【5】「グラスの氷が溶けても」(ゲタ、舎弟と猫)

なんでもない一日になるはずだった――。

オヤジのお供で朝っぱらからゴルフのラウンドに付き合わされた。オヤジは三日にあけずゴルフをしている。そのくせちっともうまくならないのがゲタには不思議でならない。相手はうちの本家の組幹部や警察上層部、裏社会とズブズブの民間会社などで、つまり接待ゴルフだ。クソつまらない。ボールを飛ばして穴に入れることの何がおもしろいのか。あんなのは元老院の爺どもが余生の楽しみにやることだ。どうせ接待するならもっと刺激的にやればいいのに。
前世の記憶を取り戻して以来、ふとしたときに過去と現在を比べてしまう。宮殿の宴に呼ばれたハンノが、ヒグマさながらに襲いかかって対戦相手の剣闘士を撲殺してみせた三本勝負。あれは記憶に残る素晴らしい余興だった。拳が骨を砕く鈍い音に興奮し、おびただしく流された血の臭いに勃起した。
隣の兄上をみれば、爛々と目を輝かせて舌なめずりしている。いまにも股間に手を突っ込みそうな兄上の横顔はひどく艶めいて美しかった。宴のあとは当然に寝室にシケこんで兄上と奴隷どもと入り乱れてヤリまくった。これこそが正しい接待だとゲタは今でも思っているが、今世では口を憚るだけの社会通念は身につけていた。
接待ゴルフを終えてシャワーを済ませたオヤジとご友人方をクラブハウスの特別室でもてなす頃には、すっかりウンザリしていた。若頭の地位まで上り詰めたとはいえこの場のゲタは、ジジイどもに酒を注いで回って笑顔をふりまくバニーガールだ。隙あらばケツを揉もうとしてくる本家の幹部どもをうまく交わして場を回すことは造作なかった。おだてて存分に満足させてから無事に帰路へと送り出した。
オヤジの車にはエボンが護衛に付き添い、ゲタはチャールズの運転で組事務所へと戻った。運転手として連れてきたはずのディファラオは後部座席のゲタの隣でご機嫌に鼻歌をうたっている。警察幹部に気に入られたまではいい。だが下手こいて酒を断りきれずに散々飲まされた結果この体たらくだ。
「なあ若頭。そのポンコツ、あとで俺の好きにさせてもらってもいいですよね」
視線は前方に据えたまま、チャールズはにやりと口の端を上げた。ゲタも鷹揚に頷く。
「明日は週末だ、せいぜいオモチャにしたらいい。おまえも旨い酒飲め」
財布から紙幣を数枚ぬいて、チャールズのスーツの胸ポケットに差しこんだ。
「どうも。まいどあり」
「少し寝る。近くなったら起こしてくれ」
革張りのシートに深く身体をしずめて目を閉じた。早起きさせられたせいかもしれない。追加のアルコールの助けは必要なかった。車のかすかな振動が心地よい。ゲタはゆっくりと眠りに引きこまれていった。

いつでも目覚められる浅い眠りのなかで、記憶の底にある透明な歌声に耳を傾けていた。ローマの乾いた風はいつもゲタに優しかった。どこか頼りない兄上の歌声をうまく風に乗せて、どれほど遠くにいようとゲタの元まで運んでくれた。華やかな宴に目がない兄上は、そこで奏でられる歌をたくさん知っていた。隣にいて同じだけ歌を聴いてきたのに、ゲタはひとつだって旋律や歌詞を覚えたためしがなかった。
兄上、また新しい歌を覚えたのですか――?
知らない旋律を耳元で口ずさむ兄上にゲタの頬は自然とゆるむ。微かに笑みを含んだ明るい歌声は、まるで兄上がすぐ隣にいるかのようにゲタの鼓膜をやさしく震わせた。
――いや、待て。本当にすぐ隣から聴こえていないか?
ゲタの半分だけ覚醒したままの身体が違和感を拾った。この稼業を長くやっていると、僅かな違和感にも本能が即座に反応する。その鋭さをもたない者はこの業界で長くは生きられない。
一気に覚醒して上半身が跳ね起きた。隣の男を凝視する。急な動きにディファラオが驚いた顔をゲタに向けた。その手にはモバイルが握られており、なにか再生している音がする。
これだ、この音だ。違和感の在り処を認識すると同時にゲタは背筋が冷えていく感覚をおぼえた。
「若頭?」
「なにを聴いてる」
忘れようのない歌声が、部下のモバイルから聴こえてくる。なぜだ。
「す、すみません。オススメ動画で好きな歌が流れてきたので、つい……」
睨まれて焦ったディファラオが再生を止めようとする手を押し留めた。そのままモバイルをひったくって画面に目を凝らす。
ビーチサイドで身体を揺らしながら、気持ちよさそうに歌う男の動画が再生されていた。身なりが変わろうとも透き通った高音域と太陽を映して煌めく瞳の色を、間違えるはずがない。ゲタは部下の手前、全身が震えるのを鋼の意思で抑え込んだ。
「若頭もカラカラ聴くんですか。それ、いい曲ですよね」
ゲタの異常な様子に気付かないのか、ディファラオはのんびりと言った。

カラカラ――
画面の男がそう名乗る意味を想うと、ゲタは唇が震えるのを堪え切れなかった。

頭から一気に血が下がっていくのが分かるが自分の意思ではもう止められない。目の前が暗くなり、喉の奥に不快なものがせりあがる。ああ、くそ。
「……チャールズ、っ」
バックミラー越しに後部座席を窺っていたチャールズが即座に車を路肩に寄せた。車が停止するのを待ちきれずドアを開けるとゲタは身を乗り出して嘔吐した。
「若頭!」
路肩に倒れ込むように傾いていく身体を、ディファラオが支えて背中をさすっている。その手を振り払うこともできずにゲタは胃が空になるまで吐きつづけた。
「――すまん」
えずく合間にゲタは何とか声を絞りだす。ようやく嘔吐がおさまったのを見計らってディファラオが身体を起こすのを助けてくれた。革張りのシートにふたたび深く背中を沈める。目を閉じたまま肩でおおきく息をした。
「車酔いしましたか。若頭」
運転席のチャールズがちらりと視線だけゲタに向けた。
「ああ、そうらしい」
そういうことにしてくれるチャールズの気遣いがありがたかった。何か言いたげなディファラオを視線で封じ、チャールズは滑るように車を発進させた。大通りにでて、車道にはクルマがひしめきあっている。夕暮れどき、道の両側にはおびただしいネオンが瞬きはじめていた。人工の光が煌めく向こう、ビルの窓ガラスが赤く染まっている。終わりかけの夕暮れの色。ゲタはなぜかそこに目が吸い寄せられた。
ふいに、かつての宮殿の西側の壁に映った夕焼けの色を思いだした。それから兄上が好んで纏っていた紅い装束を思いだした。あれはもっと濃く、金糸を織り交ぜた華やかな紅だった。

あなたにも記憶があるのですか、兄上?
夕焼けの名残から目を離せないまま、ゲタは前世と今世の境界線がじわじわと滲んでいくのに身を任せた。

組事務所に戻るころにはゲタは平静を取りもどしていた。しかしチャールズの目には違ってみえたらしい。ディファラオが大荷物を抱えて足早に事務所に戻るのを見届けると、チャールズはゲタの背中にそっと手を添えると耳元に口を寄せた。
「若頭、あんた顔が真っ白だ。自宅まで送ろうか」
「まだ仕事を残してる。問題ない、大丈夫だ」
自分にむけて言い聞かせるように応えた。チャールズはゲタに据えた視線をなかなか外さない。吟味されているような心地の悪さをゲタは口早に取りつくろった。
「チャールズ、さっきのことは」
「はい。心得てます」
この年長の舎弟には食えない一面がある。額面どおりに言葉を受け取れないときもあるが、いまは致し方ない。ゲタはとにかく一刻も早く、ひとりになりたかった。
「今日はおつかれさん、もう上がってくれてかまわない。ディファラオにも伝えてくれ」
「――ありがとうございます。よい週末を、若頭」
チャールズは労わるようにゲタの背中をひと撫ですると、軽く会釈してガレージを離れた。
防弾性能を備えたスチールシャッターを閉めてしまえば、ガレージはわずかのライトのみで四隅には重たい暗闇がわだかまった。このまま冷たい床に蹲ってしまいたい衝動がこみ上げる。ここから一歩踏み出すには、なにより煙草が必要だ。そう思えた。ゲタはBMWに背中をもたせるとポケットから一本、取り出して吸いつけた。

――兄上。あの動画は、貴方ですよね?
ゲタのささやくような声は一筋、紫煙とともにガレージにゆっくりと四散した。

◇◇

組事務所の自席で仕事を片付けたのち、居残りしている店番の組員に先に帰れと声をかけた。そんな指図をするのは初めてだったから、キットは怪訝な顔を隠さなかった。
「若頭おひとりで残るなんて不用心です。エボンさんに知れたらオレ絶対どつかれます」
「なら黙っとけ。いいから帰れよ、おれが施錠する」
エボンの逆鱗を危惧して頑なに残ろうとするキットから鍵束を奪い取って追い出した。各部屋を回り人払いが済んだことを確認する。よし、だれも残っていない。
その足でバーカウンターに立ち寄りボウモアのボトルとグラスを並べると、氷を雑に砕いてロック割りをつくった。グラス片手に私物のタブレットを開きながら、ゲタはがらんとした事務所のソファに深々と沈んだ。
ちびちび酒を舐めつつ『カラカラ』と名乗る男について検索する。ヒット件数はそう多くなかった。

セレブのリアリティショーにたまに顔を出していた、親族らしき関係者の若者。番組のパーティー企画で披露した歌がSNSでたまたま人気が出て、その後も番組で2曲ほどオリジナルソングを披露した。だが専業歌手としてめぼしい活動をしている様子はない。短期間でリアリティショーから姿を消したが、親族との金銭トラブルが原因との憶測記事がいくつかあり斜め読みした。
ほとんど呼吸を忘れて検索結果を目で追っていたらしい。急激な喉の渇きにボウモアをごくりと流し込むも、喉が焼けて咳き込んだだけだった。
そこそこ人気のあるリアリティショー。束の間ながら話題になったらしいSNS記事。若手舎弟のモバイルの動画アプリに流れてきたという切り抜き動画。そのどれもがゲタには縁のない代物だった。今まで彼の存在に気付かなかったことはそのまま、ゲタとカラカラの住む世界の違いを突き付けられた気がした。
「やはり、兄上だ……。わたしが貴方のお声を聴き違えるわけがない」
どれだけアルコールを流し込んでもゲタの喉が潤うことはなく、胸は疼いた。

カラカラが歌っている動画を、気付けば延々と再生していた。画面に全神経を集中させて食い入るように兄上の姿を目で追っては、今世に兄上が生まれ直してくれて、裕福な家庭で不自由なく育ったのであろうことを神に感謝した。パーティーを楽しむセレブたちの輪の中を出たり入ったり。兄上は派手な色のカクテル片手に自由気ままにふわふわ歩きながら、思い出したように歌っている。
表情にもしぐさにも前世での病的な陰りはみられない。ゲタはそのことに何よりも安堵した。健康で底抜けに明るくて、前世ではゲタだけが覚えていた、兄上が生来もつ天真爛漫さだけが画面いっぱいに溢れていた。
じわりと涙腺が熱くなってきて、歯を食いしばる。ボウモアのグラスをぐっと握りしめた。

カタッ

ふいに部屋にひびいた音にゲタはぎくりと顔を上げた。
――にゃあん
間延びした声に拍子抜けして視線を落とす。黒白の毛並みの美しい猫が猫用扉から室内に滑りこみ、とてとてとゲタの元まで寄ってきた。ゲタの脛にしっぽを絡ませたと思うと、ひょいと膝上に飛び乗って丸くなった。
「フロド。おまえ、エボンと一緒に帰らなかったのか」
「にゃん」
「誰もいない筈だったのにな」
膝の上でフロドはおあいにくさま、と言いたげに鼻を鳴らした。フロドがゲタに寄りつくことは滅多にない。動物が苦手なゲタはそもそもフロドに近づかないし、フロドも甘えれば優しくしてくれる他の組員たちのほうによく懐いていた。
「にゃ?」
タブレット画面の動きが気になるのか、フロドは兄上の頬のあたりをぴとりと足で触れた。
「紹介するよフロド。このひとは、私の兄上だ」
「にゃあん」
「もう、会えないのかと……っ」
膝の上で丸まったフロドの体温がじわじわ伝わってきてはゲタをあたためていく。そうっと背中の毛並みに触れてみると、はっとするほど温かった。グラスの氷が溶けるようにゆっくりと、ゲタの中で虚ろだった何かが温められて溶けだしてくるような気がした。
「兄上。やっと、みつけた――」
語尾が震える。無様なところを見られたくなくて、フロドをぎゅっと胸元に抱き込んだ。
「にゃっ」
抗議の声は聞こえたが、フロドはゲタにきつく抱え込まれても微動だにしなかった。フロドに心を見すかされているような気がした。それでもいいかもしれない。だって、兄上をみつけたんだから。
フロドの背中に顔を埋める。一日じゅう日向ぼっこをして太陽の香りをいっぱいにたくわえた背中だった。ふわふわの毛並みがフロドの呼吸にあわせてゆっくり揺れている。
それはまるで、ゲタの壊れた涙腺を優しく拭ってくれているようだった。

どれぐらい時間が過ぎたのかわからない。ゲタはずっと、タブレットに再生されるカラカラの歌声に耳をかたむけ続けた。


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