デートしましょう



夜のしじま。
表からドアの鍵が開く音が聞こえて来る。
やっと帰りやがった。
明かりの下で論文を読むために掛けていた眼鏡をテーブルに置いて、冷蔵庫から水を出しておいてやる。
玄関まで出迎えてやる義理はねぇ、とリビングに顔を出すのを待っていると、譲介は、アウターも脱がずに中へとやってきて「徹郎さん、今からドーナツを食べに行きませんか。」と藪から棒に言った。
「ドーナツだぁ?」
「ええ、ドーナツ。」と譲介は満面の笑みを浮かべて頷き、「僕が行きたいんです。行きましょう一緒に。」と重ねて言った。
っ、たく。夜中に騒々しいやつだ。血色はいつも通り、顔色はそう悪くもない。恐らく酔っぱらっているわけではないだろう。休息が足りず、脳のリソースが足りず、優先順位も付けられないくらいに疲弊していることを本人が自覚していないだけで。
徹夜明け、というより、夜はまだ明けきってもいない時間だった。
五時間弱の手術を終え、部屋に戻って来たばかりの譲介が、いつもの、ただいまのアレもせずにここまでぐいぐい来るのは、明らかに様子がおかしい。ランナーズハイみたいなもんだろう。まあ自分の若い頃のやらかしを考えれば、深夜にドーナツショップに殴り込みをかけるくらいは奇行の範疇にも入らない。
「さっさと寝ろ。明日も早いっつってただろうが?」と頭を掴もうとすると、「僕とデートしましょう。恋人同士みたいに。」と頭が湧いたようなことを言って抱き着いて来た。
「おい、譲介……今のおめぇは運転できる状態じゃねえぞ。」
抱きすくめられた状態から腕を出して背中を撫でてやると、譲介からの強めのホールドは、徐々に落ち着いた抱擁に変わってきた。
このまま締めて落としてやるのが親切か、と思い始めていると、譲介は「店は歩けるところにありますから。」と言って、目を瞑った。キスを求められてるかそうでないかは、流石に脱力した身体の具合で分かる。
「譲介ェ、目ぇ開けろ。おい、コラ、」
このヤロォ……ぺちぺちと頬を叩いても目を開けないので、そのままアウターを引っぺがして床に落とした。じゃらじゃらとした鍵やスマートフォンが入ったままと分かるゴトン、という音がしたが、知ったこっちゃねえ。そのまま、入眠した身体をベッドまで引きずって行った。
広い主寝室にあるキングサイズのベッドに、脱力した譲介の身体を転がす。
上手いことうつ伏せの姿勢になったので、そのままジャケットも脱がすことにした。
仕立てのいい背広は、恐らく朝倉のガキの趣味に合わせたもんだろう。金の掛かったイタリア風の仕立ては悪くはないが、妙に気にくわない。
後はこのままで、――いや、ネクタイくらいは解いてやるか、と仏心を出して身体の向きを変えると、こちらを向いて目を開けた譲介が、電気も付けない薄暗がりの中で、こちらに向かって微笑んだ。オレがこいつを拾った頃の、人を小馬鹿にするような笑みとも、自嘲する時に浮かべる笑みとも違う、開けっ広げな顔で。
そうして、「あなたが好きです。ずっと一緒にいてください。」と言うだけ言って目を瞑る。
「寝やがった……。」
寝言は寝て言え、と言ったところで、後の祭りだ。首元のネクタイをゆっくりと解いている間にも、すうすうと穏やかな寝息が聞こえて来る。
三十路になって、また図太くなりやがった。
「全く、……いつまで経っても面倒くせぇガキだぜ、おめぇは。」
あの二度目の別れのように、こちらの返事を聞かず、言いたいことを言いやがる。
「オレも大概しょうがねえがな。」と言って頭を掻く。
三十も年が下の男と同じベッドで寝る理由なんか、考えなくても分かるだろうに。
いや、分からないのか……?
暗い中で、白いシャツが光る。その灯りのような白さに導かれるようにして、心臓のない方の胸の上に指を触れさせる。この薄い皮膜の下には、オレが付けさせた傷がある。
「……寝るか。」
体の下になってしまった掛け布団を諦め、予備の羽毛布団をクローゼットから引っ張り出して譲介の身体に掛ける。
「おやすみ、譲介。」と。あの頃には言えなかった言葉を口にして布団に入る。
明日はこいつを昼まで寝かせて、そのドーナツ屋とやらに連れてってやるか。
目を瞑り、譲介の身体から放たれる温かな温度を感じながら眠りに就いた。

ロサンゼルスの夜は、ゆっくりと更けていく。

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