1

坂を下る途中で、小雨がぱらつき始めた。
「降って来たましたね。」
譲介が顔を上げて立ち止まると、頬にぽつりと雨粒が落ちた。
道玄坂にほど近い劇場で、TETSUが知り合いから押し付けられたというチケットで劇を見た帰り道だった。
内容はシュールな現代劇で、税金を差し押さえられているはずの女の家から出て来た色々な服を、ふたりの警察官が取り出して着せ替え人形のように顔の前に当てて行く、その過程の掛け合いで手がかりやヒントを得て、ふたりが殺人事件の犯人の正体に目星をつけ、犯行の全貌に迫っていくという、二幕の推理ものだった。
現代劇を見た後で必ず譲介の頭の隅に浮かぶのが「面白みはあるが、分かりが良くない」という結論で、演劇の師匠であるところのTETSUの好みが移ってしまったのか、実際のところ、翻案された古典の方がまだ馴染みがあるくらいだった。
互いに、途切れ途切れに劇の感想を言いながら歩いていたところで降り始めた雨は、そのうち、無視できないほどに大粒になってきた。
おい、邪魔だ、という声が後ろから聞こえてくる。
雑踏の中、譲介の隣を歩いていたTETSUは、やにわにこちらの肩を組んで「この先はしばらくコンビニもねぇ、とりあえずこのまま歩いとけ。」と言った。
譲介はもうあと二年もすれば成人で、その後なら、酒を飲むのは付き合ってやるとは言質を取っているけれど、それまでの一年半、この年上の人は、まだ未成年の守役代わりでいるつもりらしい。
「この人出じゃ、走って逃げ切るのは難儀だ。」とTETSUに言われて「雨足から逃げ切るのは、どの道難しいと思いますけど。」と深く被ったキャップの下で譲介は笑った。
現地集合からの、ほぼ現地解散。いつもの夜の、デートとは言い難いデートコースで、譲介の家のある最寄り駅までふたりで肩を並べて歩くこの短い距離が、一番それらしい時間だった。
譲介が高校を卒業してやっと、TETSUと観劇するのに夜の外出が解禁されるようになった。
――遅くとも十時くらいには家に帰り付けるようにしておけ。終電に近くなればなるほど、醜悪な酔っ払いが増える。人間観察の機会とでも思わなきゃ、やってらんねえぞ。
そうした年上の人からの忠告は、譲介を家に帰してさっさと自分も家に帰るための口実じゃないかとずっと思っていたけれど、先月、ボウリングをしてみたいという一也に誘われて行ったラウンドⅡで、興が乗って四ゲームもしていたせいで、常日頃から聞いていたその言葉に嘘や裏表がないことがはっきりと分かった。
そこかしこの吐しゃ物をうっかり踏みそうになるような危険が付いて回る夜のホームは、大声で歌う者、あるいは人に肩を借りて歩く酔っ払いの姿、ベンチに座っていびきをかいている酔漢に、その肩を揺すっている警備員らしき男。およそ人間博覧会の様相だった。
渋谷の街の雑踏は、場所と時間は違うけれど、あの夜のホームで感じた雰囲気に近い。
既にシャッターを下ろした店の壁に手を付いてえづいているサラリーマン風の男と、その男の背をさすっているタイトスカートの女性の背中から目を逸らすと、TETSUの舌打ちの声が聞こえてくる。
「あれが演技なら、百点満点ですけど。」と譲介が咄嗟に言うと、TETSUは少し愉快になったのか、「違いねぇ。」と苦笑に近い笑みを滲ませた。
今夜は、どこから調達して来たのか身体に合ったダスターコートを身に付けていて、隣で歩いていると、おろしたての秋コートが不釣り合いに子どもっぽ過ぎやしないかと妙に気に掛かる。
雨は、ふたりの頭や肩を濡らしている。
譲介は、肩から提げた鞄の中に入っている傘を出そうかどうか迷った。
出来れば相合傘をしたいと思うけれど、元々が、非常用に入れている完全に一人用の折り畳み傘で、成人男性ふたりで使えるほどの大きさはない。一人しか入れない傘なら、おめぇが入って行け、と譲介に譲ることは自明だった。
そのうちに、雨が本降りになり始めた。譲介が、慌てて傘を取り出し、一緒に使いませんか、と言うと、TETSUはさっと片手を挙げ、流しのタクシーを呼び止めた。
電光石火の早業だ。
ほとんどドアが開くと同時に「駅まで行ってくれ。」と素早く言って、こちらの肩を押して中に身体を押し込もうとする。
「あの、TETSUさん。」と顔を上げると、TETSUは口の前で人差し指を立てた。
そのジェスチャーに、一緒に駅まで行くのだろうか、と思った譲介が奥の席に身体を寄せてみると、TETSUはその合間に、運転手の方を向き直り、譲介の実家から一番近い最寄り駅を伝えると「この傘、借りてくぜ。」と腕を伸ばした。
手にしていた傘を、するりと取り上げられる。
そぼふる雨に頭や肩を濡らしながら「また今度な。」と愉快そうに笑う年上の人の笑顔に見惚れている間に、無情にもタクシーの扉は自動で仕舞ってしまった。
やられた。
捕まえた客は逃がさないとばかりに運転手はアクセルを踏み、タクシーは、ゆっくりと雨の中を走り出している。
「お客さん、目的地、さっきの方が言った駅で大丈夫ですか?」と運転手が尋ねて来るが、もう遅い。別れ際に渡そうとタイミングを計っていた地方ロケの手土産は、まだ鞄の奥に仕舞ったままだ。
Uターンして戻ってくださいと言ったところで、あの人の姿を見つけることは難しいだろう。
この街は、人の流れが早すぎる。
譲介は、自宅の住所を告げて、雨が伝う車窓を見つめた。
窓に映るのは、すっかり不機嫌になってしまった自分の顔と、さっき見たあの人の笑顔だ。
また今度、なんて。自分でも、あんな風に格好を付けるのが格好がいいと思っている人を、どうして好きになったのだろうと思う。
「……あの傘、ちゃんと使ってくれたらいいけど。」
譲介が思い出せる記憶の限りでは、傘の直径よりあの人の肩幅の方が広い。
風邪を引かないでくださいね、とラインを送ってみても、なしのつぶてだ。
あるいは、劇場で電源を切ったきり、スマートフォンに電源を入れていないのかもしれなかった。
明日、久しぶりにあの人の家に行ってみようか。
傘を返してもらいに来ましたと言えば、断られはしないだろう。
譲介は、背中を後部座席の背もたれに身体をもたせかけて、ゆっくりと目を瞑った。






2


駅の改札を出たところで、パラパラと小雨が降り始めた。
愛知での公演を終えて帰宅途中のTETSUは、コンコースの中のコンビニでビニール傘を買おうとして、斜め掛けリュックの底に入っているはずの傘をふと思い出した。
譲介が去年の十二月に買って来た、緑色の折り畳み。
リュックのチャックを開けてごそごそと底を探り、一度使ったかどうかというその傘を取り出す。
これ使ってください、と言って、譲介が例年歳末になると贈って来るハムの詰め合わせと共に差し出された傘は、スターバックスのクリスマス仕様の紙袋に入れられてTETSUの家にやって来た。
折り畳みと言うのは、使った後には広げて乾かしてまた畳んで置く必要があり、そうした手入れが面倒と感じる人間にとっては、言うほど便利なものではない。ちょっと風が吹けば、すぐおちょこになって使い物にならなくなるところも、気に食わないと感じる理由のひとつだった。
流儀や信条というほど格好を付けるような話ではないが、若い頃は、小雨くらいなら、そこらに置いても惜しくないビニール傘すら買わずに済ませてしまっていた。
今思えば、ただのずぼらだ。
それなりの金を張り込めば、骨が確りとした丈夫な傘は買えないでもないが、演劇談義に顔を出せと言われて飲み会に行けば、軽く諭吉が飛んでいくような時代の話でもあった。そもそも、こっちはほとんど雨の降らない土地だ。本業の合間に続けていた土方のバイトも、ちょっとした天候の悪化が仕事の中止に直結した。金を掛けるべきところじゃねえな、というのがTETSUの持論だった。
こんな風に傘を使うことが頭の隅に過ぎるようになったのは、譲介と連れ立って外に出歩くようになってからのことだ。
最初の頃こそ、雨に濡れたら家に走るぞと言っていたが、毛色のいい仔犬のような子どもにドライヤーを貸して、雨が止むまで家に引き留めていると逆に帰りが遅くなる。門限はないと譲介本人は言うが、親に確認した話しでもなかった。
TETSUの家にある本のうちの相当数が、絶版になってしまっていて、書店で買おうとすると手に入らないものも多かったので、濡れると都合が悪い、というのも理由のひとつだ。まあ、譲介でなくとも、国会図書館で借りろと言やぁ、本を読むのも億劫になるだろう。
そのうちにTETSUは、雨が降り始めたらコンビニに立ち寄り、ビニール傘を買うのが習慣になった。
あの頃のTETSUの家に、譲介に貸すための傘のストックは全くないと言う訳でもなかったが、昔の女から貰った花柄の傘を子どもに貸すのはどことなく気が引けて、後の引っ越しの際に捨ててしまった。
狙ったわけではないが、そうしたタイミングで新しくTETSUの元へとやって来たのがこの傘だ。
カーボンの骨で軽いし邪魔にはならないと思います、と言って、譲介はクリスマスカラーの袋ごと差し出してきた。
実用品とはいえ、消えものではないプレゼントを受け取るのはほとんど初めてに近かった。
誕生日が近くなればケーキ。
歳暮の時期には、クリスマスプレゼントです、と言ってハムの詰め合わせ。
クリスマスが過ぎればブッシュドノエル風のロールケーキ。
バレンタインになれば、それらしい風にパッケージされた期間限定のコーヒー豆。
洒落ているものもあれば、そうでないものもあった。譲介が、TETSUと一緒に飲み食いできるようなものを選んでいるように思えた。
いつもいつも食い物というのも、悪くはないが、と思っていた矢先に持って来たのが、この傘だ。
――たまたま、目に入ったので。
やけにぶっきらぼうな言い様をするあの日の譲介のぎこちない顔を思い出しながら、明るい緑色の傘を広げると、やっと肩幅が収まるという大きさだった。
こうやって見ると、緑もそう悪い色でもない。
適当なタイミングで、靴でも本でも、何かあいつに買ってやるか。そんなことを考えながら、TETSUは、雨の降る街を歩き始める。
足元が濡れて不快だったが、それでも、なんとはなしにいい気分だった。


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