレンダーを見て、あ、と思った。
彼と付き合う前は、散々苦労して独り身を続けていた二月のことを思い出す。
この時期の地獄めぐりと言えば、バレンタインデーのチョコレート売り場を置いて他にはない。
「もしかしてこれ、TETSUさん全部自分で買って来たんですか?」
「おうよ。」
ぱっと見たところ、譲介の目の前には十二種類以上のブランドの小箱がある。
この人がこれだけのショコラティエや菓子店を知っているとも思えない。
どこか百貨店にでも寄って来たんだろうか。
譲介は、小山の中のひとつを手に取った。どこかで見たことがあるデザインのパッケージだ。
「これって、もしかして。」
「まとめてのお返しで悪ぃな。」と悪びれない口調で言われてしまい、譲介はつい笑ってしまった。
こうして彼と恋人として付き合うようになる前は、バレンタインデーの前に自分用だと言って買って来たチョコをわざわざ彼の横で食べて、彼が手を出したくなるように仕向けていたのだ。
ずっと好きでした、という告白を当の本人に済ませてしまった今では、ああした小細工はさすがにもう出来ないだろうし、本来の目論見も気づかれているだろうとは思っていたけれど。
あれはあれで、譲介の毎年の楽しみでもあった。許されるなら、今年も同じようにしようと思っていたのだけれど。こうなってしまっては仕方がない。
「全部ひとりで食べたら、流石に吹き出物が出て来ると思うんですけど。」
「これだけあるのに、なんでひとりで食うのが前提なんだよ。」と言って、年上の人は眉を上げた。それはそうなんですが……と譲介は心の中で言い訳をする。
「だって、もったいなくて誰にもあげたくないです。」
恋人が譲介のために買って来た初めてのチョコレートだ。
プレゼントだ、と思っていいだろう。
それがTETSUさん本人だって、誰かと分けたいとは思わない。
ふたりで食べるチョコレートが、ひとりで食べるよりもずっと美味しいことは分かっている。それでも。
今年は僕が独り占めしますから、と言って両腕いっぱいにチョコレートを囲い込むと「オレも食うから買ってきたんだ。ちょっと寄越せ。」とTETSUが手を伸ばして来た。
「高くて美味そうなのを、売り場で適当に選んで来たやつならいいだろ。」
ひょい、と長い腕が伸びて来て、あっという間に抱えていた箱を取られてしまう。
「これじゃ、いつもと同じじゃないですか。」と譲介は抗議したけれど、「足りなくなったら、十四日までにまた買って来てやるよ。」と言ってぺりぺりとマイペースに包装紙を剥がすTETSUには届かない。
あっという間に、中から箱が現れる。赤地に黒猫のイラストが描かれた小箱の中には、小さくて丸く、粉砂糖が掛かったチョコレートが四つ並んでいた。
「シャンパントリュフだとよ。」
口開けろ、とTETSUは言って譲介にチョコレートを差し出した。
「え、あ、はい!」
「稽古じゃねえんだ。でけぇ声は出さなくていい。」とTETSUは笑って、譲介の口にチョコレートを放り込んだ。
美味いか、と聞いてくる人の笑顔が優しくて、譲介は、舌の上で溶けるチョコレートの味が全然わからない。
入っている酒がウイスキーじゃない、という違いが辛うじて分かるくらいのものだ。
「TETSUさん、あの。もう一個ください。」
チョコレートを飲み込んでしまった譲介が口を開けると、TETSUは嬉しそうな顔で「おめぇはこういうのが好きじゃねえかと思った。」と言って、小さなトリュフを取り上げる。
譲介がお返しに、ココアと粉砂糖の付いた彼の指先を舐めると、TETSUは顔を赤らめた。
バレンタインは最高だ。
口の中に納まった小さく甘いチョコレートは、譲介の舌の上でゆっくりと溶けていった。







Fuki Kirisawa 2024.02.05 out

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