口論
「ただいまぁ、焼き鯖買うてきたで。」と言うのが初対面の第一声だったと思う。
父親と暮らすことになった部屋に、まるで自分の家のようにして入って来たあの人は、ちゃぶ台で宿題をしていた僕を見て目を丸くした。
「……おい、四草、お前猫の子を産んだんか?」
「そんな訳ないでしょう。」と言って父はため息を吐いた。
その言葉に「冗談やって。」と彼は笑い、まるで自分の家のようにして上り框に荷物を下ろし、長いコートを脱いだ。
薄手でぺらぺらの長袖Tシャツに細身のジーンズ。
ひょろひょろとして背が高い人だ、というのが第一印象だった。
所謂美形と呼ばれる顔をした僕の父と同じように、その人には、成人した男性が持つ威圧感がほとんどなかった。それでも、初対面の人間にはやはり緊張してしまう。
挨拶をしていなかったことを初めて思い出したような気持で慌てて立ち上がり、「はじめまして。」と口にすると、こちらを見下ろす格好になったその人は、膝を折って僕と目を合わせ「名前なんていうんや?」と聞いて来た。
僕は、当時名乗っていた母の付けてくれた名を口にした。
今はほとんど口にすることもなくなった僕の名前を呼んで、彼は「えらい似とるけど、お前の子とちゃうんか?」とふたたび確認するように父に聞いた。
父は眉を上げ「猫ではないですが、僕が引き取ることにしたので。」と言った。
その時、まるで物真似をする前振りのように空咳をした父のその様子は、今でも印象に残っている。動揺した内心を反映していたのかも、と思ったのは少し後になってからのことだ。
「お前んとこまで、一人で来たんか?」
「いえ、母親が連れて来ました。僕はもう顔も忘れかけていましたが、あちらは僕がどこで飲み食いしていたのかは覚えていたようで。」
「そうか。」
僕の前でふたりはまだ話を続けている。
見知らぬ男の人は、まるで自分の家であるかのように、台所に立ち、片付いた流しの上に、手にした紙袋から、大きな串と尻尾の飛び出たビニール袋を出した。
さっき言っていた焼き鯖とはこの魚のことだろう。
夕飯が店屋物ではないことに僕はホッとした。
「苗字はそのうち変えると思います。」
「そうか、それがええかもな。」とその人は父に言って、僕と向き合った。
優しい目をしている。
彼は微笑み「よう来たなぁ。今日からここがお前のふるさとやで。」と言った。
ふるさと。
父と暮らす狭い部屋には似つかわしくないように思えるその言葉を聞いて、僕は、学校で習ったばかりの歌の歌詞を思い出した。
頭の中で、学校のプレイヤーで流れる少年少女合唱団の声に合わせて、うさぎと鮒と窓際にいる九官鳥とがダンスを踊っている。
あの頃の僕は、母に捨てられ、父に押し付けられたような形になったことに心の奥底で反発していたのか、ほとんど緘黙に近い状態だった。白状すると、僕を捨てた母は、粗相をした僕をこういう目で見つめた後にいきなり頭を叩いてくる人だったので、少し緊張してもいた。
けれど、ひとこと挨拶をして名乗ったきりで、ずっと黙っている僕のことをじっと見つめて「安心しい、こいつ、見た目のわりに面倒見ええから。」とその人は僕の頭を撫でた。
父は、その言葉を聞いて舌打ちをした。
小声の早口で、豆腐の角に頭をぶつけてしまえばいいのに、という言葉が聞こえて来て、心の中で僕は首を傾げた。
(その言葉の後に、もっと物騒な一語が慣用的に足されるというのは、後になって知った話だ。)
「兄さんも自己紹介したらどうです。まだ名前も言ってへんでしょ。」
―――あの頃の僕は、飼っている九官鳥の名前と、倉沢忍という本名の他はほとんど何も知らなかった。まさかこの人こそ本当に僕のおじさんに当たる人なのだろうか、とは思ったが、そんなことはないだろうことも分かっていた。
父に似た面差しでもなし、きっと、これまでに僕が出会った「草原兄さん」「草々兄さん」「若狭姉さん」と同じようなものなのだろう。
そんなことを考えていると、その人は唐突に「オレは、徒然亭草若や。ここに住んどるさかい、底抜けによろしくな!」と言って、『ソコヌケ』と言うタイミングで、僕の前で妙なポーズを取った。
「兄さん……もうそろそろ出てってくださいよ。」と言って父はため息を吐いた。
「おい四草、お前何冷たいこと言うてんねん。ここ追い出されたら、オレ行くとこあらへんがな。」と言いながら、父の三人目の「兄さん」は冷蔵庫の中を物色している。
残念ながら、その中には納豆と卵と漬物くらいしかないけど、と僕は心の中で思った。あの頃の父さんは僕を引き取ったばかりで出費がかさんでいたこともあって、アルバイトも続けてはいたが、とても貧乏だった。
「うちの隣の部屋、空いてますけど。」
「……家賃勿体ないやろが。」
「そう言うだろうと思って、隣も僕の名前で契約しておきましたから。」
「はあ?」
「隣の方は若狭と草原兄さんに連帯保証人になって貰いましたから、逃げないでくださいよ。」
「おま、……お前なあ……そこは草々にせんかい!」
「僕も草々兄さんに頭を下げるのは嫌ですから。」
「………オレの住む家を勝手に決めるな、て言うてんねん。なんぼ隣でも、引っ越したら寂しいやろが。」
「草若兄さん、子どもが見てますよ。」と父が言うと、その人はぱっと顔を上げた。怒っているのか、頬が赤らんでいる。
「おい、四草、それはずるいで。」
「ズルくはないでしょう。もし師匠が生きてたら、笑って見物してるとは思いますけど。」
「……しゃあないなあ。」
その後も何度も聞くことになる彼らの口喧嘩の輝かしい一回目はそんな風に始まって終わり、僕が焼き鯖にありつけたのは、それから十分後のことだった。
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