ラジオ体操の歌・1





 店の外で初めて生で見た松枝弓美弥とは、まるで知らない人のようだった。
 あの薄暗い店内が隠していたのは人の醜悪さだけでなく、これほどまでに誰もがきっと無視できない芸能人オーラをも覆っていたのかと思ったらやはりあの店はおかしな雰囲気だったんだなと妙な気持ちになる。
 最も、店長だって平均身長よりもよっぽど高いしすらっとしていて顔だって悪くない。でも、それとこれとは全く別次元の話なんだと分かってしまうほどには弓美弥のいで立ちとは本来特別なものだったのだとたった今思い知った。
「あ、世戸ちゃん。こっちこっち」
「……こんにちは……」
「時間帯的にはこんばんはだろー??? 緊張してんの?」
「いや、まあ色んな意味で。というかそのマスク意味あります? そもそも売れっ子俳優がこんなとこに出入りしていいんですか?」
「ええーーー? 売れっ子かどうかも微妙だし俺まともな人間で売ってきてはないから別に支障ないけど心配してくれてんならアリガトっ♡」
「……んぅ……」
「言っとくけどほとんどの主演作AVだからね?? 一応メインはノーボーダーのモデルだしさ。今更キレイな生き方装ってるほうが気持ち悪いって」
「ふーん……というか、自分のしてきたことそういう風に言って、傷つかないんですか?」
「……」
 はっとして口を噤んだが、対する弓美弥は余裕の表情で微笑んだまま特に何も言わなかった。
 相手に心を許していればいるほど脳直で言葉が出てくるこの口とは、出来得るならばとりかえてしまいたぐらい人生のネックとして未だここにくっついているのには自分が一番辟易している。小さくすみません、と口走ったのだけれど、地下へと降りる階段の途中だったので多分聞こえなかった。
 先を行っていた弓美弥が防音扉の前で立ち止まると、せこちゃんはさ、と振り向いた。
「別にそのままでいいんだよ。そのまんまのせこちゃんを大事にしてくれる人ってのは、この先もどこに行っても多分思ったよりもたくさんいるよ」
「…………」
「だから大丈夫。あとさ、俺ここ結構久しぶりなんだよ。酒飲むと割と流されやすいから誘われてそうだったら止めて! ヤりたくはねーんだ。ほんとに」
「え?」
「雛和眞にバレたらマジで殺されるから、ね、頼んだよマジで」
「えっ……!?」
 こうして、会員制のアングラバーであるJIZOUのコールタールより真っ黒な防音扉が弓美弥の手で今開かれた。
 酒も煙草も性も火遊びも少しも興味などなかったこれまでのつまらないなりに難しい人生。それでも今日初めて夜の坩堝に足を踏み入れんとする理由には、多少なりともあの日店長を救ったのが自分じゃなかったという圧倒的敗北感からくる虚無によるものだった。
 別に刺激が欲しいとは思っていない。弓美弥の言うヤるとかヤられるとかそういった実体的な経験が欲しいとも思っていない。
 ただ、長い間ずっとお気に入りだった物語が突然終わってしまったようなそんな猛烈な寂寞感に耐えられなくて、次はどこに行けばいいのか、誰をどう想って生きていけばいいのか、ふいに考えてみたくなった。
 それだけだった。



(ラジオ体操の歌・1)



 一方で、店長のことは未だに好きだ。
 でも、抱きたいとか抱かれたいとか、そういう気持ちには正直なったことがなかった。
 だからあの日、榛葉の胸に恋人の名前を呼びながら抱き縋ったその姿を見た時、店長はずっと誰かにそうしたかったのを我慢していたのだと理解した。
 そんな発想なかった。それは多分、恐らく、自分は生涯で一度も本気で人を愛したことがなかったからなのかなと思った。
 確かにあの日、ベルジャンは長い長い夜を超えようやっと”一区切りついた”のだろうがそれからも何が変わることは無く、恙なく営業は続いた。
 けれど、なんとなくだったが、あの夜以降店長と榛葉の間には何か揺らがない気持ちの糸が繋がってしまったような気がしていて、それを蚊帳の外で見ているのが段々しんどくなってきたのは事実だった。
 バイトをやめようかな、と思いながらそれもできずに微妙な距離感で店長と喋る時間を少しずつ憂鬱に感じてしまっていた。
 最も、店長は分かっていたと思う。元々無暗に話題を振ったりはしない人だったけれど、喋り辛そうにしていたのを察してか店長から喋りかけるのを意図的に抑えてくれていたように思う。
 必要最低限の会話と、精一杯穏やかな空気感。まあそれはそれで、罪悪感で苦しいわけなのだけれど。
 どうしたものかとしばらく一人で悶々としていた最中、一昨日の帰り際に突然二人で飲みにいってみないかと誘ってきたのがこの松枝弓美弥だった。
 今思えば、わざとらしく距離をとっていたのをきっと店長に相談でもされたのだろうとも分かる。
 でも、薄く勘付いても断らなかったのは今のままここに居ても、店長もベルジャンも、それにかかわるすべての人が嫌いになりそうだと思ってしまっている自分をどうにもできそうになかったからだ。
 だってもし嫌いになっても、他に行くところもない。新しい人間関係を作ったり、増してや一人で居場所を確保していける自信もなかった。
 そもそも、嫌いにはやはりなりたくなかった。
「ゆみ久しぶりじゃあん!? まだAV撮ってんの?」
「最近は休んでる。ひかるが忙しいってさ」
「ふーん、でそっちの子彼氏?? タイプ変わった~?」
「どう見ても違うだろ。見ろよこのよそよそしさを」
「おばーん。え待って弓美弥じゃね? 生きてたのかお前??????」
「あれ、クソトップ代表のイカレ尚喜クンじゃん~~隣にはくんなよお~~」
「久しぶりに会ったのに滅茶苦茶嫌われてて草」
「ゆみちゃんこっち来てよーー」
「あ? 誰が行くか阿婆擦れ。てめーはぜって~~~~こっちにくんじゃねーぞ」
「は!?!? うざすぎて逆にめろいんですけど!!!! 死ねよ!!!!」
「…………」
 気を遣ってか入口を入ってすぐのカウンター壁側の一番端の席に座らせてくれたので今のところ実害は被ってはいないが、思ったよりも貞操の危機を既に感じているのはいかがなものか。
 相当古株なのか、居た客も入ってくる客も今のところ全員が弓美弥弓美弥と声をかけたがその隣に座る自分のことなどほぼ誰もがスルーした。もしや場違い。頭の上にどーんとその言葉が乗っている気がしてなけなしの心がソワソワした。
 それでも、横目にして決死の知らんぷりでジントニックをひたすら舐めているといつの間にか正面にきていたマスターがゆみとはどんな関係? と静かに声をかけてきたことに躊躇する。
 というか、完全に背後に気を取られて油断していた。人と喋るのやり方が急に難しく思えて軽くパニックになる。
「……え、? ……ぇと、……お構いなく……」
「あれ、驚かせちゃいました。すみません」
「いや、その、きゅ、急に言われると、……すみませ……」
「せこちゃん、最初っから騒がしくてゴメンネー。マスターいいひとだからちょっと喋っててくんない? 減らず口一匹殺してくるから」
「えっえっ、え待って弓美弥くんっっ……!!!! 一人やだっ、まっ……げほっげほっ!!!!」
「まあまあ。弓美弥がずっとここで子守してくれるのを期待する方が間違ってるよ。あの子は渡り鳥だから同じ場所にはずっといられないでしょ」
「げほ、……ワタリドリ……?」
 さっさと向こうに行ってしまった弓美弥を後目に盛大に咽せたせいで出た涙を拭いなんとか言葉を繋げる。弓美弥がいいひとだと言うからにはこのマスターに縋るしか今のところ助かる道はない。
 少し高めのしっとりとした中性的な声。世間一般的なフィクションで見ると、大体こういう人物はいかがわしいものだ。黒幕とかドンとかボス的な立ち位置だったりする。
 怖いので冷えた銅マグを口まで持ち上げながら、ちらっとだけマスターを見遣る。柔らかな表情。たれ目のグレーがかった瞳と目が合った。
「ひかるが動く小島だったからあれほど長く一緒にいられるだけ。ああいう人たちはね、留まったら死ぬんだよ。だから特別なの。君はゆみにとっての何だろう? 考えたことある?」
「え? ……まあ、ない、ですね……」
「抽象的だったかしら。ゆみから見たら君はどんな人?」
「……ええ……事実ベースで言うと、弓美弥くんにとっての俺は店長の店の従業員、ですかね」
「随分情緒がないねえ。なるほど。君ベルジャンのバイトくんか」
「知ってますか、ベルジャン」
「そりゃ界隈の仲間だもの。知ってますよ。朗二くんはお変わりありませんか?」
「…………もしかして店長もここに来てましたか」
「そのうえ会話下手? 来てましたよ。たくさんではないけど、朔夜とたまに」
 サクヤという響きに思わずびくっと身体が揺れた。それは、顔も声も性格も生い立ちも知らない自分にとっては赤の他人だ。されど、好きな人が例え自身が壊れても一身に愛することをやめられずにいる悪魔の化身。どんな人だっただろう。どんな人生を送りどんな言葉をどんなトーンで話した人だったろう。
「…………」
 よっぽどおかしな顔をしていたのだろう。マスターは無言で目を伏せて透明なタンブラーを磨きながらそうだなあ、と聞いてもいない過去の話をしだした。

◇◇◇

 その日珍しく一人だけでやってきた朔夜は、一言二言の世間話をしただけであとはぼんやりと何かに耽っている様子だった。
 そもそもアルコールアレルギーを持っている朔夜は、ここにはそれほど頻繁には訪れず、来るとしても大概は駅前のおばけテナントにカフェバーを開業したという嶌田朗二と一緒だった。
 この嶌田朗二というのが界隈ではちょっとした有名人で、若くして店を持ったこともそうだったが本当に純粋に飲食業を愛して止まない生粋の飲食店マニアでもあった。
 居住区は勿論のこと、時間があれば気になる店を徹底的に食べまわり何の屈託もなくその店の味を覚えて歩く変態。食べるのが好きで料理も好きで、お客に喜んでもらうのも大好きならこれ以上飲食店に向いている人間もいないのだろう。
 朗二のそのとても真摯でまっすぐな界隈への愛情は、触れる度にみんながみんな絶対にいい気分になれるようなそんな強い魅力をもった人だった。
 そして朔夜とは、その朗二の人生においてはいつでもどこにでも付随していなければ”成り立たない”ある意味とても重要な人物であったのには違いない。
「珍しいね朔夜。朗二は忙しい? 今日はね、オレンジとイチゴ。どっちがいい?」
「……あー、どっちもいいね。余ってる方で」
「じゃあイチゴ。……大分寒くなってきたね」
「うん。ああ、ホットワインがどうとか言ってたなそういや」
「……ぶどうジュースあっためようか?♡」
「いや、いいよわざわざ」
 素っ気ないのはわざとだ。朗二の近況はさりげなくスルーし、されど、連絡が滞っているわけではないアピールか。あまり触れられたくないのだろうなと嫌でも察することを強要されているようで可愛くはない。
 こういう時、対面している場合当然二択だ。喋らせるか黙っているか。
「いちごレモンお待ちど!」
「ども。てか今日はろー来ないから。詮索やめてね」
「やだ何も言ってないじゃんーー。何かあったの?」
「…………」
 一瞥されると、ストロベリーレモネードの炭酸がしゅわあと音をたてる。肩を竦めて目を逸らす。
「ごはんは食べてきたの?」
「だからあ」
「だって意味深じゃん~。そもそも聞いて欲しくて来たんじゃないの?」
「……。……いやま、……そうなのかもな……」
「そうだよ。じゃなきゃさっさと家帰ってヌいて寝るでしょ」
「…………俺ってさあ」
 思ったより深刻に憂いめいた顔をした朔夜が、目を伏せたまま大層不安げにぶつぶつと低く零しはじめる。
 いかんせんこれがまた、なかなか”面倒”で”長かった”のだけれど。
「例えば、俺のせいで朗の人生ダメにしても一生一緒にいたいって本気でずっと思ってたんだけどさ」
「うん」
「いざあいつの夢がバーンと叶ってさ、嬉しそうにしてる朗見てさ、周りからもすげーとかよかったなって喜ばれてんの見て、なんつーか、……俺実は言うほど何にもしてやれてないよなあ、って思ったら意味わかんないんだけど、素直に喜んでやれなくてさ」
「うん」
「頭でも表面でもめちゃくちゃ喜んだつもりだったんだけどさ。でも、朗には嘘通用しないのね。特に俺のは全然バレる。俺は喜んでんだけど、なんだろう、朗はほんと一人で何でもやっちゃうしやれちゃうんだよ。マジでそれはスゲーと思う。でもそれ、俺朗の人生に必要じゃないって言われたような感じして」
「うん」
「朗が素直じゃないのは昔からだから、それはめっちゃ分かってんだけどさ、今それ、俺にとって一番きつくて、好きだっつったら好きって言って欲しい時あるでしょ人って。それしてくんないのは、俺にだからだって、甘えてくれてんだって分かってんだけど、てか、まずさ、心からおめでとうって言いたいのに、俺が俺として朗の側にいる理由がわかんなくなって上手く処理できてなくてしんどい」
「……うーん」
「好きなことして成功して幸せな今の朗って、俺みたいな何ものでもない人間に興味あんのかなって考えたら寝れないぐらい鬱なのマジで。朗の人生隣で見てるだけでいいって思ってたのに、朗が俺を必要としてるって確証が欲しすぎて気が狂いそう。だから吾妻くんとかと楽しそうに店の話してんの見ると、すげーなんか人としてダメになるぐらい嫉妬してんだよね」
「おー……」
「今までの俺だったら朗が困るとか関係なく絶対容赦なく邪魔してたよ?」
「でしょうね」
「でも、今の俺がそれはできないって思うのはさ、朗が夢叶えちゃったからそれに関係する人も物も全部あいつの夢の一部じゃん? 自分本位で壊せないし裏切れない、てことは朗が一人でやっと叶えた夢が俺も大事だって思ってんだよ。俺の気持ち以上に」
「へえー」
「え聞いてる???????????」
 ただの嫉妬を大分拗らせてるなあと思いながらその盛大な吐露に聞き入っていたが、怪訝な顔でそう問われて思わず営業スマイルが出た。
「聞いてるぅ」
「んとかよ聞いといてマジでさ」
「朔夜より大事なものが出来た朗二に拗ねてるんでしょ要は」
「は??? そうは言ってねえだろ別に」
「え何? どこ?」
「朗が、俺より店が大事、とは言ってねえだろって言った」
「……えー、ああ、まあ、そうだね。それは確かにネ。でも朗二がそれとこれとは話が別ぅ! 朔夜だって大事だよあたりまえじゃんめんどくさ! ちゅ! って言ってくれたら躁状態になれるってことで合ってるでしょ?」
「合ってる。ろーがそれ言ってくれたら俺今マジでよく寝れる」
「ならやっぱり構ってもらえなくて拗ねてるだけじゃん」
「さっきそうは言わなかった。俺より大事なもん出来たことに拗ねてるっつった」
「え~へへ~ごめえん~そんな変わるかな~~」
「ハアーー、やだもうしんどい……俺もやろっかな店……」
「ていうかソレ、飲食店業界でも朗二の一番になりたすぎててマジできっしょ~~。二人だけの世界じゃん束縛系って呼ぶよマジで~」
「別に呼べば? 俺は出来ることならそうありたいね。何であの時一緒に飯屋のバイトしなかったのか今になって超後悔してる。中華ぐらいならマジ出来そう」
「中華舐めんなよ? てか朔夜に飲食は無~理~! 大体全部美味しい分類でしょ??」
「そんなの朗だってそうじゃん」
「バッカ、あんたのは食えれば美味いでしょうよ一緒にしなさんな」
「ハアーーーーー、俺だって吾妻くんちの唐揚げ定食一番美味いって言われたい」
「それはみつに嫉妬してるだけね」
「そりゃそうだろ。男に嬉しそうな顔で話しかけんなっつの腹立つ」
「メンッドクサーーーーー!? 言っとくけど朗の方がアンタのその性格に耐えてる方だと思うけど!?」
「知らん。別に頼んでねーって話」
 不機嫌そうにしながらふと腕時計を見るので、さてはスマートフォンの電源を切っているなと勘付いてやれやれとため息を吐く。
 よくもまあ、自分抜きで楽しそうな恋人が気に入らないという話をここまで色々な話にこじつけて考えられるというものだ。いっそ潔く素直に嫉妬していると言ってしまって呆れられながらもお前が一番だよのセックスをすればいいだけのことじゃあなかろうか。
 夢がどうのとか喜んであげられないとか建前のお気持ちを並べて拗ねる口実を増やしても朗二にはその半分も伝わらないだろうに。
「まったく……。一緒に住んでるんだから連絡つかなくなったら心配するんじゃない?」
「してくれ。これぐらいしか俺にはもう朗二の気を引く手段がない」
「こ、子供か……バリスタで雇ってくれるんじゃなかったの。真に受けたらいいじゃん」
「今更朗二に雇われてどうすんだよ。カッコつかないから嫌だ」
「……」
 確かに親に倣ったとは言え、朔夜はこう見えて自分名義の雑務屋を営む立派な経営者でもある。かくいうこの店でも、エアコンの取り付け工事や大型家電の処理など実は結構世話にもなっていた。
 そういえば、朗二の店の電気系統は朔夜がやったとも聞いていた。ん?
「いやアンタ、店の電気工事でおおいに役に立ってるでしょうが。言うほど何もしてないとか思わなくていいじゃん!」
「……そんなのは別に、たまたま俺ができたからやったんじゃん。朗二だって俺ができなかったら業者頼むよ」
「ああ~……。メンヘラな上に自己肯定感も低いんだねえ。扱いづれ~~」
「それは仕方ないだろ、ほっとけよ!」
「そうねえ。そうするよお」
 呆れたところでどうしようもありませんからね、とあたためていたキンダープンシュを差し出す。お子ちゃまにはさぞピッタリだろう。
 訝し気に湯気の立つカップを覗き込んだ朔夜はその顔のままめっちゃいい匂いする、と言ってカップを引き寄せるのだった。

「ナニソレ~聞いたことねえけどその話俺」
 途中から席に戻ってきて静かに話を聞いていた弓美弥がおかしそうにそう言った。目尻がほんのり赤くなっているのは気を揉まなくとも飲んでいるせいだろう。空のタンブラーを下げて目配せをすると、おんなじの、と返ってくる。
「……そう? 俺の中では結構テッパンの話だよ」
「そうなの? まあ最近来てなかったからな~。朔夜はほんと朗のことになると子供だよな」
 事故があってからはおおよそ八年ぐらいは経っただろうか。
 あれから今日まで弓美弥には、ほとんど朔夜の話をしてこなかった。
 わざとではないのだが、とりわけ大きい映画の仕事を終えてからはひかると同様、ここに来る頻度もかなり減っていて一年に数回くるか来ないかという付き合いになっていた。
 それから、本人から直接聞いたわけではなかったけれど未だに立ち直れないでいる朗二の面倒を付きっ切りで看ることもあると言われていたから。
 同じ場所には留まり続けられない渡り鳥には、これは非常に重たい枷だったろうと思う。
 何よりそれを思う度に弓美弥の気持ちと朗二の気持ち、そして朔夜の気持ちを同時に考えなくてはいけなくてこの胸が引き裂かれるように痛くて辛かった。
 かくいう自分も、元々この店は自分が生きている限りどんな理由があっても閉めないと決めているクチ。朔夜が亡くなってからは、余計にベルジャンに行くことはなかった。
 もし万が一にも今更朗二と顔を合わせることがあったとして、正直何も言えない自信があるぐらい、葬式だろうと何周忌だろうと朗二の慰みにすら一度も行かなかったことを一生後ろめたく思いながら死んでいくのだと思っている。
 それぐらい、朔夜の事故死は悲しい悲しい出来事として今も尚この人生に暗く影を落としている。
 払拭する勇気も出ないからこれ以上の風化もせず、思い出すたび涙が出そうになる。朗二には遠く及ばなくとも、朔夜のことも勿論、朗二のことも、関係性を含め二人のことが大好きで、彼らといた時間をたまらなく愛していたのだと実感する。
「てか定くんがさくの話するの久しぶりに聞いた」
「そりゃ、久しぶりにしたよ。アンタ全然来ないから」
「えー、俺のせいかよ。忙しぶるのは嫌だけど、ま~~普通に忙しいのよ俺だって」
「……分かってるよ。来てくれて嬉しいよ」
 それなのに、どうしてか今夜の弓美弥からは何かが吹っ切れたような爽やかな雰囲気を感じていて、なるべくなら聞かせたくないとずっと思ってきた朔夜の話を構わず最後まで喋ってしまった罪悪感も心なし薄れていた。
 もちろん、朗二に何かがあったとも聞いてはいないし、もしかしたらもう大分前から傷は癒えていたのかも分からない。
 分からないし根拠もないのだが、ふとなぜだかもう大丈夫だと言われたような気がして、自然と胸がいっぱいになってしまった。
 悲しいだけじゃないたくさんの思い出。懐かしいキラキラが本当に久しぶりに視界に蘇った気がしたのだ。
 ねえ朔夜。もしかしたら、皆ようやっとそっちに向かって歩こうとしてるのかもしれないよ。
 不本意だったろう。こんな形で朗二の人生を縛り付けたかったわけじゃなかっただろう。
 だからいつか、泣きながらでもいいから、お前といた時間のことを笑い話にでもしてくれたらさ、アンタの気持ちもきっと少しは軽くなるよね?
 勝手だけど、俺はそういう風に思うから朔夜の愛すべき性質の話を朗二を知る人にしたよ。
 俺の知る限り、アンタはきっとこの彼にすらもいらない勘繰りをしているだろう。する必要のない嫉妬や心配を朗二のいないところでぶつぶつ零す。そう思ったからさ。
 いよいよ泣きそうになったので黙って酒をつくっていると、酔いが回っているのか、弓美弥はどこかぽやんとした目で再びおかしそうに笑った。
「てかさ、せこくん、朔夜に興味あんだ?」
「え、いや……」
「写真みたことあったっけか? あいつ普通に顔良いのに朗二以外に全然興味ないからほんと面白いヤツなんだよ」
「ふふ。弓美弥最初から手出そうとしてたもんね」
「まーね。好みの顔ではあったかな」
 眩しそうにスマートフォンの画面を見ながらそう小さく呟いた弓美弥は、赤らんだ目尻のまま、いつのものだか分からない。この場所で楽しそうに大口を開けて笑う幸せそうな二人の写真を差し出した。
「……」
 だがこれは、不用意に見ていいものじゃなかったとすぐに後悔する。選んだ弓美弥ですらその眩さに黙った。見た瞬間、様々な思いが鼻を抜けていく感覚がして言葉に詰まる。
「…………あ、……ごめんね、……」
「いや、馬鹿野郎ふざけんな、いくらなんでもこれはエモすぎるだろお……」
 人は何か強い感情に晒された時、日常生活を過ごすためにあえて触れないからこそ平気で過ごせる時間もやはりある。いっそ忘れられたらどんなに楽だろう。或いはどんなに悲しいことだろうか。
 一瞬だけものすごく胸が痛んだ。涙もスプーン一杯分ぐらいは出た。手のひらで拭ってからすぐさまカウンターに背を向けティッシュで鼻水をかみ、水を飲む。
 自分に泣くほどの権利がないとは思っていない。でも、無防備に無理性に泣くのはちょっと違う。例えそれほどの悲しいやツライに深く強く共感していたとしても。
 深呼吸をしてからいざ前を向くと、未だ画面を見つめたまま微動だにしない弓美弥はえらく静かに大量の涙を目から零していた。

◇◇◇

 弓美弥の差し出すスマートフォンの画面をやや仕方なくのぞき込むと、そこには誰がどう見ても楽しそうで幸せそうな店長が見たことのない表情で笑っていた。
 静止画。いつのだろう。というか、写真ってすごいもんだな。こんなに鮮明に、過去にいけるんだ。朔夜はこれだろうか。確かにイケメンかも。そして榛葉とは面白いぐらいにぜんぜん似ていない。なんだ。
 意外になんともないと思えたのは一瞬で、その写真の笑顔と駅で見た喪服の蒼白な横顔がどうしても結びつかなくて心がちぐはぐになる。
 愛していたんだ。こんな顔で心から笑えるぐらい。写真って残酷だ。こんなに鮮明に、過去を残しておいてしまう。朔夜はもういないのに、いた確証がこんなにハッキリとあったら当たり前だが会いたいだろう。辛いだろう。悲しいだろう。
 そりゃあ、もう二度と会えないことから逃げたくもなるだろう。死にたくも、なるのだろう。
「………あ、……ごめんね、……」
 ふいに弓美弥がそう呟くので顔を上げると、目の前でマスターの目からぽろぽろっと涙が落ちてすぐ向こうを向いてしまった。
 次に横をちらっと見遣ると、本当に悲しそうな顔をした弓美弥の両目から漏れ出すようにして頬にいくつもの涙の跡がついた。それは、幾度見返しても、いつまで経っても止まらなかった。
 これまで弓美弥が泣いたところをちゃんと見たことがなかったなとふいに思った。
 意図があったのかもしれない。なかったのかもしれない。でも、店長の手前泣けなかったのかな、とは今少しだけ思った。
 一番辛いのは誰かと言われたら間違いなく店長だろう。でも、じゃあそれ以外の人はちっとも辛くないのかと問われたらそんなはずもない。気を遣って泣くのを堪えるという我慢はある意味悲しくて泣くことよりも辛かったりするのかもしれなくて。
「……ゆみ……」
「…………ろーがこの前、ちょっとだけ、朔がいなくなったことを認めた気がしたんだ……」
「……」
「皆が、俺も、確かに望んでた一歩だと思ってたんだけど、それで良かったのか、俺にはわからなくて」
「……」
「朔夜、嫌だって言うかもしんないなって思ったら、それはそれで可哀想になっちゃって」
 弓美弥が鼻をすするのを見てやっとティッシュを箱で差し出すマスターは黙ったまま何も言わなかった。
「定くんが朗に会わないのも朔の話をしたがらないのもめちゃくちゃ気持ち分かる。朗じゃなくてもさ、俺だってほんとは泣きたいほど悲しい夜もあるよ、俺だって、朔夜と会って話したい日もある」
「……あったよね、当たり前だよね……」
「なのにろーが認めた顔するから、八年越しに俺のこういう気持ちも全部やっと、自分で処理しなきゃいけなくて」
「……寂しいね」
「さみしいよ、さく……、俺だって会いたいんだよ……」
 子供みたいに手の甲で何度も目元を擦りながら泣く弓美弥の姿を見ていると、この人は奪うつもりこそないにしろ嶋田朔夜を人として愛していたんだなと思えてしまってなんだか気まずくなる。
 店長は知らないだろう。今日まできっとおくびにも出さなかった弓美弥のこの好きな人を想って流す涙のことを。それとは別に、噓偽りなく二人の幸せを願って止まなかった大きな愛情のことも。
 諦めて前に進まなかったのは店長だけじゃなかった。
 きっと、弓美弥も同じぐらいの熱量で必死に時間軸と戦ってきた。忘れたくとも忘れられないし思い出にもしたくない。分かっていても決して向けられることのない愛情を一身に受けた名残が深ければ深いほどそれにも傷ついたかもしれない。
 ならばこれほど長い間一緒に立ち止まっていられたのは、弓美弥だからだったのだと腑に落ちた。
 自分の心を押し殺してまで側にいられたのは朔夜を愛しているのと同じぐらい、店長のこともきっと大事で堪らなかったから。
「…………」
 ふと、じゃあ自分はどうして店長の側にこれほど長くいられたのだろうと思った。
「……」
「あ、朗……」
「えっ!?」
 突如スマートフォンが着信の画面に切り替わり、ひらがなでろうと大きく表示される。驚きはしたが特段動揺もしなかった。目の前の二人があたふたするのをどこか遠くに見ていた自分に気が付く。
「やば、せこちゃんの様子見かも、ちょっとティッシュっっ」
「いや反射でエッとか言っちゃったけど焦ってる理由もわかんないんだけどっ」
「だってっ泣いてるから俺っっっ」
「別によくない!?!?」
「よ、よ、よくはねーだろっ俺のメンタルが死ぬっつーのっ」
「なんで!?」
「いや普通に今ろーと喋ったら色々思い出してしんどいだろ!!!!!」
 そういうものか、と思いながら黙って画面を見つめる。多分三十秒以上経っている。当然だったがそのうちにぷつりと着信は途絶えてしまった。思わず小さくつぶやく。
「あ、切れた」
「ンアーーーっ」
「これは最悪ーーーっ俺がろーの立場だったらすこぶる心配っ」
「えっどういう意味っ」
「どうもこうも、アンタが裏で盛ってんじゃないか心配って意味でしょうが!」
「ねえそれさ、実際そんなことないんだから悪口だよね??? ごめんせこちゃん、取り急ぎ大丈夫な旨ラインしといてもらってい???」
 てんやわんやで言っていること自体はとてもコミカルだったが、二人とも声はぐずぐずの鼻声であまり笑える雰囲気でもなかった。
 スマートフォンを開くと、やれ先に店長から大丈夫? と一言だけの通知が目に入った。

大丈夫です。
心配ないです。

本当に?
ゆみそこにいる?

います。
ちょっと酔ってる感じです。

あー
え
誰かといる?

俺とマスターと弓美弥くんです

だけ?

はい

分かった。
電話してって言ってくれる?

言ってみます。

 一旦画面を閉じて弓美弥を見ると、カウンターに平たくしたままのスマートフォンをじっと見つめていて一瞬怖じ気づく。
「……弓美弥くん。店長が電話ほしいそうです」
「えー? んー、もちょっとしてからね……」
「あ、かかってきた」
「ま、え、だめ! 俺便所っっ」
「はいもしもし」
 本当にトイレに立った弓美弥の背中を見つめながら電話を取ると、当たり前だったが耳元で店長の声が聞こえてなんでか物凄く懐かしく思えた。
「あ、せこくん? 弓美弥に代われる?」
「今トイレ行っちゃいましたね……」
「……わざと?」
「じゃ、、、ないとは思いますが……」
「マスターは?」
「え?」
「定くん。今そこいる?」
「あ、ええと……」
 想定外の言葉に慌てて正面に目をやると、手元を見ながら何やら作業をしているようなので一旦黙る。繋いだ方がいいのだろうか。でもなんだか、避けている様な雰囲気の話を今さっき聞いた手前どうしたらいいのか判断に迷ってしまった。
 その一瞬の隙を、とても敏感に察するのが店長だ。声のトーンが微妙に小さくなったのが分かった。
「出たくないって?」
「えっ? あ、いや何かしてて今……」
「……」
「え、違うよ、あの……あ、マ、マスター!? あの、店長が……」
 ここで変に勘違いさせてこれ以上余計な蟠りを作ってはマジでいけない。焦りながらようやくマスターと言葉にすると、顔をあげたマスターはボク? と驚いた表情で目をぱちぱちとした。
「はい、あの、代わってって、……店長? 今代わりますっ」
 なるべくタイムラグは無い方がいいのはもはや明白。向こうの返事など聞かずにスマートフォンを半ば押し付けた。
「……。もしもーーし。ご無沙汰してまーす」
 すると、困惑した顔のままスマートフォンを受け取り、やや間を空けたが明るくそう言ったマスターは、うん、うん、と何事もなかったかのように相づちをうった。
「ううん。大丈夫だよ。見守っといてあげるから、心配しないでいいよ。それより、声元気そうで良かった。久しぶりに話せて嬉しいよ」
 次の瞬間まったく声はブラさないまま、またぽろぽろっとちょっとだけ目から涙をこぼしたマスターは静かにそれを手の平で拭った。
「弓美弥はトイレ。ホントだよ。ねえ、お互い店空けられないけど元気でいようよね。気が向いたら向こう角に出来た店にランチ行こう。うん。ふふふ。わかった。うん。……じゃあね……」
 スマートフォンを耳から離して画面を見つめること数秒。通話が切れたのを確認したのだと思った直後、突然目の前からマスターがいなくなってびっくりして思わず椅子から立ち上がる。
「!?!?!?! えっ!?!?! 消えた!?!?!?」
「う、ええん、ひどいよ、せこちゃんアンタ悪魔だよ」
「!?!? 何っ!?!?! どこに行った!?!?!? 床!?!?!」
「えええん、この世にかみさまなんていないんだよ、なんて世界だよ、ひどいよ、地獄だよ」
 程なくして冷静になってみればなんのことはない。ただカウンターの向こうで完全にしゃがみこんだというだけの話で、当たり前だが消えてもいないし増してや床が落ちたわけでもなかった。
 スマートフォンを両手でぎゅっと握りしめたまましゃがんで小さくなっているマスターの頭頂部を見つめながら、もしやこんな風に感情的にさせてしまった一因は自分にもあるのかと思ったらわかりやすくおろおろとしてしまう。
「あの、すみません……出たくないのかって言われて咄嗟に……」
「はあ、許せない、いい加減にしなさいよ、あんなに可愛い子たちをこんな目にあわせて、いるなら出てこいよ、神でも悪魔でも閻魔でも怨霊でもさ、俺がぶっ殺して運命捻じ曲げてやりたいよ」
「…………」
 まるでこちらの存在など完全にスルーして、一人静かに咽び泣くマスターをただ黙って見つめる。
 否、神も仏も悪魔もお化けも、多分この世にはいないのだ。いても見えないし話せないのだからそれはいないのと一緒。だから祈っても呪っても究極現実に因果関係はないと思う。
 そうは思うけれど、こういうとき、どんな言葉をかけたらいいのか本当に分からなくて困る。どういう反応をするのが正解なのか、なんというかすごく、とにかく困った。
 だって、マスターと自分は今日たった数時間を共にしただけの赤の他人。一体どこまで共感してもいいのか、どれほど寄り添ってもいいものか、人として、知り合いとして、友人として、他者として、そのどれもの距離感が全く分からない。
 ただただ、その悲しんでいる姿を捉えることで精一杯なのだ。
 どうしようもない。それが今の自分のこの場所での立ち位置なんだから。
「…………」
 そうして、慰めの言葉すらかけられずにただ突っ立っているだけで、それこそいないのと同じぐらい何もできないできる自分のしょうもなさに途方に暮れていると、突然背後から低い声がしてびっくりして固まった。
 びっくりしすぎて、振り返れもしなかった。

◇◇◇

 仕事用の共有スケジュールに赤字でじぞうと書いてあったので、珍しいなとは思ったが特に触れはしなかった。
 ここ数年は弓美弥も和眞もかなりストイックに仕事のスケジュールを組んでいたので、ごくたまに出向くのはほとんどがこっちからの誘いでしかなかった。しかも年に数回程度。それ以外に弓美弥が一人でJIZOUに行くなんて最近は専ら無かったはずなのに。
 久しぶりだが馴染みある地下の階段を降りて分厚いドアを開ける。酒と煙草と香水の匂い。元は小さなライブハウスをバーに仕立てた仄暗い穴蔵。自分にとっては胎内に戻ったぐらいには本当に安心する場所の一つだった。
「……ありゃ、せこくん……?」
 まあ、だからと言って別に何を気にしたわけでもない。カメラマンと被写体とマネジメント業務という過密な日程を終えて、ふと思い出したから足を運んだだけの話だ。
 これでもちょっと前まではママこと上岡定の隣で店を手伝うなんてのは日常茶飯事だった。
 勿論、ほぼ稼ぎにはならないのだけれど、定とは古い付き合いでかなり世話になっているので弓美弥と仕事をし始めるまで随分と長い間のらりくらりとカウンターの中にいた。
 今は想定外に忙しくなってしまって資金調達に手一杯。弓美弥に比べれば顔を出しているかもしれないが家だとは胸を張って言えないほどには足が遠のいていた。
「どしたあ、だいじょうぶ?」
 店に入ってすぐ左のカウンターのすみっこで呆然と突っ立つ少年。この空間にはまるで異質だったが後ろ姿でも一目で世戸朱宇十だと分かった。
 なぜなら、地毛だと言う色素の薄いアッシュ系の髪色は実際どこにいても目立つだろう。そのうえ口下手を物語る薄い唇とスノーホワイトの綺麗な白い肌。世間知らずなのは一目瞭然。ツンデレよろしく元の口が悪いのはどう考えてもスパイスだった。
 ベルジャンで姿を見かけた時、幾度性自認を聞こうかと血迷ったことか。
「……ぇっ……」
 分かりやすくぎくりと固まってこちらを見ようともしないなんとも初心な仕草は、ここでは少しだけ危険な気もする。
 否しかし、勘違いしないでほしいのはソウイウ目で見ているわけでは毛頭なく、今をときめくBL俳優の雛和眞よりも圧倒的にド受顔だったというただそれだけの話であることだけは断っておきたいところなのだけれど。
 わざと一歩近づくと、ようやくこちらを恐々と見上げるホワイトグレーの瞳が二、三、瞬く。
「ひ、ひかるくん?」
「正解。もしやゆみと来た? あいつは?」
 まさかと過るのは悪い予感だったが、直後にカウンターからうめき声が聞こえた気がして思わず目をやる。
 気のせいではなかったようで、そこには安心材料の一つでもある上岡定が何やら蹲って小さくなっていた。なんだ? 酔いが回るにはまだ早いだろうに。弓美弥のせいか?
「う、うう~~~~……」
「……ちょっと、定くんいたのかよ……何、泣いてんの???」
「うう、もお、うるさいぃ……! 来たんならさっさとこっち入りなよっ……!」
 一見理不尽にも思えるが、通常の精神状態ならこれほど余裕なく他人に八つ当たりはしない人だ。
 訝しく思ったが、はいはいとわざと軽く往なしてカウンターに入ってやる。黒い床にはくしゃしゃに丸まったちり紙が山積みになっていた。
 ひとまずサロンを手に取って手を洗いながらちらっと横目で様子を伺うことにする。
「どしたの。心配してもいいやつ?」
「いらないよっ、後ろいくからちょっとやってちょうだい今日はっ、あとロックもってきてっ」
「あ、はあい……。ゆみは?」
「分かんないよ! トイレで溺れ死んでるんじゃないの!?!?!?」
「……ええ?」
 それはつまり泣いているということか。
 なるほど、と心なしちょっと気合いをいれる。だって定と弓美弥が揃ってメンブレする話題など今のところ一つしか思い浮かばない。そのうえ決定打には世戸朱宇十。
 恐らく何らかの話の流れでさくとろうの話をしたのだな、と目を伏せた。
「ごめんね世戸くん。座って座って。びっくりしたでしょ」
 ティッシュの山を片付けて軽くシンクを流す。磨きかけのタンブラーグラスを手に取って氷を突っ込む。
 それを見て、気まずそうな顔でおずおずと腰を降ろした世戸くんは結露のついた銅マグを躊躇わずに両手で持った。真っ白で寒そうな手指。冷たいだろうに、としばし目をやる。
「……いや、なんか俺がもしかしたら余計なことばっかり思いださせてるのかも……」
「余計なことじゃないさ。朔夜の話したのかな」
「……はい。弓美弥くんから写真見せてもらったりして」
「え? へえ……、まあ、……そりゃこうなるよね……」
 写真。なんだってそんないきなり。そっか、と無理に頷いてバランタインを注ぐ。気づけばもう半分ほどになってしまったが、三〇年製の高級品だ。そうそう出してはこないのだけれど、定がロックと言ったらこれを出すのが決まりだった。
 静かに満たされるグラスを黙って見ていると、厄介なことに言われたら芋づる式に思い出すのが記憶というものなのだなと痛感する。そんなに高い酒ならば飲んでみたいと朔夜が躍起になって朗二と大喧嘩になった光景がうっすらと蘇る。無論、楽しい思い出だ。だからこそ余計なコントラストを生んでしまう。
 何気ない日常こそが何よりの幸せ、だった。
 分かっているだろうよ。こんな形で知らしめなくても皆もちろん分かっている。日常が幸せなことを過去形にしたのはお前だぞ朔夜。一体どうしてくれんだかさ。
 朗二だけじゃない。弓美弥も、定も、自分だって、あるべき未来がここに無い現実を未だにこんなにも受け入れられないでいる。
 果たしてそれが、良いことだとしても悪いことだとしても、そうであることだけは何一つ覆らないことに虚しさや悲しさや憤りを感じるのだろう。
 いつ行っても調子の悪そうな朗二を八年以上ずっと気にかけてきた弓美弥の精神力は揶揄で無く狂っていると思った。それでも、本当にごくたまに弓美弥自身が耐えきれないほどの無力感に憑りつかれる時は必ずあってその度無心の荒い性で誤魔化したり一日中小雨の様に静かに静かに泣き続けるのをこちとら側でずっと見てきた。
 そうなると、当然狂っているのは自分もそうで、今になって弓美弥との間にあるのは愛情や親愛以上の頑なな何か。愛しているなんてそんな浅い言葉では言い表せない、下手をしたら家族よりも優先順位の高い存在かもしれないぐらい何とも形容し難い関係性がそこには芽生えていた。
 アロマンティックが何を今更と思われるかもしれないが、弓美弥のことは純粋に大事だった。無理やりどれかに例えるなら多分、腹を痛めた我が子ぐらい大事。
 悲しんでいたら出来る限り望む方法で慰めてやりたいと思うし、欲しいものがあるならなけなしの全財産をはたいてでも与えてやりたいとも思える。
 頼られたら嬉しい。嫌われたら悲しい。いつの間にかまっすぐな近くて太い直線で繋がる松枝弓美弥とは命よりも大事な存在になり果てていることに近年は薄々感づいていた。
 しかしそれというのはまごうことなき、朔夜が急にこの世界からいなくなってしまったあの瞬間からの強い強いインパクトの後遺症であることもちゃんと分かっている。
 潜在的にとても怖かったのだと思う。大事なものを失ってひどくバランスを崩していった人間を、一度にたくさんインプットしてしまったから。
 意識して共倒れにならないようにとそこから離れようと俯瞰すればするほど、自分の中に誰かを失う痛みと恐怖がもくもくと蓄積していくのをどうやっても止められず、弓美弥に執着し続けた八年だったと我ながら自分の人生をそう客観視していた。
「……定くん、はいロック!」
 センチメンタルをどうにか蹴飛ばして後ろを振り返ると、暖簾から手だけが伸びた。そっとグラスを持たせる。平気な顔をしているつもりもないけれど、ここで自分まで狼狽えたらもう誰もこの場を収集してくれる人はいない。
 なるだけ心を頑丈に努めたつもりで顔を上げ、世戸の真正面に立った。
「てか珍しいよね世戸くん。こういうとこあんまり来ないでしょ?」
「はい」
「ゆみの誘いにノるのも意外。なんかあった?」
「……まあ、なんかひと段落? ついたような雰囲気になって……正直居づらくなってきてて」
「ひとだんらく。えーと、……ごめん、何に?」
「店長です。この前榛葉とちょっとあって」
「…………え、ええ……?」
 榛葉? ってあのスーツの彼? ベルジャンで何度か顔を見たことはあるが、話をしたことは一度も無かった。チョットアッタ? チョットアッテひと段落って何? どういう意味?????
「あの、ごめんね、何がちょっとあったのかクワシク……?」
「はい……朔夜さん、の携帯の番号が榛葉に渡って、それでなんというか、店長がええと……なんて言ったらいいのか……あの、ああそう、”認めた”? っていうか……」
「みとめた?」
「さっきの弓美弥くんの言葉を借りると、その、”朔がいなくなったことを認めた”って……」
 その途端、ぎゅうううう、と抓られているみたいにしてみぞおちの奥が痛くなって思わず息が漏れた。頭が世戸の言っている事の理解を必死に拒んでいる。ええ、と掠れた吐息と共に項垂れた己の身体が今一体どういった感情を抱いているのか分かるに追いつかなくてビビった。
「…………」
「……」
 くらくらするほど血圧が下がっている気がして、咄嗟にシンクに手をついて目を瞑る。
 認めた。朔夜がこの世界にいないことを朗二が?
 意味を咀嚼しようとすればするほどパニックで目の前がチカチカしてくる。あり得るのか、そんなこと。当事者じゃないのにこんなに傷ついた出来事を認めて受け入れてひと段落させた?
 否、あり得るわけがねえだろ。疲れたのか? 朔夜を想うのに? 八年間だ。それは分からなくもないとする。でもだとしたら生きていけるの? いないと分かった世界線を深く悲しむことだけで保ってきた生命線だ。途切れたら、忘れたら、手放したら、
「それ、いつの話……」
「……三週間ぐらい前ですかね……」
 一体全体なにを以て自分の存在をここに留めるんだよ、おい、朗二。
 急に視界が戻ってくる。
 三週間。もし自分なら頃合いだと思う。諦めたらもうどうでもよくなるに決まっている。大事なものがなくなった世界になんていてもいなくても同じだろ。そう思ったから。
「は? ごめん、定くん、ゆみと言いさ、泣いてる場合じゃないだろあんたら……ベルジャン行ってくる」
「……えっ?」
 驚いた顔でまた立ち上がった世戸を一瞥してスマートフォンをポケットから出す。二十二時過ぎ。客はいるだろうか。頼みのバイトもいない一人の店で、朗二は何を考えるだろうかと過ぎっては、掻き消す様に頭を軽く振る。
「認めるわけねえだろ、朗二だぞ。骨も見てない墓にも一回も行ってないんだぞ、頭おかしくなってんじゃないのかよ、自分の悲しいに耽って朗二から離れたら元も子もないじゃんっ……」
「……」
「あのさ、っ……死んだらどうすんだよ!?」
 居ても立ってもいられずにサロンを投げ捨てカウンターを出ると、やっと暖簾を押し上げた定がとろんとした目でこちらを見るが構わない。この酔っ払いがよ。軽く舌打ちをして扉へ向くと後ろからジャケットを強く引かれてなんとか留まった。
 振り返らなくても分かった。弓美弥だ。
「っっっしぬわけないだろっばかあっ……急にきてテンパってっ、勝手なこと言うなっ……」
 振り返ると同時に、ぎくりと動きが止まってしまうのはひどい顔をした弓美弥が膝から崩れ落ちて近年稀に見る大泣きをし始めたからだった。
「はあつ、ううう、てめーはっ、はなし、してないからンなこと言えんのっ……! 俺ちゃんと見たもん、ろうはもう顔あげたんだよっ、なのに俺らがそういう目で見続けたらいつまでたってもあのままだろっっっ、俺は、っまた、ろうと一緒に笑ってさくの話したいよっ……! だから、だから、これでいいんだってっ……朔夜は怒るかもしんないけど、寂しいって言うかもしんないけどさ、俺は、やっぱり生きてるろうが、大事だもんっ……」
 ときに、命よりも大事な弓美弥が、ごめんねさくや、と床に突っ伏して子供みたいに声をあげて泣くのを見て、少しも涙が出なかったのだとしたらそれはある種の病気だと思う。
 泣かないで欲しいのと抱きしめてやりたいのとで身体が固まる。漏れ出そうになる嗚咽をいくつも我慢したら上手く息が出来なくて同じように膝をついて無意識にみぞおちをぎゅっと押さえていた。痛くて肩が大きく揺れる。金ローで見た有名な映画のワンシーンみたいだったけれど、生憎台本はどこにも見当たらなくて遣る瀬無い気持ちでいっぱいになった。
 もしもこれが全部芝居だったら、悪い夢だったら、フィクションだったならどんなにいいだろう。
 揺れる視界にとうとうしゃくりあげて目を閉じると、ふわっと背中があたたかくなる。その熱を感知した途端、浅かった息が随分楽になった気がして努めてゆっくりと震える息を吐く。
 そうだった、と改めて心から安堵する。
「ったく……弓美弥……落ち着け。ガキかっつの」
「もうやだーー、ゆみの泣き方ってほんとしんどいからやめてえ」
「ママー。ティッシュちょうだい。水持ってっていい?」
「家かよって。ひかるも泣きたいならちゃんと泣いたら。過呼吸なるよ」
「ひかるまでびーびー泣くのかよ。よええよなあもう」
「…………」
 そう。ここはJIZOU。かれこれ二十代の頃から相変わらず在り続けるマイノリティの巣窟だ。誰が死ななくとも何を失っていようとも、地球は朝を迎えて夜に沈むのだという事実をここで知った。理不尽さや不公平な心の交錯以上にどんな誰にとってもこれほど平等な優しい世界があるのだとここにいる人達と一緒にたくさんたくさん思い知った。
 朗二に朔夜がいなくなったことを認めて欲しくなかったのは完全なる他者のエゴだ。
 そうあり続けようとした朗二が幸せでは決してないことを知っていたはずなのに、いなくなった側である朔夜の気持ちにどうしても肩入れしてしまう自分はきっと大事な人に忘れられてしまうのが心底怖いのだろう。
 朗二が死んでしまうのではないかと危惧したのも、心の底ではそうあって欲しいと、無意識に望んでいたからだ。
 誰かの死から遠のくのは、これほどまでに罪悪だ。大切な人であればあるほどに。
 ふいに誰ともなくペットボトルの水を手渡されて手に取ると、その冷たさにハっとする。震える手で蓋を開け口にすれば、喉から肚へと流れ込む水の痛みにも似た感覚は、否が応でも無遠慮な涙を窘められているようで情けなくなる。
「…………」
「大の大人が朔夜に翻弄されっぱなしで情けねえ」
 ちょっと意地の悪い憎まれ口には違いなかったが、呆れて笑けてきてしまうのは、ほんとその通りだよな、と心から思えたからでもあった。
 未だ人の胸でぐずぐず泣いている弓美弥を見つめながら鼻を啜って呟く。
「っはは……、まったくだぜ」
「……しっかりしてくれよ」
「まあ、そんな日もある……人間だからな……」
 呆れた様に嘆息した一人からぽん、といやに優しく背中を叩かれて苦笑した。よっこらせとわざとらしく声を出して立ち上がると、一過性の物凄く悲しいの余韻を振り払うようにして少しの間天を仰いだ。
 それから、馴染みない世界にぽつんと佇む小惑星の如くまるきり冒頭の様に突っ立ったまま微動だにしない世戸朱宇十にようやっと改めて向き直る。
「はあ~~~。愚かしい大人達でほんと見苦しいな。見ての通り俺も朔夜には滅法弱いのよ」
 はにかんでそう言うと、控えめに、いえ、と小さく口にした世戸は気まずそうに目を逸らし再びすみませんと小さく小さく零したのだった。


◇◇◇


 右側にまだ少しぐだぐだの弓美弥を抱えて、正面にひかるが佇む。その後ろでは片方をあげた暖簾の向こうに腫れぼったくなった目で尚、寡黙にグラスを傾けるマスターの姿が見えている。
 あの瞬間だけ一時的に静かになった店内だったが、ほどなくしたらすぐにまた元の喧噪に戻っていて今もお客が出たり入ったりとても賑やかだ。
「寒くない? あったかいの入れようか?」
 とても穏やかな声でひかるからそう声をかけられて、握っていた銅マグを見る。確かにとても冷たかったがそれには今気が付いた。
「じゃあ……」
「うん。ずっと持ってて冷たかったでしょ」
「……なんか落ち着かなくて……」
「はは、だよねえ……」
 困った様にはにかまれると、いたたまれなくなる。恐らく今は自分がここにいるだけで誰かの傷口に触れている。正直もう帰りたかったのだが、切り出し方が分からなくてさっきからずっと言い出せずにいた。
 まだぽろぽろと泣いている弓美弥がカウンターに頬杖をつきながら俺もお茶あと間延びした声を出す。
 コントロール出来ない涙腺は見慣れているのでそれほど気にはならないが、弓美弥がこんなに人らしいところを見たことがなくてどう接していいのかにも困っていたところでもある。
 困りごとだらけだ。ああ、人といるのに疲れた。帰って横になりたい。
「でえ、なんだっけえ? なんかめちゃくちゃに話逸れすぎてしんどいけどさ、せこちゃん朗といるのしんどくなったみたいな話だっけ?」
「……ええ……??」
 内心では確かにそう思っていたかもしれないが、誰にもそんなこと一言だって言っていない。弓美弥が察しがいいのか、はたまた店長がそうなのか、それとも自分が分かりやす過ぎるだけなのかその全部である可能性もあるなと考えたら否定も肯定もできなくて何も言えなかった。
「……いや……そういうわけじゃ……」
「でも朗と喋るの気まずいんだろ?」
「気まずいってほどでもない、けど……店長がそう言ったの?」
「ううん。けど、見てたらあんま喋ってないのぐらい分かるでしょ。日本人の空気読む力舐めちゃダメだよ。てか、何がそんな気まずい? 榛葉と抱き合ったから?」
「違うよっ……榛葉が店長のこと救ったのは間違いないし……」
「救った、かな~……まあ、そういう言い方もできるか……」
「ねえ待ってよ……そこマジで詳しく聞いときたいぜ俺は……一体何があったんです……」
 湯気のたつカップを差し出しながら話に入ってきたひかるが複雑な顔で詳細を促すと、弓美弥は面倒そうにしながらも事の顛末をとても上手に話し出した。
 まるでその場にいたかのような話しぶりだったが、恐らくほとんどが吾妻の聞きかじりだろう。だって弓美弥と和眞が店に来たのは全てが終わった後だったから。
 なんでか出されたあたたかいワカメスープを啜りながら、弓美弥の話をぼんやりと聞いた。
「……。そんなことがあんだな……。榛葉じゃないけどさくがそうしたって信じてみたくなるよ」
「……それは知らねえけどさ。ま、結局朗は、俺たちじゃない誰かにしか動かせなかったんだろうなってちょっと思った」
「てかそんな前から来てるのあの人。俺話したことなかったよ」
「きてる。せこちゃんと同じ日に会ってるんだっけ? それからずっとだから八年以上だよ。しかもほぼ毎日通ってんだぜ? 頭おかしーよ」
「えええ??? あの人? スーツの? えええええ???? 何で?????」
「何でって何だよ。しらねえし。ねえせこちゃん。あ、君もおかしー輩か……」
 ふいに話を振られたが冗談でもおかしいと言われていたので、それほど気負う話題ではないと判断して少しなら自分本位の意見を言ってもいいのかなと思う。
 空気を読めないとか正論ばかりでつまらないとか過去に虐げられた心の根っこの傷は、複数人で和やかに話そうとする時こそ痛痒く疼いた。
 もう何年も前の話だ。それでも、何を言ったらいけないのか本気で分からなくて誰とも何も喋れなくなった瞬間の溺れるような息苦しさは今も鮮明に思い出せる。
 けれど冗談でも”おかしい”と思っていてくれるのなら、多少おかしなことを言っても許してもらえるだろうから。
「……一緒にしないで、って言いたいけど……でも、俺あの人よりおかしーのかもとは思った……。長いこと側にいただけで、役割も目的もなかったんだなって……」
「……え……」
「…………」
 微妙な空気になったのは分かったので、咄嗟に顔を上げてみると弓美弥はとても悲しそうな表情に、ひかるは小さく首を振ってそんなことないよ、と静かに言った。
「あのあと世戸くんがバイトに入ってくれたから、俺たちまともに日常できてたんだぜ……」
「そうだよ……朗が今日まで生きてこられたのは、せこちゃんがずっといてくれたからに決まってるだろ……」
「え、……いやでも……俺がいようがいまいが店長は……」
「……忘れたの? 朗は死のうとした先でせこちゃんと出会ったんだろ……まだ学生だった君に飯食わせようとして、店開けたんだよ……」
「…………」
 一瞬耳が詰まった様な感覚がして、黙る。寒いタクシー乗り場。白い息が短く何度も形づくのをじっと見た。悲しい涙。生きるのがツライ顔。そんなときですら、目の前の人に施しを与えようとするのは優しさなのか強がりなのか、それこそ頭が狂っているのかもしれない。
 でも、でも、
「…………」
「せこちゃん……ごめんね、俺たちばっかりツライ気になってさ、せこちゃんだってあんな朗とずっと一緒にいるのはしんどかったよね……」
「…………」
 嬉しかった。何を食べても味の無かった世界で、久しぶりに食べたあたたかい飯が死ぬほど美味くて泣きそうになった。上手く話せなくてもいつも穏やかな顔で辛抱強く話を聞いてくれる店長の気遣いが嬉しくて嬉しくて、このままこの人とずっとずっと一緒にいたいと思った。ただ、それだけ。
 なのに、側にいるのが当たり前になったら、ただでさえ店長のいない世界にはもう戻れない気がして、でもそれは許されないことのような気もしていて、あの夜それを突きつけられたようで怖くて認めたくなかった。
 店長が抱える大きな大きな愛情の根源は朔夜にあり、奇しくもそれと繋がるかのような役割を与えられて店長と出会った榛葉が本当は心の底から羨ましくてしょうがなかったのだ。
 間違いなくここにいる誰よりも店長との付き合いの浅い自分がこうして泣くのはおこがましいと思いつつも、いつの間にか知らない感情が目から零れているのに気がついて、静かに指で拭ってみる。
 何の涙なのか自分ではよく分からなかったが、なんとなく、本当にこれで自分の役割を果たしてしまった気がして寂しくなった。
 けれどもう、本当に終わりなんだと諦める気になったぐらいには随分と自分の存在意義について腑に落ちてしまったのだった。
「……せこちゃん? しんどかったらやめてもいいんだよ」
 しばらくの間何も言わずに見守っていてくれた二人だったが、ようやく涙の止まった疲れた顔で弓美弥がそう零す。
「言ってあげようか。朗もなんとなく分かってたっぽいから」
「……でも俺……他にできることもないし、今更どこに行ったらいいか……」
「貯金は?」
「……え? 一応……少しは……」
「なら、どっか遊びに行ってきなよ。バイトはしばらく休み。続けるかどうかはまた後で考えたらいいよ」
「あ、遊びに……? どこへ……」
「どっか行きたいとこないの? 九州の方とか、北の方とかさ」
「……」
 急に言われて咄嗟には思いつかなくて唸る。そもそも娯楽にあまり興味を持ってこなかった質なので、特段見たい景色なんかも浮かばないし、やりたいことも然り。ちょっとパニック状態になってしまう。
「あはは。いきなり言われてもね。なんならお前のおすすめはないのかよ」
 見兼ねたひかるが呆れた顔でそう言うと、少し考えたのち、弓美弥はなんとも華やかな絵になる表情でこう言った。

「オーストラリア!」




つづく

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