鉱物の庭ラピダリウム 蛍石の国 - 1
【蛍石】
フッ素を主成分とする鉱物。古くから製鉄における融剤として用いられてきた。加熱すると青白く発光するのが特徴。蛍石から作られるレンズはカメラや天体望遠鏡に用いられる。特定の方向に砕けやすい性質があり、割れると八面体になる。
***
廃墟のなかに肉塊が一つあった。桃色の脂肪は一定のリズムで鳴動し、確かにそれが生物であることを主張していた。皮膚は重力に負け、表面にいくつもの皺を作っている。左右非対称についた目は落ち着きなく周囲を探り、時折瞬いては睫毛で空気を揺らした。濡れた唇からは舌がはみ出、透明な唾液が床に滴っている。何かを求めるように伸ばされた腕は自身を持ち上げることができず、蛸の触手のように床を擦った。その生き物には骨がなかった。
瓦礫を覆う草がわずかに揺れた。骨なきものはその刺激を見逃さず、全身の筋肉を収縮させてゆっくりと這い寄る。葉を食む芋虫のように身体を持ち上げて瓦礫にのしかかろうとした刹那、不意に瞬く流星が陰から飛び出してきた。
光は尾を描きながら廃墟の奥へ逃れる。それは浅葱色の結晶だった。きらめく塵を撒きながら、一飛びに宙を駆けていく。餌を見つけた肉塊が全身を揺らして迫ってくるのを感じながら、石は火花を散らすように明滅した。崩れた建物の遺構を乗り越え、風を切り、暗がりのなかに一閃の輝く弧を描く。遠目から見ればそれは、あたかも星屑が瓦礫の迷路に迷い込んだかのようだった。
角を曲がると壁の崩れた箇所があった。考える間もなく外へ飛び出すと、そこは霧深い枯木の森だ。行くべき方角も分からず、木々の間を縫うように先へ先へと進む。できるだけあの化け物から離れたところへ。結晶の表面に細かな水滴がきらめいた。石の発する光を受け、空気中の水分は青みを帯びてぼんやり光っている。
ふと、霧の向こうに緑の光を見つけた。誰かいるのかと浅葱色の石は一瞬硬直したが、光はぼやけた視界の中で空気の揺れに合わせて震えている。それは、まだ萌え出でたばかりの若葉だった。枯木の森でただ一つの生命をみなぎらせ、灯のように揺れている。石は空中で止まり、芽を見た。なぜか視線を外すことができない。荒れ狂う波間に一つの小島を見つけたような、奇妙な静けさが心に去来する。遠い記憶のなかで同じ色彩を知っている気がした。六角柱の結晶はその葉に手を伸ばす。その先に、ぽとりと透き通った粘液が落ちた。
地面になぎ倒され、浅葱色が土に汚れる。脂肪の塊が全体重を結晶の上にのしかからせていた。唇が糸を引いて開き、踊る舌が光る石を巻き取る。次の瞬間、世界は生暖かい闇に包まれた。蠕動する壁に押され、肉の海に溺れる。自身の内部光が粘液を青く照らしていた。骨なきものの胃のなかで、鐘を撞くように低い声が響く。
「お前は我らが一部」
上下左右も分からぬまま、押し潰されながらもがく。湿度と温度をともなう暗黒が悪意をもって全身を蝕んだ。声は続く。
「お前は我らが芯、我らが柱」
「ここはお前の還るところ」
「我らを支え、王たらしめよ」
「お前は我らが一部、お前は我らが欠片」
違う。このような化け物と同じではない。被りを振るたびに粘液が頭にこびりついた。呑み込まれたくない。私は私だ。そのはずなのに、身体が徐々に溶かされる感覚がする。自分以外の明かりを求めて手を伸ばす。肉壁に呑まれて見えなくなる。
「お前は我らが──」
その瞬間、視界が真っ白に爆ぜた。空中を一回転、二回転と投げ出される。すべてがスローに映る世界で、ゲル状の組織が空から粒となって降るのを見た。続いて、地面がしたたかに背中を打つ。生ぬるい雨が全身に降り注いだ。スコールのような音が鳴り止むと、辺りは風の音一つしない静寂に包まれた。見上げた枯木の群れは、垂直に霧のなかに呑まれて消えていく。浅葱色の光はしばらく激しく明滅していたが、やがて少しずつ、そのペースを落とした。
地面に転がったまま、ふと横を見やる。傍らには緑色の蔓が伸びていた。死んだ木々が立ち並ぶこの森で、緑の生糸だけは内側から発光するかのように鮮やかな色を誇っていた。浅葱色の結晶はしばらくの間、片手で蔓に触れていた。永遠にも思える時間が経ったとき、頭上から鈴を振るような声が聞こえた。
「非合理的だ」
細く鋭い脚が視界の端に映る。見上げるとそこには、鉄の塊があった。声の主は続けて話す。
「骨なしに食われかけておいて草遊びとは、よほど豪胆か無神経と見える。あるいはとびきり呑気なのか……お前、立てるか?」
浅葱色の結晶はゆっくりと身体を起こし、地面を蹴って宙に浮かび上がった。目の前にいるのは物々しい鉄の甲冑を纏った、紫と緑色の結晶だった。制帽を押さえながら、鉄鎧の石は小さな紙片を差し出す。
「私は蛍石の国のフルオラ。国境警備隊だ。向こうからちょうどお前が食われるところを見た。狙撃が遅れてすまない」
フルオラが肩に担いだ長身の銃を揺らすと、その先端に取り付けられたレンズが光を反射した。銃には八面体と立方体を組み合わせた紋章が刻まれている。
「骨なしが急に動きを止めるまで狙いが定まらなかった。……まあ、言い訳は止そう。お前、名は何だ?」
浅葱色がゆっくりと沈み込むと、首を横に振る。フルオラは身じろぎした。
「……なに、覚えていないだと? 名前も、どこから来たかも? そんなはずないだろう。自分のラベルを確認してみるといい」
迷子の石は、困ったように身体を揺らした。見たところ、何かを携行している気配はない。思った以上に手強い相手と出くわしたことを認識すると、フルオラは八面体の頭を振った。
「まさかラベルを失くす石がいるとは……困った。これではお前の名前どころか何の石かも分からない。何者なんだ、お前は?」
浅葱色の石は記憶を思い起こそうとして頭を抱えた。意識は白いもやに包まれて、確かなことが何一つ思い浮かばない。ただありありと蘇るのは、たった今まで感じていた生ぬるい闇。細かいひだに覆われた肉壁。そして低く響き渡る声。
「お前は我らが一部」
浮遊する石は凍りついた。まるで隠していた罪を咎められたかのような冷たい感覚が心を貫く。違う。あんな化け物と同じではない。それでも手先が、脚が溶けて肉に馴染んでいく感覚が、今も身体に染み付いて離れない。迷子が突然震え出したのに気づいて、フルオラの内部の光は揺れた。
「ああ、いや、何も責めてはいないのだが……そうだ、せめてお前が何の石か分かればいい。その結晶形、か?」
六角柱の結晶はいまだに怯えた様子で首を傾げた。フルオラは顔の下あたりに手を当てる。
「いや、それにしては色が妙だ……アクアマリンやエメラルド、ベリルという線もあるな。あるいはトルマリン……それか、もしかして」
言葉を切って、フルオラは閃いたように顔を上げた。
「フローライト。お前はまさか、蛍石の国からこんな外れまで迷い出てしまったのか?」
迷子の石はじっと地面を見つめている。しかし天啓はフルオラに自信を与えていた。
「ああ、その可能性はある。一度、国に帰って検査したほうがいい。私と一緒に蛍石の国へ来てもらおう。……はて、お前を何と呼べばよいか」
浮遊する石が不安げに見つめるなか、フルオラは一瞬考え込み、言葉を続ける。
「そうだな、『リソス』。お前の名前が分かるまでは、仮にリソスと呼ばせてもらおう」
リソスと呼ばれた石は、不安げに反射面をきらめかせた。それにフルオラが応じる。
「ん? 別に大した意味はない。古い言葉で『石』という意味だ。お前は鉱物であること以外何も分からない。ゆえに、とりあえずリソスだ」
リソス。その響きを確かめた記憶喪失の石は、フルオラに念を押して確認するように光をちらつかせた。
「『自分が鉱物に見えるか』だと? おかしなことを聞くな。どう見ても石にしか見えないぞ」
フルオラが初めて軽く笑うと、リソスの光にはほんのり暖色が差した。自身の仮の名前を胸のうちで反芻して、闇の記憶を振り払う。やがて納得すると、リソスは命名に対する感謝を込めてその手をフルオラに差し出した。途端、フルオラが背後に飛びすさる。
「! ……ああ、いや、悪かった」
不思議そうに見つめるリソスに対して、フルオラはばつが悪そうに答えた。
「私はお前より硬いかもしれん。まだお前が何の石か確定しない以上、触れればお前を傷つけてしまいかねない。握手はお前の正体が分かるまで取っておこう。……おや」
フルオラはリソスの足元の地面に気を留めた。ブルーグリーンの破片が落ちている。先ほどリソスが地面に転げた際、ほんのわずかに結晶が欠けてしまったらしい。フルオラの光がやや翳ったのに、リソスは気づかなかった。
「いや、いい。国に戻れば分かることだ。自分の破片は拾っておいた方がいいぞ。それでは……行こうか、リソス」
浅葱色の結晶──リソスは、欠片を拾い上げるとフルオラの後についた。
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