弁当箱

「……カレー粉?」
FedExで送られてきた大きな段ボール箱は、村からの支援物資だった。
こちらから荷物を送ったので、受け取るようにとK先生からビデオチャットで連絡があって五日。毎日カレンダーの日を数えながら玄関横の宅配ボックスに荷物が届くのをわくわくした心地で待っていた譲介は、待ちに待った開封式を終えて酷く落胆した。
譲介のための大きなつづら。その中に詰められていたのは、市販のカレールー、多種多様なスパイス、混ぜるだけでカレーが作れるセットに、ルービックキューブくらいの大きさで中にみっしりとコシヒカリが詰まった白いパッケージだった。隙間には、味のり、イシさんの弁当のメインがおにぎり弁当だった頃に好きだったふりかけや梅干しなどが詰められていた。中身を検めた直後は呆然としていたけれど、よくよく考えたら笑ってしまう。
そもそも、どうしてイシさんの手製のカレーが荷物の入っていると思い込んでいたのか。
荷物の宅配が五日かかるはずのアメリカと日本の間で生ものを送ったらどうなるかなんて、少し考えればわかるだろうに、すっかり失念していた自分がおかしかった。
中には封筒が入っていて、一筆箋で皆からの手紙が添えられている。
『米はそっちで買えるだろうと思ったが、譲介はこっちの米で食べた方が良いだろうとイシさんが言うので詰めて置いた。』
『譲介君、そっちで友達出来た?』
『カレー以外に好きなもんを作れ。』
『皆、譲介君の料理の腕前はそれほど心配してないようだ。英語の方もそろそろ上達したかい?』
『研修医の高品です。君がいた部屋を使わせて貰ってます。いつか帰国する機会があったらここで会おう。』
「……あの人か。」
ビデオチャットの時に、先生に呼ばれて顔を出した同年代の男の顔はまだ覚えている。
また弟子を取ったという話に驚きはなかったが、その男と交換で、六年の長きに渡って都会の学び舎で過ごして帰郷した一也と宮坂を、また武者修行に出したという話には耳を疑った。あの二人が、東京の水が合うと言って戻って来なかったらどうするのだろうと余計な心配までしてしまったくらいだ。
それにしても、懐かしい。
往診で遅くなった日にカレーは冷蔵庫、と書かれたイシさんのメモ書きを何度見たことだろう。
村井さんや麻上さんの字は、譲介も持ち回りで書いていた日報の中にあった。
K先生はカルテ。
高品さんのカルテは、きっと見やすいだろう。
あの道を通って、診療所に帰るのも、K先生の診療鞄を持つのも、もう自分の役割ではない。
そう思うと、急に寂しくなった。
あそこに戻りたい、とは思わないが、うっかりホームシックになりそうな気配がして、譲介は立ち上がった。こういう時は、近所のスーパーマーケットでちょっといい肉を買って来て、それから電器店で圧力鍋も買ってもいい。牛こまや豚こまと言った薄切り肉の文化のない場所で、肉の棚を探して。今のマンションから歩いて五分に場所にある南インドの店のマトンカレーを真似て、自作してもいい。
「……米って、炊飯ジャーがないとき、何で炊いたらいいんだ?」
こんなときは先人の知恵だ。譲介は、さっとスマートフォンを取り上げ、朝倉先生の番号を押した。


「譲介、おめぇなんだこれ。」と聞かれ、「あなたの今日の昼ご飯です。」と譲介は笑った。
朝起きたばかりで寝癖を付けたTETSUが見つけたのは、キッチンテーブルの上に並べて置かれたふたつの弁当箱の包みだ。
インターネットで買った、TETSUに使ってもらうための二つ目の弁当箱とそれを包むバンダナがやっと昨日届いたのだ。譲介の青とは色違いの緑の弁当箱で、別売りの箸もカトラリーも併せて食洗器対応になっている。
ふたり分の昼食を冷まして、蓋をしたのがちょうど彼が起きて来る直前だった。
譲介が自炊を始めたのは、渡米して暫く経ってからのことだ。週に一度だけの自炊、と思っていたのが、弁当作りに目覚める――というのは言い過ぎだろうか――までに時間は掛からなかった。
クエイド大学と地続きの財団には、広大な敷地内にふたつの食堂があり、今の職場でもランチはほとんどそこで食べている。
月曜日と火曜日は早めに起きて、週末や前日に作ったものを詰める。大学に入ってからの忙しさというのは、体力的には村にいた頃ほどではないけれど、慣れない英語の学習などで精神的に疲弊していたらしく、汚れた弁当箱を食洗器に放り込むことを忘れないでいられるのが火曜日までのことだと学習したからだ。週の初めの二日間。それだけのことだが、食費の少しばかりの節約にもなるし、朝の出勤前の時間を有効に使っている気分になる。そういうところが気に入っていた。今の弁当箱は二代目で、ベーシックなカラーリングが気に入っている。
「弁当箱は鞄に入れられる大きさにしたし、あなたが多少暴れてひっくり返してもいいように、丈夫なやつを買いました。」
昼の時間がなかなか合わないので、朝や夜しか食事を共にすることはないけれど、ふたりで同じ弁当を食べているなら、一緒に食事をしているようなものだろう。
カレーか、と鼻をうごめかせているTETSUに「良かったら、昼まで中は見ないでください。」と返すと、譲介のパートナーは苦虫を嚙み潰したような顔になった。ハートマークを書いたオムライスを思い浮かべていそうな顔、と思う。あながち間違いでもない。
テーブルを挟んだままTETSUに向き直り「大丈夫ですよ、真田徹郎さん。あなたの主治医を信じて。」と小さな子を診るときの調子で言うと「患者のいる廊下であんなことしやがる馬鹿のことをどうやって信用しろってんだ。」とTETSUは言った。
昨日の昼、廊下で盛大にハグしたことをまだ根に持っているらしい。K先生ばりの手術のトリプルヘッダーは無理だけれど、ここ暫くは、朝倉先生の新しい手術のサポートや、自分が執刀するいくつかの難しい手術が続いていた。夜、妙な時間にベッドに入って起こしてしまうよりは、とリビングのソファで寝起きしていたせいで、この人とは家に帰ってもろくに顔を合わせることが出来なかったのだ。少しくらい羽目を外して好きな人の匂いを吸ったところで、バチは当たらない気がする。
それにしても、いつかの仮眠室では、もっと凄いことをしたこともあるのに。どうしてハグくらいのことを気にしてしまうんだろう。
「いいじゃないですか。誰かに見られている廊下なら、僕も自制が効きます。」と言って、譲介はTETSUに近づく。髭剃りの後のアフターシェーブローションの匂い。こちらに来てから変えた洗剤の匂い。そして、彼自身の匂い。
体温の分かるゼロ距離は、もう譲介に許された場所だ。
キスは家でたっぷりしていきましょう、と言って譲介が後ろから抱きしめると、TETSUは観念したようにこちらを向いて目を瞑った。



powered by 小説執筆ツール「notes」

593 回読まれています