カップ麺


TETSUがいつものように昼過ぎに412教室に着くと、出迎えたのは、カレー味のカップ麺の匂いだった。
窓を開けるか換気扇を付けろ、と思うが、あいにくの雨が明けたところということもあって、窓は締め切られていた。
見慣れた早緑のパーカーの背中。薄い髪色。
隣のパイプ椅子に脱いだ白衣を掛けた男が振り返った。
「ふぇふろうへんぱい……。」見つかった、という顔をしている。
「おい、メシ食ってる時に話すなっての。」
口いっぱいに麺を頬張ってなおもしゃべろうとする年下の男の頭をぺしりと叩くと、譲介は眉を寄せ、頭に触れた。
毎回毎回、昼を食うなら売店の傍のピロティホールに椅子とテーブルがあるというのに、コーヒーを淹れるための三角フラスコで湯を沸かしてこの教室の流しのパイプを詰まらせている馬鹿な野郎の顔を、徹郎はじっくりと眺めた。
男前が台無しじゃねえか、と思うが、それは言ってやらないと決めている。
地元を出て以来、その場限りで付き合う相手には女もいるが、徹郎が寝る相手は大概男だ。
和久井譲介という男は徹郎に好意がある。それは分かっちゃいるが、自分の性的志向に自覚のあるような相手ならともかく、頼れそうな丸太にただしがみつきたいような気のある野郎に、無自覚に当てられるのは面倒だった。
そもそも、徹郎は年上の方が好みだ。
ガキに振り回されるのは、ボランティアで行く病児保育のヘルプで十分だ。
徹郎は譲介の向かいの丸椅子に腰かけようとして、テーブルの上に置かれた三角フラスコに残っている液体から立ち上る湯気を眺めた。
透明な液体、カップ麺と来れば、ただの白湯だろう。コーヒーでも淹れるか、と思ったとき腹が鳴った。
時計を見れば、ブランチを腹に納めたのはもう二時間も前で、教授と次のシラバスの内容について話し込んでいるうちに、学食で食ったわかめが浮いた蕎麦といなり寿司はすっかり胃の中で消化されてしまったらしい。
「……おい、譲介。そのカップ麺、まだあんのか?」と聞くと、譲介は、先輩の分はちゃんと残してありますよ、と言った。
どっちがいいですか、と訊かれて譲介が出して来たのは今食べてるのと同じカレー味だった。
学内の購買ではまず見たことがない。外から買って来るのか、カレー味と見ればこいつが買い占めているのか。
「飽きねえのかよ。」と突っ込むと、残りの麺をかき込んで汁を飲んでいた譲介は顔を上げ「味変したいなら、次はスーパーで卵とパック飯買ってきます。」と言って口の端をティッシュで拭い、立ち上がった。
母親が再婚した先の家がそこそこ太いと聞いてはいるが、いつでもバイト三昧の本人は至って清貧に暮らしている。
別の味のカップ麺を買って来たところで食わせることは難しいだろうし、学外に出てわざわざスーパーやコンビニを回って探してくるのは面倒だった。
「徹郎先輩、」
「おう。」
「お湯、それっぽっちじゃ足りないと思いますから、もう少し沸かしますね。」
隣の教室の摩耗のことや、この教室にいる誰それのこともひとくくりにサン付けで呼びならわす男が、徹郎のことだけは、なぜか先輩という呼称を使う。
面倒なことを考えねぇで午後の授業に集中しろ、と自省しながらぺりぺりとビニールの包装を剝いていると、譲介が、実験台の流しの蛇口をひねった音が聞こえてくる。
水流の音に釣られて顔を上げる。
曇天の空から差し込んだ日が、譲介の横顔に陰影を作っていた。
三角フラスコには、すぐに水が満ちた。
かやくの袋を破りながら、譲介が、十数年前に誰かが置いて行ったらしいアルコールランプに火を付けるところを徹郎は眺める。
マッチの擦り方が下手でいつもは二本ほどダメにしているが、今日は一発で火が付いた。
まあ、見飽きないヤツではある。
「おい、譲介。今度カシミールにカレーでも食いに行くかァ?」
カシミールは学校から二番目に近いカレー屋の名前で、カレーを食うだけならチェーンの定食屋もあるにはあった。かなり歩くことになるし、戻って来るのも手間だが、譲介は迷わず「行きます!」と叫び、消し損ねたマッチの火で指先を焦がした。
徹郎は、クックと笑いながら、午後からの授業のシラバスをテーブルを広げ、小さく口元を緩めた。
古びた三角架の上に鎮座するフラスコの正面で湯が沸くのを待っている後輩が、その様子を嬉しそうに見ているのも知らずに。

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