「もういいぞ。」と服を持ち上げていた手を離すと、徹郎の今日最後の患者は「先生、ありがとう。」と言ってぴょこりと首を下げた。
年の頃は、譲介より下だ。
あいつにもこれくらい可愛げのある頃があった、と思いながら、肌着の裾をズボンに仕舞い込んでいる様子を眺める。あと十も若けりゃ「ドクターTETSUと言え。」といちいち訂正していたが、今はもう、そんな風に言い直させる必要もない。
オレみたいな流しの医者を先生なんて言う必要はねえ、などとわざわざ言わずとも、それなりの格好が付くような年になってしまった。
診療道具を仕舞いつけようという段になって、鞄を開けると、中身がすっかりごちゃついている。聴診器が当たる時にヒヤッとするのが嫌だと部屋の中を逃げ回っていたガキをとっ捕まえるときに落としてしまったのだ。
運転の後回しにすりゃ、中を点検するのも面倒になっちまう。そのことは分かっちゃいるが、家に戻る前にここで仕舞い直しておくか、と時計を見れば、帰宅ラッシュの前にある程度の距離を稼いでおきたいような気にもなってくる。
まあ、週末からテストがある、っつってたから、オレが遅く帰った方があいつも気楽か。
そんなことを考えて頭を掻いていると、普段は使わないポケットの中から飛び出ている小さな緑色の三角に気づいた。
後で中をさらえて道具を見ておく必要があるとは思ってはいたが、とんでもないものが出て来ちまった。
「まだこんなとこに残ってやがったのか。」
色褪せて、少し皺の寄った早緑色の折り紙を手に取って、つくづくと眺める。
小さな子どもが、一番最初に習う折り紙の、帆掛け舟の姿だ。
「先生、それ何?」
「オレのお守りだ。これがありゃ、オレは何があっても大丈夫なんだとよ。」
「舟より折り鶴の方が効き目がありそうなのに。」
「そうだな。」
あの日のオレも似たようなことを考えていた、と徹郎は口元を緩める。



「………おい、なんだこりゃ。」
「おふね!」
近所の食堂でカレーを食わせて戻ってきた部屋の中には、譲介が折りに折った折り紙が、まるでシャワーのようにまき散らされていた。
その散らかり様は、いつもの惨状とは、似ているようで、全く別の様相を呈していた。
酒好きで不摂生な爺さん相手に十二時間の手術を終えたばかりだった。
徹夜になるのも構わずに運転して今暮らしている関東近郊のヤサに戻って来たのが今朝方のことで。徹郎は昼までひとしきり寝倒した後、いつもの食堂で魚定食でも食って来るか、と訪れたこのボロアパートの庭で、近所のガキと楽し気に遊んでいた譲介を見つけた。よう、と顔を出した徹郎を見るなり、駆け寄って来た子どもは、抱き上げた徹郎の腕の中でぐうぐう腹を鳴らした。
ひとまずメシだ、と慌てて近所の食堂に連れて行って好きなだけカレーを食わせたはいいが、まさか部屋の中がこうなっていたとは。
「ったく……何から片付けたもんか。」
口ではそう言いながらも、まずは、折り紙をひとつひとつ救出する必要があることは分かっていた。
譲介の作った「作品」をおろそかにしないように、と幼稚園の担任からは口を酸っぱくして言われている。とはいえ、カラフルな折り紙の下には、いつものように京介が脱ぎちらかした服やら靴下やら、ビールの缶に、ハズレ馬券があるのだろう。それらは、部屋中にばらまかれた折り紙で上手く隠されているようで、全然隠れていない。
鈴ちゃんが出て行ってからの、京介と譲介の二人暮らしの部屋は、ずっとこんな感じだ。
譲介の顔を見にここへ来るたびに、徹郎はため息を吐きたくなるが、未就学児が弱音を吐いていないってのに、いい年の大人が堪えたような顔をするわけにもいかない。
この年の小さなガキがひとりで片付けをするには、この部屋は広すぎるのだ。
所在ない顔をして、お母さんがいたときみたいにならない、と言っている譲介の顔を見ていると、京介にひとこと言ってケツを蹴飛ばしたいような気持になるが、脚ではなく口でそれをやった後、夜に京介に蹴られた、という話を聞いた後では、徹郎は男に対して、何も言えなくなった。
せんみつのギャンブル狂なのはともかくとして、まさか腹に溜め込んだうっぷんを、ガキを虐めて帳尻を取るようなクソ野郎だったとは。ずっと自分と似たような気質の男だろうと思っていたが、どうやら、徹郎といるときはこちらに調子を合わせていただけだったようだ。
口では何と言おうが、もう信用はならねえとは思ったが、この年のガキには、まだまだ親が必要だった。
そもそも、京介から引き離して、ヤツから所在が分からないような施設に譲介を入れてしまえばそれで解決するという問題でもなく、そうしたらそうしたで、また別の問題が生じるだろう。何より、長崎だの海外だのといった遠くにこいつを連れて行ったところで、この仕事を続けていく限り、今日のように頻繁に顔を見に行くことが出来なくなる。
持ってろ、と床から拾い上げたいくつものカラフルな色紙をズボンとトレーナーのポケットに突っ込むと「テツにあげるのに……。」と譲介は泣きそうな顔になって眉を寄せた。
「後でどれだけでも貰ってやるから、今は預かってろよ。」と手を頭に乗せる。
ひとまずは、片付けだった。
「おめぇも手伝え。」と徹郎が言うと、譲介はうんと頷く。
手に入ったばかりの報酬で顔見知りの掃除の業者を呼んで、専門職のやつらに隅々まで片付けさせている間にふたりで外をぶらついていても良かったが、徹郎はそれをしたくはなかった。
どうせ、京介はまた、いつもの競艇に行っているのだろう。
今日は馬かボート自転車か、と聞くと、ボート、と譲介は行った。
野球賭博であればまだしも、と思わないではないが、あんな場所にガキを連れて行かないだけマシか、と思ってしまう自分も自分だった。知らない男に便所に連れ込まれそうになったら、オレの名前を叫んで人のいる場所に向かって走れ、とは言ってはいるが、この年のガキは、そういう場所から遠ざけること自体が必要だった。
オレのような風来坊が、自分の種でもねえガキにのめり込んでどうなる、とは思うが。よちよち歩きの頃に抱き上げ、面倒を見て来た責任ってもんがある。
片付けは後回しにして、先に折り紙でも褒めてやるか、とおちおち腰も下ろせない畳の上から、赤い色の舟と青い舟とを取り上げる。
まあ、この小さな手では、折り鶴を作れるようになるのはもう少し先か。
はじめての折り紙、と言わんばかりの舟だが、床に散らばる他の色のものとは違って、これはまずまずの出来だ。
上手く出来たじゃねえか、と徹郎が褒めると「それはおとうさんの分と、おかあさんの分だよ!」と言ってぱっと譲介の顔が明るくなった。
とはいえ、そうかそうか、と相槌を打とうとすると、譲介はまたすぐにしょげた顔に戻ってしまった。手を伸ばして畳が見えるように上にあるモノをどかしてから「どうした。」とちびを抱き上げ、膝に乗せながら聞いてみる。
「ようちえんで、ちゃんと折れたのに、おとうさんは、じょうすけのおりがみはいらないんだって。じょうずにできたら、うけとってくれるかもしれないけど、いくつ折っても、いらない、っていわれる。」
譲介は、徹郎の膝の上でそんな風に言って、べそをかきはじめた。
「じょうすけのじょうは、じょうずのじょうなのに、せんせいもそういってくれるのに。」としゃくりあげている。
アパートに住む家族には顔見せして登園を依頼しているので、幼稚園には通っていて、担任もまともなやつが宛がわれているが、親があんなじゃ、もうどうしようもないってことかよ。
泣きじゃくるガキの背中をぽんぽんと叩いてあやしながら「オレの舟はねえのかよ。」他の全部ってのはナシだぞ、と言い含めてから、譲介に尋ねると、「……ある。」と鼻を啜っていた子どもは、そう言って口を結んで、ん、と言って顔を上げた。
リクエストにお答えしてやるか、という気持ちで徹郎がポケットに入れていた布切れで譲介の鼻の周りを拭いてやってから、手の甲で涙をぬぐうと「テツの分もあるもん。」と言いながらきょろきょろと周りを見ている。
「ならさっさと出せよ。」とせっつくと、「いそがないの!」と徹郎の膝から降りて折り紙の海をそろそろと歩く子どもの頬は、みごとに膨らんでいる。
次によくできたやつを探してやがるな、これは。
あちこち眺めながら、あれもだめ、これもだめ、と海に沈んだ財宝を探す潜水艦よろしく探索している姿をよくよく見れば、まだまだちびだと思っていた子どものトレーナーとズボンは、手首と足首、両方の肌の色がすっかり見えている。
鈴ちゃんが出て行ってもう一年か。
片付けを終えたらこのまま駅前にでも連れていって、適当に服と靴下とを買ってやる必要があるが、こいつのギャンブル狂のオヤジはいつ帰って来るものか、と心の中で思案していると、譲介が一枚の折り紙を拾って勢いよく振り返った。
「テツの分はこれ!」
生意気な表情を作るようになってきたちびは、明らかに前ふたつよりは不出来だが、他のものよりはなんとか形になっている船をこちらに差し出してきた。
緑色の折り紙で折られた舟は、指の形に皺が寄っていて、今にも沈みそうに見える。
笑っちゃならねえだろうとは思うが、徹郎は堪え切れない。
ぷは、と吹き出すと譲介はまた頬を膨らませた。
「おい、舟のここんとこにおめぇの指で穴が空いちまったらどうするんだ。」
海に沈んじまうぞ、とからかいながら、譲介の身体を抱き上げる。
最初に抱き上げた頃からは随分重くなったが、それでも、同年のガキに比べりゃ、まだまだ軽い。
テツに抱き上げられて機嫌を良くした譲介は、ふふっと頬を緩めて、もう一方の手に持っていた早緑色の舟を差し出した。
「テツのおふねは、うみにはいかないもん。じょうすけのふねとずーーーーっといっしょにいる。」
これ、じょうすけのふねだよ。そう言って子どもは、手にした舟をまるで波乗りしているかのようにゆらゆらさせた。
テツの分と言われた舟と同系色のその頼りない一回り小さな舟を、徹郎はつくづくと眺めた。
この先もオレと一緒にいちゃあ、おめぇの舟も沈んじまいそうだ。
そう思ったが、徹郎は口には出さない。
「オレの舟に穴が空いたら、おめぇはどうする? ひとりで岸辺にいるか?」
オレも意地が悪い大人になっちまったもんだ、と思いながら、そんな風に子どもに聞いた。
徹郎の膝の上で、あのね、うんとね、と子どもは思案するような顔つきになった。
「テツのふねにあながあいたら、じょうすけのふねもいっしょにしずんであげてもいいよ。海の底でふたりでサンゴの隣にいるの。そしたらテツもさびしくないもんね。」
沈んだ二艘の舟が、明るい海面を羨ましげに眺めているところを想像して、徹郎は頭を振った。
今のオレがどうあろうと、こいつには、そういう人生を歩ませようとは思わない。
「……オレは沈まねえよ。縁起でもねえこと言うんじゃねえ。」
デコピンの代わりに、柔らかな頬をゆるく引っ張る。
「じゃあずっといっしょだ。」と言って譲介は笑った。


「先生、また来週。」と部屋を出ていく子どもの背中を眺めてから、帰り支度を済ませてコートを羽織る。
あの舟をまだ中に入れていたのかと思うと、急に診療鞄が重く感じられた。
穴が空いたら一緒に沈むと言ったことを、あいつはもうすっかり忘れてしまっただろう。
次の来所の予定をすり合わせて、じゃあな、と去り際に挨拶をすると、社交辞令か何なのか、コーヒーの一杯でも、と古株の女に言われたが、県をまたいだヤサまで遥々と運転をしていくことを考えれば、おうと応えることは難しい。
途中にあるサービスエリアでどうにかする、と断った。
待ってるヤツがいるんでね、と言うと「まあ真田先生。」と言って、何がおかしいのか、女はころころと笑った。
ヤサで待つのは詰襟を着た口うるさいガキだが、それを口にする必要もねえ。


ハマーのエンジンを掛ければ、あとはヤサに戻るだけだ。
カレーでも買って帰るか、とひとりごちると、ラジオからは、交通情報が聞こえて来た。
あいつが家を出て行くまで、あと十年か。

オレなんかとずっと一緒だという約束なんざ、とっとと忘れちまえ。

遠からぬ未来、譲介が大学を卒業する日に、十年前の自分のように格好を付けてあいつを送り出せるのかと言えば、妙に心もとない気がする。
徹郎はがりがりと頭を掻いて、ハンドルを握り直した。





Fuki Kirisawa 2024.02.16 out

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