公開用(どよんしょ)
──なんて美しい土地なのだろう。涙が出てしまいそうだ。
道誉一文字は、応接室の窓から外を見下ろしていた。
分厚いカーテンの間には寒々しい荒野が広がっていた。低く垂れ込めた雲のせいで野は灰色に沈み、低灌木の茂みが古雑巾のような大地にぽつりぽつりと染みを落としている。無論のこと、あたり一面人家は一軒もない。本丸は大抵孤立した形態を取るそうだが、それにしても余りに人界から隔絶している。挙げ句の果てに、ここは島であるらしい。ぷつりと途切れた草地の向こうに、青ざめた水平線が見えている。水面は微かに見えるだけで荒れているかは分からなかったが、風はそれなりに強いようだった。そばに聳えるもみの枝はしなり、二重窓の外側のガラスがカタリと小さく音を立てる。こんなところに好んで住むのは、極度の人嫌いか、修道僧か、あるいはもう世の中というものに絶望しきった奴だろう。
「すみません、お待たせしました」
ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。振り向いて、最初に目に飛び込んだのは、青みがかった白い頭髪だった。空色を基調とした装束と相まり、まるで青天がそのまま歩いてきたようだった。
「鵜飼派の雲生と申します。これからひと月よろしくお願いします」
彼が教育係らしい。耳触りの良い声だった。笑みの一つも浮かべない様子は無愛想とも取られかねなかったが、声音の丸さが十分に彼自身の友好的な気持ちを伝えていた。
「俺は道誉一文字。好きに呼んでくれて構わない。その名の通り、一文字派の刀だ」
立ち上がって右手を差し出せば、雲生は躊躇うことなく握手を返した。自分よりも一回りは小さい手だ。
「君はこの本丸に来て長いのか?」
「そろそろ一年になります。教育係は同じ刀種で一番新しい刀が務めることになります。私のときは実休光忠でした」
「ハッハァ! ゴージャスだな。織田信長の愛刀だろう?」
「ええ。宗三左文字や薬研藤四郎もよく部屋に遊びに来てくれました。鵜飼派はまだ私しかいないので、心強かったです。ああ、そういえば、この本丸は一文字派は全員揃っています。まずはそちらに行きましょうか?」
「ノーサンキューだ! 気を悪くしないでくれ。同胞と話すと話題が尽きることがない。まずはここの案内を頼みたい」
道誉のさりげない拒絶を雲生は気に病むことはなかった。それどころか気づいていないようですらあった。
「そうですね。積もる話もあるでしょうから。まずはこの屋敷の案内から始めましょう。筆記具は使用できますか?」
問題ないことを伝えると、A3二つ折りのプリントを渡された。クリップボードも付いている。
「これは?」
「この本丸の地図です。私たちは今ここにいて、これから、この食堂に向かいます。ペンもどうぞ」
「あ、ああ……」
「自分の手でメモをしていくと、記憶に定着しやすいと聞きました。ぜひ活用してください。質問も遠慮なくどうぞ」
「それなら早速一ついいかな」
歩き出そうとしていた雲生が小首をかしげて道誉を見上げる。
「この、端にいるキュートなクリーチャーは何だろうか?」
『本丸見取り図』という題字の隣にツチノコのようなものがいた。雲生の表情がたちまち狼狽えたものに変わった。
「オオハクチョウです。地図作りを手伝ってくれた秋田藤四郎に、かわいくするなら『ますこっと』が必要だと諭されたのです。オオハクチョウはこの時期に飛来しますから、ちょうど良いと思ったのですが……。やはり白鳥には見えませんか……」
しょんぼりと眉尻を下げ、羞恥もあってか耳も赤くなっている。いかな道誉といえども少々罪悪感を抱いてしまうくらいだ。
「ハッハァ! オオハクチョウか! 俺はまだ見たことがないから、もしかしたら似ているかもしれないな」
どう努力してもカモノハシがもんどりうっている様にしか見えないが。
「そう言ってくださるとありがたいです」
雲生は微笑んだ。さきほどまでの表情の固さは緊張していたものだったらしい。
「この地図は君が作ったのかい?」
「はい、そうです。本丸の構造は機密事項なので、今まで地図は作られていませんでした。ですが刀も増えて複雑になりましたから、許可を得て作成したのです。念の為境界を超えると自動的に燃焼する紙を使っていますが、敷地外持ち出し禁止なので気をつけてくださいね」
「いいのかな? そんな大事なものを新入りに渡してしまって」
「新刃のときに迷って困りましたから。どうしても改善したかったのです」
確かにざっくり地図を眺めただけでも、複雑な構造をしていることが分かる。林立する個性的な居住棟だけでも場所を把握するのが面倒なのに、加えてそれらを繋ぐ渡り廊下は配置される位置も階数もばらばらと来ている。これは簡単に迷うだろう。道誉の部屋と一文字派の刀たちが暮らす部屋には既に星印が付けてあった。日光一文字は山鳥毛の隣室だが、ご隠居とお姫、南くんはそれぞれ来歴由縁の連中の部屋に近い。どうやらここの山鳥毛は放任主義のようだ。
「それでは参りましょうか」
今度は引き止めず、雲生に続いて歩き出す。廊下も応接室と同様に洋風の造りだった。木の柱は黒々と照り輝き、両側の壁に据えられたランプは淡い橙色の光を投げかけている。床暖房が効いていなかったら、数世紀前の欧州に呼び出されたと思ったかもしれない。
「野蛮人になった気分だ。こんなところで裸足でいると」
赤いカーペットにふたり分の影が揺らめいている。
「室内履きを利用する方もいます」
「君もそのようだ」
「私も慣れなかったもので……」
ちらりと道誉に向けられた横顔は、かすかな微笑を浮かべていた。
道誉たちがいるのがいわゆる本館というもので、三階建ての屋敷に食堂や執務室、大厨房など、諸々の共用スペースが集中している。元々は二階から上が刀剣たちの居住室だったそうだが、刀が増えていくにつれ手狭になり、最終的に図書室やランドリー室などに改装されたのだそうだ。ちょうど八つ時と夕飯の間で食堂は閑散としていたが、道誉たちを見かけると皆気さくに寄ってきては話しかけていく。挨拶と自己紹介を繰り返しながら、男士たちの名前と顔を頭に叩き込んでいった。こんな本丸に暮らしているのだから揃って西洋風なのかと思いきや、素足でウロウロしているものもいるし、握手に反応が遅れるものもいた。道誉の「先輩」はハイカラな部類だったようだ。
食堂での挨拶周りに時間を食ってしまい、夕食に間に合わせるため本館は途中で切り上げ、道誉の個刃部屋に向かうことにした。新刃は顕現して一ヶ月は、教育係の隣室に部屋が与えられる。無事に終了すれば引越しも認められるが、半分はそのまま居着いてしまうらしい。さて、どんな部屋だろうと思っていると、雲生の居室は四階建てのビルの最上階にあった。本館とはうって変わって未来的な内装の建物で、床は白いリノリウム、発光する天井ががらんとした廊下を照らし出していた。道誉の部屋はエレベーターを降りて二番目の部屋だった。
部屋のつくりは、ほぼワンルームマンションと同じだった。入ってすぐ両側に簡易キッチンとトイレ、バス、奥が居住スペースとなっている。家具は最低限だった。ベッド、テーブル、二脚の椅子。箪笥がない代わりにクローゼットがある。
「リフォームしても問題ありませんよ」
「君はしたのかい?」
「床を畳に替えました」
照れたように雲生は言った。
「引っ越す場合は元の状態に回復する必要があるので、大々的なものは一月後にした方がいいと思います」
部屋に関して不明点はなかったので、そのまま雲生の自室に案内された。
キッチンは綺麗なものだった。掃除が行き届いているというより、あまり使っていないことが知れた。床は確かに畳敷で、座卓と座布団があり、壁際の飾り棚には折り紙でつくった鶴や箱が飾ってあった。全体的に和風で統一されているのだが、なぜか寝床はベッドだった。それも道誉の部屋で見た、備え付けの金属剥き出しのシンプルなものだ。ベッドだけ明らかに浮いている。仮にベッドの方が快適なのだとしても、他にデザインがあるだろうに。
どうにも口を出したい衝動に駆られる道誉の前に、湯呑みが差し出された。
「どうぞ。遠慮なく飲んでください」
一口だけ口を付けるつもりが、気がつけばぐびぐび飲んであっという間に飲み干していた。こんなに喉が渇いているなんて思っていなかった。すかさず注がれたお代わりも瞬く間に腹に消えた。
「はじめは喉が渇いていることに気がつけませんよね。去年の夏はあやうく熱中症になりかけました」
三杯目を半分飲んだところで、ひとまず渇きは治った。
「なかなか、肉体をコントロールするというのは難しいらしい」
「大丈夫ですよ。そのお手伝いのために私がいます」
心なしか胸を張って雲生は頷いた。
「ハッハァ! 頼もしい先輩だ!」
「精一杯努めます」
雲生はにこりと笑った。
夕食の場で道誉の顔見せとなった。正面には「歓迎!! 道誉一文字!!」の手製の垂れ幕が掛かっている。道誉一文字の部分だけ紙で上から貼っているので、新刃ごとに名前の部分を貼り替えているのだろう。テーブルには豪勢な料理が並び、最初の陰気な印象と反して、存外お祭り好きの本丸らしい。審神者が道誉を紹介した。審神者は三十半ばくらいだろうか。道誉を顕現したときと同じ赤いサリーを身に纏っていた。本人曰くインド系日本人らしいのだが、浅黒い肌もまつ毛の長い大きな目も彫りの深い顔立ちも、分厚い絨毯のような黒髪も、「いかにも」インド人と思わせるだけで、果たして日本の血が混じっているとは思えなかった。
「今日顕現した、道誉一文字です。みなさんよろしくお願いしますね」
そう言った途端、審神者は手に隠し持っていたクラッカーをパーンと打ち鳴らした。続いて食堂のあちこちからクラッカーが鳴らされ、「ようこそー!」だの「歓迎!」だの声も聞こえる。道誉はたちまちこの本丸を気に入った。どうせ顕現するなら派手で愉快な本丸の方がいいに決まっている。審神者がくれたので、祝われる側の道誉もクラッカーを鳴らさせてもらった。
雲生が気をまわしたのか、道誉の席は一文字一家のところだった。
「よく来たな、道誉一文字」
山鳥毛の笑みは柔らかかった。屋内が暖かいどころか少々暑いくらいなので、ジャケットを脱いだ姿だったが、豪壮さの中にも気品がある。一旦道誉は微笑する頭に及第点を付けた。我らが福岡一文字の長なのだ。誰もが目を奪われるような存在でなくては困る。
「ハッハァ! 頭もご隠居も壮健そうで何よりだ」
するりと周りを見回せば、南くんは緊張して表情が固いが、みな血色が良く気力も充実している。しっかりした本丸に当たったようだ。道誉を見つめている日光と姫鶴に挨拶代わりにウインクをした。日光くんは変わらずの仏頂面で、お姫にはでかい舌打ちをされた。悲しいナァ……
山鳥毛とご隠居の間に座らせてもらう。日光くんがすかさず杯に酒を注ごうとして、則宗に断られていた。
「まあ一献と行こうじゃないか」
「ご隠居はイケる口で?」
「山鳥毛には負けるな。こいつはワクだぞ〜」
「それほどでもない」
当の本刃は目を伏せて笑っていたが、道誉は山鳥毛の酒の強さが尋常ではないことをすぐさま悟った。山鳥毛の「それほど」は大抵「得意」であるし、不思議とそういう振る舞いが嫌味に見えない刀でもあった。食事の最中では本丸での話や同胞の話に花を咲かせた。山鳥毛は饒舌で、器を空けるペースも早い。則宗は則宗で山鳥毛と道誉を面白そうに見ていた。隠居気分を満喫しているのだろう。乾杯の音頭に合わせて、水のように澄んだ酒を飲み干した。
背後で自室の扉が閉まると、くらりと頭が揺れた。壁に手をつき眩暈が収まるのを待つ。食堂では姫鶴ともふたりで話せたし(すぐ逃げられたが)、因縁ある刀たちとも色々話せて楽しかった。そうだ、楽しかったのだ。刺激的でエキサイティングな時間だった。「おれ、けっこうここ、気に入ってっから」ぶっきらぼうに言われた姫鶴の言葉を思い出す。
「道誉一文字は備前福岡の刀なのね」
審神者はビールジョッキ片手に言った。そのとき飲み会のテンションは最高潮で、周りはやんややんやの喧騒だったが、それでも気を使ってくれたのか道誉と審神者はふたりきりで飲んでいた。
「ハッハァ! その通り! 福岡一文字の刀だ。この名は佐々木道誉にちなんだものだ」
「福岡に行ったことはある?」
「いいや。京都にも岩手にもいたが、岡山に行ったことはなくてね」
「帰ってみたい?」
「君は帰りたくないのか?」
「両親は死んでしまった」
「ソーリー、それは悪いことを聞いてしまったな。故郷には帰る予定はないと」
「日本生まれ、日本育ち」
道誉を睨む。「すまなかった」今度はもっと真面目に謝罪した。
「道誉一文字は帰ってみたい?」
「オフコース! 我らが一文字の故郷だぞ!」
「そうなんだ。食べる?」
漬物のようなものを差し出された。
「何なんだ?」
「マンゴーのピクルス」
「フルーツじゃないか!」
大笑しながら食べると、思っていたより酸味が効いている。道誉もビールが欲しくなり、ジョッキに注いだ。
「乾杯!!」
ガチンとジョッキをぶつけあった。
酔い覚ましに水を飲んでみたが、一口含んで吐き出した。水道水とはいえ、とんでもなくまずい。塩味とは異なる苦みのある風味だった。こんなの飲んだら悪酔いする。もうこれは一階の給湯室に行くしかないと決意したところで、トントンとドアがノックされた。
「体調は問題ありませんか?」
居留守を使うことを考えたが、徐々にノックの音が大きくなる。最終的にドアが壊れんばかりに叩かれ「開けますよ!」と叫ばれたところで、観念してドアを開けた。つんのめった雲生とぶつかりそうになった。
「ああ、良かった! 倒れているのかと」
雲生は心底安心したようにため息をついた。
「ノープロブレムさ! ただ少し酔ってしまったようだ」
「こういった場合は水分を……ああ、まだウォーターサーバーがないんでしたね。失念していました」
天を仰いでうめいていた。
再び隣室に通され、今度はグラスに水を貰った。この部屋に来るたびに水分補給をしている。今度は向かいに座った雲生も、道誉と同じデザインのグラスで水を飲んでいた。
「楽しめましたか?」
「もちろんさ、同派も元気そうで安心した」
「素敵ですね。雲類はまだ私だけですから」
白い指がグラスを撫でる。指輪も何もない手だった。この刀は装飾品をほとんど身につけていなかった。インカムを外した耳にはピアス穴の痕跡もない。愚直に、与えられた使命に忠実に……
「顔が赤い。酔いやすいのかな?」
「そうですか? 飲んでいないはずですが……」
「飲まなかったのか」
「有事のときに酔っていたら正常な判断が下せません」
「確かに、ビジネスに周到さは肝要だ」
「ビジネスと思ったことはありませんよ。……失礼しますね」
雲生は立ち上がると、窓のカーテンを開いた。リモコンを操作し、部屋の灯りを落とす。曇天なのだろう。窓の向こうは一面雲が棚びいていた。月を隠してほの白く浮かび上がる雲があるだけで、星もほとんど見えなかった。
「空に惹かれるのです。この棟は本丸で一番高いところにあります。だから引越し先に選びました。我儘を言って部屋の窓も大きくしてもらったのです。日々は空を飛ぶための学びと実践の繰り返しです」
職務に忠実な刀だ。祖がこうならば、鵜飼派は大なり小なり似たような性質を持っているのだろう。
道誉の視力では暗闇の中の雲生をはっきり捉えることはできなかった。ただ闇に薄ぼんやりと白い人影が立っている。道誉に背を向けて真っ暗な空を見上げている。
「君の空への憧れは名のせいじゃないか?」
「そうかもしれませんね。それに、私たちの刃文は浮雲を写したものだそうですから」
声音はどこか上の空だった。きっと、この面白いところの何もない曇り空を一心に見つめているのだろう。今更ながら道誉は、雲生が今日一日ずっと自分と話すときは正面から、道誉に集中して相対していたことに気がついた。その彼が今、背を向けている。それほどの魅力がこの暗闇にあるというのだろうか。
「君は、君のナラティヴに随分馴染んでいるようだ」
「あなたは自分の逸話が嫌いなんですか?」
そんなふうに返されるとは思っておらず言葉が詰まった。酔っている。油断した。雲生はゆっくりとこちらに体を向けた。雲向こうから届く光はささやかなものだったが、雲生の毛先を白く照らしていた。蜘蛛の糸のような細く白い髪だった。
「それとも、佐々木道誉についてでしょうか」
「佐々木道誉について知っているのか?」
「調べたことしか知りません。友人もあなたと同じように元の主が号の由来となっているのです。元の主は友人のような刀にとって特別でしょうから」
「君の目から見た佐々木道誉は、どんな男だった?」
「私の目からですか?……そう、ですね、……読んでいて、はらはらしました。いつかバチが当たるのではないかともう心配で……」
「何を読んだんだ」
「太平記です」
「ああ……」
佐々木道誉を知るためだけに太平記を読むというのも、あまりなさそうな読書体験だ。
「都落ちのときに屋敷を調える話が好きです。私は風流な人だと思ったのですが」
雲生が言っているのは、南朝が攻め上り道誉たちが撤退せざるを得なくなったときの逸話だ。道誉は自身の屋敷には名のある大将が来ると考え、屋敷中を立派に調え、さらに遁世者に入ってきた将に酒を振る舞うようこと付けておいた。打ち入った楠正儀はその振る舞いにいたく感動し、屋敷を燃やさないばかりか、自身が都落ちする際に以前のままに屋敷を調え、秘蔵の鎧と白太刀一振りを置いていったという。正儀は楠正成の三男で、父と兄の戦死を受けて楠家の棟梁になったが、北朝方に寝返ったこともあるという経歴を持っている。太平記を含め、情け深い将として記述されることが多い。
「ハッ、太平記は佐々木道誉を古博奕打、要は古狸だと評価している」
正儀は道誉の人情を巧みに読んだ計略に引っかかり、貴重な鎧と太刀を失ってしまったというのだ。かしましい都雀の嘲りが聞こえるような話ではないか。
「それだけ心の機微に聡かったのなら、風流心から屋敷を調えた気持ちもあったのではないでしょうか」
この太刀ならば、そう言うかもしれないとは思っていた。だが、言われてみてもなお悪い気はしなかった。
「正儀の太刀は君だったのかもしれないな」
「それならば光栄です。固有の物語には憧れがあります。でも、もしかしたらあなただったのかもしれません」
──まさか!
「アウチッ、痛いところを突かれてしまった」
大仰な仕草で身を捩る。髪の毛が逆立つような心地がしていた。これがきっと生理的嫌悪といううものだ。確かに道誉の来歴は江戸時代までしか遡れないが、そんなことあってたまるか。
「小腹が空きましたね。あなたも食べますか?」
部屋に灯りがともり、雲生はキッチンへ踵を返した。道誉も立ち上がって彼の後を追っていた。雲生に悪感情は抱いていなかった。あの発言が道誉のからかいに対するちょっとした冗談だったのは明確であるし、軽いジョークに過敏に反応したのを上手く取り繕えた安堵もあった。雲生は道誉の動揺に気づかなかっただろう。それでいいし、だからこそ夜食の誘いを固辞せず残った。
狭いキッチンの脇に立ち、雲生の肩越しにフランスパンが切られていくのを覗き込む。固いパンがまな板に粉を振り撒きながら切り分けられていく。雲生は二枚切ってから手を止め、切り分ける厚さの算段をつけてからまた切り始めた。
「意外と慣れていないんだな」
「あなたは私より食べそうだと気づいたんです」
インスタントのコーンスープが作られている間に、頼まれるまま冷蔵庫からチーズとハムを取り出した。なんだか朝食のような夜食だが、冷蔵庫の中には食料自体ほとんどなかった。チーズとハム以外には、あとはバターとジャムと牛乳と卵くらいしかなかった。これらを使ったらいよいよ朝食になってしまう。まさしくブレックファーストと呼びたくなるラインナップになるだろう。
食材の質は可もなく不可もなく、それを素材そのままというのだから味も含めて質素なこと極まりなかった。だがアルコールで荒れた胃にはやたら沁みた。
「美味いな」
「それは良かったです。料理は苦手で、こんなものしか出せませんが……」
「真面目な君が意外だな」
「どうしても面倒に思えてしまうんです」
「食事は体を作る資本だろう?」
今日、目の前の刀に言われたばかりの言葉だった。だから食事の時間も大切なのです。そう大真面目に言っていたではないか。ため息をつく雲生に笑った。
「そう言われると返す言葉がないです。食事どき以外でも厨には何かしらありますから、空腹のときは行ってみるといいですよ」
「君はどんな料理が好きなのかな?」
「どれも美味しいですよ」
こういうところが自炊がシンプルになる理由だろう。
「ならば、おすすめは?」
「そうですね……。この前までは芋煮がよく出ました。当番によって味付けが全く違っているんですよ。奥深い料理だと思いました。カレーも具材がよく変わるんです。チャパティが付くこともありますし、ああそうでした、ビリヤニやマサラドーサが出ることもあります」
ビリヤニは辛うじて道誉の知識に実装されていたが、ドーサが何なのかは全く分からなかった。
「お酒を嗜む刀は自分で持ち込むこともあります。……あなたが練度上限を達成したら、お祝いに飲みましょう」
「飲めるのかい?」
「普段飲まないだけで嫌いではないです」
「ここでふたりで?」
雲生は目を丸くさせた。
「たいしたものは出せませんよ?」
「ノープロブレム。俺が手配しよう」
「風流人の刀ですからね」
「ザッツライト!」
笑う道誉に雲生も釣られて笑みを浮かべていた。
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