男子高校生の日常 その8



晴れた九月の日曜の夕暮れ時。
譲介は広く美しいシステムキッチンの一角で徹郎の隣の席に座り、なぜか焼きナスとピーマンが入った野菜カレーを食べていた。
サラダは別腹と言わんばかりの大きさのサラダボウルに入っていて、食卓の中央には鳥の唐揚げがクリスマスツリーの如く山盛りになっていた。何を食えばそれほどにょきにょきと背が伸びると思っていたら、という目線で隣の徹郎を見ていると、シンクの前で片付けをしていた徹郎の母親が、背中に目が付いているのかと思うようなタイミングで身体をこちらに向け「おかわりならあるから、どんどん食べてね、譲介君。」と笑った。
「あ、……りがとうございます。」
白いエプロンを着たままの徹郎の母親と目を合わせることが出来ず、顔を上げた譲介はぱっと俯いた。この人を目の前にすると、こうした母親がいたらいいだろう、という気持ちが心のどこかに湧いて来て、譲介は調子が狂ってしまう。
「きょうのリレー、素敵だったわよ。おばさんちょっとときめいちゃった。」
ときどきさらりとこういうことを口にするが、徹郎の母の表情はあくまで上品で、屈託がない。
譲介はいつものように相手の目を見て笑っていなすことが出来ないので、黙々とカレーを口に運んだ。
「おい、譲介、これもやる。」と隣から徹郎が直箸で譲介の皿にひょいひょいと唐揚げを入れて来る。
皿を手でさえぎるのも大人げないと思ってそのままにしておくと「お前、もう足の速いのをひけらかすの禁止な。」と言いながら、自分でも唐揚げの山を黙々と胃袋に納めている。
「タイムはそれほど変わらないだろ。」
「お前が九秒台、オレは十秒台。」
徹郎は、将棋の山崩しのように、揚げたての唐揚げを上の方から崩れないように取って行く。
箸の使い方が上手いのだ、とその様子を眺めて譲介は思う。
譲介が、千切りキャベツの上にコーンが乗ったコールスローサラダを取りこぼしながらなんとか食べていると、徹郎がこれ使え、とフォークを差し出す。
サラダの上に掛けられたドレッシングは赤っぽい色味で、けれど妙に美味しかった。聞くと、ケチャップが入っているのだという。
「ご飯とルーをおかわりしていいっスか?」と譲介が立ち上がろうとすると、「カロリー消費したからとか女みたいなこと言ってメシどか食いしてたら太るぞ。」と徹郎が言った。
「うるさい、徹郎。」という譲介のいかにも小学生が言いそうな反論に「……チッ。」と徹郎は舌打ちする。
「徹郎さんもお疲れ様。騎馬戦よく頑張りました。ちゃんと見てたわよ。」
一緒に食事を囲めばいいのにと思うが、彼女はエプロンを身に付けたまま、流しの横に掛けてある白い布巾で手を拭き、擦り傷とこぶの出来た徹郎の額に手を当てた。
「額のとこ、寝る前にちゃんと冷やしなさいね。」と母親に気遣われて「分かってる。」と徹郎はそっぽを向いた。


運動会が終わった。
夏休みが明けてからここしばらくというもの、授業を終えた放課後には連日、譲介と徹郎は、半強制的にリレーやダンスと言った競技の練習に明け暮れていた。
クラスはそう少なくもない高校だ。その中で、一組と二組は赤、三組と四組は青と言った具合に、完全な縦割りでスクラムを組まされる。
普段は帰宅部で、なんだかんだで好きに時間を使っている徹郎と譲介は、三年や二年の見知らぬ年長者相手に表立って逆らうことも出来ずに、自主性を見失った状態でうかうかと貴重な時間を無意味な運動に捧げることになった。
運動会には、決まって昼過ぎに応援合戦があり、いわゆる長ランと言われる長い学ランを着るような風習がなくなった今では、応援団と言っても作り手不詳の創作ダンスで競うことになる。
来賓者席前の前面はダンス部の有志で固め、その他大勢は後ろで踊ることになる。アイドルのバックダンサーのような動きというよりは少し前衛的で、気恥ずかしさからか、男子は誰も真面目に取り組んではいなかった。
譲介と徹郎が通う高校では、運動会が始まるまでの数日、さして活動が活発ではない運動部の練習はほぼ全面的に休みとなり、去年優勝したチームが優先的に学校のグラウンド使用権を与えられることになっている。二年の昇級でクラスが固定したまま三年になるという学校の方針のせいで、去年成績が良かった団は今年も良いというパターンが多い。
譲介と徹郎の所属する団は去年三位だったらしく、夕暮れ時にだらだらと高校の近所の川原まで歩いて行き、いくつかの場所に散って、ダンスや走り込み、競技練習を続けていた。手足を動かしながら中学の時の盆踊りの方が幾分かマシだな、と思っている譲介の隣で、徹郎は、流石にこれはわざとではないだろうかと思えるぎこちない動きを続けていた。譲介に勉強を教えるときだけは妙にきびきびと動く手足だ。
徹郎は、そもそも標準より背が高い。授業でうたた寝などしようものなら直ぐに教師に突っ込まれるほどだ。昔からこんな風であれば、動きを間違えれば他の子どもより注目されるということもあるのかもしれなかった。明るい音楽が消え、ダンスが終わった直後はいつもふてくされたような顔をしているくせに、譲介に向き直る時にはいつもの笑顔になっている。
その移り気な顔が、妙に目に焼き付いた。
競技はといえば、普段の足の速さから四種リレー、百メートル走と色々とやらされる羽目になったためトラック競技が主立った活躍の場だった譲介とは違い、徹郎は、その手足の長さを買われて騎馬の足だの綱引きのしんがりに近い場所だのを任されて散々な目にあった。
まあ体格を考えれば順当なところだろう。三年で運動部ともなれば、もう大人の体格に近い人間もいるけれど、一年生はまだ中学生の面差しがある子どもが大多数で、その中でも徹郎は頭一つ抜けている。
騎馬の足は思った通り大変だったらしく、さして体格の違わない相手を乗せることになったと聞いてはいたけれど、案の定本番でバランスを崩したのだ。審判をしている教師が気づくのが遅れて、別のチームと接触してあわや棒倒しになりそうだったところを、譲介が、その辺りに居たニ、三人を引き連れて間に入って受け止めた。戦力外の人間が中に入ったのがルール違反というので最下位になったが、後で徹郎と一緒に軽く膝を地面に擦ったり他人の肘が目の近くに当たったりした数名で保健室に行くと、一部始終を外から見ていた養護教諭からは褒められ、少し休んでから戻れ、と小さな冷蔵庫の中からその場にいた人数分のスポーツ飲料を渡された。
鉢巻きを草臥れたサラリーマンよろしく首にぶら下げているのはいくらなんでもだらしがないから縛り直すか外してポケットにでも入れておけとは言われたが、学年主任のいない場所では皆こんなものだというと、ものの分かった顔をした大人は、グラウンドに戻る前にはなんとかしろと言って日誌を書き始めた。
飲み物を飲んでどうでもいいような話をしているうちに時間は過ぎて、総合点が発表になる前にクラスごとに分けられた椅子のある場所に戻った。
結果は四位。
四チーム中の四位だった。おそらくは騎馬戦が大きな事故もなく有効だったら、もう少しなんとかなっただろうという気がしないでもない。
最下位のチームは毎年ひとつは出るもの、大きなケガ人が出なかったことだけを覚えて来年に繋げましょう、と団長になった三年生が締めた。
もうすっかり九月が終わったような気分で、徹郎と並んで教室に戻った。
埃まみれの身体で、今日はこのまま戻るしかないなと思っていたら、徹郎に、カレー食いに来いよ、と引き留められた。
前置きのない誘いだった。
今週は金曜に食べてないだろ、と言われ、それもそうかと譲介は頷いた。
それもそうか、とはちっとも思ってないけれど、真田家のカレーが食べられるという前提のもとで、譲介の意思はコーヒーに入れた角砂糖のように脆い。
誘われるままに徹郎の家に行き、流れで風呂場を借りて埃っぽい身体を洗い流し、カタカナでレッド・ツェッペリンと書かれた浅草辺りの観光客土産に売ってそうな徹郎の兄のTシャツを着て、漸く人心地が付いた。
そうして、帰るべき場所には帰らずに、美味しいカレーを食べている。
手の掛かる同級生と、その母親に囲まれて、帰ったら何か腹に入るのだろうかと贅沢で億劫な心配をしながら。
「譲介君、今日のリレーの写真ちゃんと撮ったから、今度来た時に何枚か持っていってね。」
「ありがとうございます。」
「おふくろ、オレのは? オレの写真、」
変なのあったら譲介に見せる前に処分しとかねぇと、徹郎は言った。
「徹郎さんのは少ないわね。今日は五歳に迷子になった時ぶりに泣いてる写真撮れるかと思ったんだけど。」
「………。」
「譲介君、徹郎さんの小さい頃のお写真見たい?」
「ハイ、見たいです。」と譲介は頷く。
「譲介ぇ……カレー食っただろ、お前もう帰れ。」と徹郎が言う。
もし天国というものがあるなら、ここが天国に一番近いような場所だと譲介は思う。
徹郎が、ジュースあるから帰る前に飲んでけ、と言って、磨かれたタンブラーにオレンジジュースを注ぐ。
その太陽のような明るい橙色を手に取って、譲介はゆっくりと飲み干した。

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