春嵐と貝殻
彼女はきまって窓辺に座っていた。
診療所の、その二階部分にあたる窓辺が彼女の定位置だった。庭の銀杏の木を背負って、目があえばやわらかの声音で「やあ」とあいさつをする。
いつのまにか窓辺に座って碌に見えない通りを見下ろしたり、持参した本を読んだりしている。鍵のかかっていない窓からするりと侵入して居座ることもあれば、己の不在中に土産だけおいて立ち去ることもある。
猫のような少女で自由気ままにふらりふらりといつも宙に浮いているようだった。地に足が着いていないというのだろうか。事実、彼女は星を往く開拓者であるから留まらないという点で的を得ている。
貰った土産はどこかの星の草花、平たい石、用途のわからない機械のパーツ、破れた小説の一ページだ。
いつだったか、箪笥の二段目に仕舞い込む自分に彼女は「律儀だね」と呆れたように呟いた。それから「捨ててもいいよ、ゴミでしょ」と続けた。たしかにすべて使いどころのわからない中途半端なものばかりで明日ゴミに捨てたとしてもそれらはなんら不思議ではないものばかりであった。
「ゴミではない。だから捨てない」
明確な言葉があったわけではない。ただ彼女が自分にこれを渡す意味を考えてみた。星穹列車の開拓者がわざわざ丹鼎司の一角の、地味な診療所に立ち寄る理由。疲れているのかもしれない、何かの気まぐれだったのかもしれない。考えてみても本当のことは少しもわからなかった。それでもこれらをゴミだと思うことは彼女を拒絶することと同義のように思えて論理も整合性もなく子どものような感情に振り回されて首を横に振ったのだ。
すると彼女は心の底から呆れたように、ほんの少し仕方がないというような大人びた顔で笑った。
「センセイはものを捨てられないんだね」
だからこんなに部屋がぐちゃぐちゃなんだ。
まるで整頓のできないように云うのはやめてくれないか。手の取りやすい位置に置いているだけだ。
そういうと彼女はちいさな口から白い歯を覗かせた。
「また白露に怒られても仕方ないんだから」
通り雨の匂いが残る初夏の昼下がりであった。
彼女は俺のことを「センセイ」と呼ぶ。
診療所の「先生」で、学校の先生みたいに物知りだから「センセイ」。
発音は訛りもなく滑らかなのに呼ぶ声だけはどちらかと言うと癖がある。「センセ」だったり「センセー」だったりする。
数年前に子どもと鬼ごっこをしていたときに派手に膝を擦りむいたと診療して以来、ちょくちょく交流がある。王老師の門下生のひとり――華月に手を引かれ、左足を引き摺りながら彼女は診療所にやってきた。
「先生、転びました」
腹の底から出したような声に「手元が狂う」と咎めると華月はあっと口を塞いだ。華月の身体を確認するが外傷は見当たらない。
「ごめん、転んだのは私なんだ」
抑揚の薄い声と同時に華月の後ろからひょこりと銀髪の少女が顔を出した。琥珀色の瞳は人懐っこく丸まっている。既視感に眺めると「膝を見てくれない?」と笑われた。慌ててすまない、と零すと「いいよ」と軽い返答があった。
ざっと見た様子では血でべっとりと濡れているがそこまで深い傷ではなさそうだった。閉院時間も近く患者もいなかったため華月に表を閉めてもらった。少女はひょこひょこと足を庇いながら歩いて診察室に入った。
膝を消毒し絆創膏を貼る間、彼女は昨日吊るしたばかりの薬草や薬品棚を興味深そうに見ていた。どこかでこの顔を見たことがあるような、と記憶を辿っていると彼女は「センセイでしょ」と口を開いた。
「……一応、この診療所の院長をやっているが」
「そうじゃなくて王さんとか、そのあたりの子どもがよく話してるんだよ。センセイは丹鼎司の薬よりも苦いものを出すけど隠れ名医な上に博識だって。学者先生でもあるんだよってね」
「それは間違ってはいないが正確とは言えない」
「マジメだ。先生ってかんじ」
「はあ」
薬箱を棚に戻しながら曖昧に答えた。こういうときにどう返答すれば最適なのかよく知らない。人との交流よりも書物に囲まれている時間が長かったからだ。
少女は回転椅子に座って「これクッションは素敵だけどギシギシ鳴るね」と身体を揺らした。その椅子は二百年前の開院祝いに飲み仲間が贈ったものだ。公務ばかりで使いどころがないのだとぼやきながら酔った勢いで羅浮一の調度品を扱う店に連れ込まれた。翌日小さな診療所に置くにはまったく釣り合わない調度品が次々と運ばれるのを目にして二日酔いとは別に頭が痛くなった。
「このメーカー、神策府御用達のやつだ」
「わかるのか」
「いろいろ長く見てきたから」
服装から殆俗の民だと検討を付けていたが年頃の少女にしては渋い趣味だと思った。ゆったりと構えて木目を撫でる姿を眺めているうちに、とあるパレードの様子を思い出した。
その日、医学書を読んでいても勉学に励めと口うるさい師匠はどういうわけか本を取り上げて「行くぞ」と言った。
着飾った師匠は絢爛な衣装や髪飾りを机や床にボトボトと落として衣装棚をひっくり返した。職人の手掛けた羽のような美しい布は皺になり見るも無残な姿で丸まっていた。
師匠は龍尊として粛々と式を執り行い一族から羨望のまなざしを受ける一方で、実のところ行事が終わればぶつくさと文句を垂れて年端のいかない少女のように甘味を強請る。が、その日はそんなこともなくどこか決意硬く口を結んで凪いだ瞳をしていた。
「仕事は」と訊くと「手短に済ませてきた」と云った。一番地味な衣を着た師匠は俺に笠を被せると手を取って遊龍のように通りを駆け出した。
街中新年祭のような騒ぎようだった。
人に押されて揉まれて足を踏まれて踏み返しながら二人で前に進んだ。規制線目前で手が解けて背を思い切り叩かれた。あっ、と規制線に体当たりするようにパレードの最前列に飛び出すと、ほぼ同時にワッと周囲から声が上がった。
鼓膜を揺らした喜色の溢れた祝福の声。太鼓と鈴と二胡の楽団。視界に散らつく七色の紙吹雪。彩豊かな風船。
晴れた空のしたで鈍色の雲に似た髪が風に靡いた。それから星の光りのような瞳。それが確か、一瞥を投げたような気がして。
「センセイって何歳?」
あのときと何も変わらない眩い双眸が俺の目の前で細くなった。一方でこてりと首を傾げる少女に俺は静かに狼狽えていた。心臓が忙しなく動いて手に汗が滲む。棚に詰め込まれた瓶を不必要に並べ替えるほどに緊張していた。
「四百年はおそらく越した」
「長寿だね」
「仙舟で言えばまだまだ若輩者の域を出ないが」
「聞かなきゃ誰もわかんないよ」
「……お前が聞いてきたんだろう」
「おっと、ごめんごめん」
お前、と言ったしまった。よかったのだろうか。気安くなかったか。貴方、それとも敬称をつけて呼ぶべきだったか。ただあまりに自然に出たその呼び方にかちりと嵌るものがあって戸惑う。
星を征く開拓者。知識を溜める為と手当たり次第本を読んだのは幼心に焼きついた彼らへの憧憬があったから。星穹列車のナナシビトが綴った幾冊もの開拓譚を読み漁り、師匠に彼らの話を強請った幼少期が思い出されて落ち着かない。
本を最後に読んだのは随分と昔のことであるから当代の開拓者がどのような人物たちかは知らない。シリーズの中で一番繰り返し読んだ内容は四百年以上前に現役だった開拓者の物語。つまりアキヴィリの星軌が絶たれてから列車が再び空を駆けるようになった頃。
中身のない会話をしながら彼女の名前が思い出せずにいた。そもそもこのような少女がいただろうかとすら思う。
「センセイのことは知っていたんだよ。白露のところに通っていたでしょ」
「師匠のことを知っているのか?」
「うん。いつか会ってみたいなと思ってたんだけどなかなかタイミングが合わなくて。でも今日は運よく近くで怪我をしたから行ってみようと思ってね」
「運はよくないと思うが」
「運いいよ、だってセンセイいつも忙しそうだったから」
「イケメンだからモテモテなんだね」と茶化された。
「それでも怪我はよくない」
「はいはい、気をつけるよ」
「師匠の客人であれば俺も無碍にはしない。それにお前は星穹列車のナナシビトだろう」
「あれ、自己紹介したっけ」
「……羅浮と列車の関係を知らない者などいないだろう」
濁した答えに彼女は気にした素振りもなかった。代わりに僅かに身を乗り出して回転椅子を軋ませた。
「ね、怪我はダメだって言ったじゃん。つまりさセンセイのところ、用がなくても来ていいってこと?」
「……――は」
「おっと」拍子に取り落とした瓶は少女に難なく空中で掴まえられた。
「そこまで驚くことかな」
「それは」
驚く驚かないの話で言えば自分の反応はあまりにも大袈裟に映ったことだろう。
口籠る俺を他所に少女は「ここでいい?」と薬瓶を棚に収めた。肩を並べ、彼女の華奢な体躯と薄さに思わず息を潜めた。
「大丈夫、わたしイイ子だよ。利口だしセンセイの仕事の邪魔はしないよ」
「利口とかそういう話ではなくなぜ」
「アキヴィリのお告げって言ったら信じる?」
「信じる信じないの話ではなく俺はお前の名前を知らないから」
だから、と言う問題でもないのだが。それはすこし不公平というか。
白状すると少女はぴたりと動きを止めて軽く両手を挙げた。それから、ごめん、とそれまでの饒舌さを潜めた。
「星」
「せい」
馴染みのない異星の単語。そっと唇に乗せると、うん、と首が縦に揺れた。茜色と白んだ逆光の中で彼女の顔はわからない。瞬きをした影が震えた。
「星」
もう一度呼ぶ。
先ほどよりも確かな輪郭を持ったその名前を声に出せば今度は、せんせい、と空気が震えた。言い出したのは彼女なのにまるでこちらの機嫌を伺うような声色で心許なかった。それにどうにも胸が詰まって、うん、と頷くと星はまた「センセイ」と口ずさんだ。
南側の自室のドアを開けると風が吹き上げて前髪を勢いよく乱した。
あたたかな風が昼下がりで影の多い部屋で渦巻く。机に放っておいた本がめくれる。舞って外へと逃げようとした紙は白い指につかまえられた。
「ずっと開けていたのか」
「湿っぽいとカビるかなって」
「風が強いな。下にいたら全くわからなかった」
「おまけに天気もいいよ。お昼休み?」
「ああ」
「じゃあセンセイが戻るときに私も出るよ」
窓枠に座る銀髪は靡いて、乱れたり、束になったりした。突き抜けるような青空を背景に星のからだは揺れている。風に乗って淡い花の匂いがした。眸は黄色のスイセンの花弁のようで瑞々しい。
「センセイ、なんだかポヤポヤしてる。眠いの?」
「すこし」
素直に答えれば瞳はほんの少し意外そうに丸まった。揶揄われることはなく、鼻歌でも歌うかのように星はわらった。
センセイ、こっちにおいでよ。と星は空いた窓枠を指さした。
窓枠に腰掛けて通りを見ると人々の足取りもゆるやかで、服も柔らかくあたたかみのある色ばかりであった。軽やかに動く人は風に流れる花弁を想わせた。
「センセイ、手をだして」
手を出すと小さな貝がらが転がった。内側は真珠層で虹色の光沢が鮮やかだった。屋内の昏さに呑まれない眩く美しい一枚貝。
「種だよ」
「種?」
「真珠の木が生える。伊須磨州で拾ったの」
「……そんな植物があるとは聞いたことないが」
「私が発見の第一人者だからね。埋めてみればわかるよ」
声色はいつも通りで冗談なのか本気なのか分からなかった。本当かと尋ねても「本当かもよ」と適当に返されるだけだ。星はいつもそうだった。
星は手の中の種をツンとつついた。丁寧に切りそろえられた爪は桜貝のようだった。
「真珠はいつなるんだ」
「え、やってみるの? たぶん五〇〇年くらいかかるよ」
「見ることは難しいな」
「確かにね」
星は頷いた。
「で、本当に埋めちゃうの?」
「今は埋めないが……」
「今は埋めないが?」
「百年後にでも埋めようと思う」
形のいい眉が跳ねる。
「なんで百年後?」
「外来植物、しかも新種ならば申請を出しても許可が下りるのは研究が一段落した百年後くらいだろう」
「出た、長命種思考」
「それに今は忙しい。これ以上何かを世話することが出来ない」
「センセイいつも忙しいじゃん。あとこれ以上ってなに世話してるの」
「大きい猫みたいなものだ」
「猫みたいなもの」
それって猫じゃないと思うけど。と星は訝しげに呟いた。
「それで、おそらく百年後も忙しいだろう。だからお前も時々来て水をやってくれ」
「めんどくさがり屋だ。センセイの方が世話が焼ける。返してよ」
「これはもう俺のものだが」
「だから人のものを捨てようとするなって? センセイって急に子どもっぽい屁理屈捏ねるよね」
「お前や将軍から見れば俺はずっと若造なんだろう」
「将軍の言ったこと気にしてるの? 言葉の綾だよ、流石に子どもだとは思ってない」
「思われても困る」
「それはそうだね」
丸い貝がらの内側を指の腹で触る。滑らかでうすい。人々は陽気で、色が淡く弾けて、香りは澄み切ってどこか甘い。
「――春だね」
乱れた髪の隙間からいとけない笑顔が覗いていた。
一瞬が網膜に焼きついて、瞬きさえも億劫だった。肌を滑る風と手中の種が僅かにつめたい。
「春か」
声に出してようやく言葉が身体に馴染んだ。
花と陽光の匂いが鼻先を擽る。欠伸を噛むと星は目じりに薄く皺をつくった。この部屋に、春はもうずいぶんと前から来ていたのだなと思った。
powered by 小説執筆ツール「notes」
221 回読まれています