免許の話


「――良かったですね、あと二十年は生きられますよ。」と言って手術痕のある腹を触ると、おめぇそういうのは今時はセクハラだぞ、ベッドでしろと言ってTETSUは笑いながら体を起こした。
脱いだTシャツをふたたび身につけているところを観察する。
術着のようなパジャマはもう彼には必要ない。自分で起き上がれるし、腕も上げられるようになった。再び同じ屋根の下で寝起きをするようになって、触診はしているし、触診以上のこともしているのだけれど、TETSUは時々、譲介のベッドから抜け出して自分の部屋に戻っていることがある。
TETSUよりずっと若いくせに体力で劣っている譲介が満ち足りて寝てしまった後で痛みを堪えている可能性もあると思うと、安心は出来なかった。
「こっちは十年前より腕がナマってんのに、そんなに長生きしてどうすんだよ。え、ドクターJ?」
名字で呼んでくださいと凄んだところで、この患者には通じない。なぜなら相手は譲介の元保護者で、恋人で、婚約者だからだ。
婚約者という言い方も正確ではない。正しくは、手術の経過が良好だったら一年後の記念日に結婚してくださいという凡百の男たちがしてきたような求婚に、それまでオレが覚えてたらな、という返事を貰っただけの関係だ。今にして思えば、TETSUが自分から足を運んで自分に会いに来たという事実にどれだけ浮かれていたのかと思うけれど、カリフォルニアの空は青過ぎたし、カップからこぼれた牛乳は元には戻らない。
「長い休暇と思えばいいじゃないですか。今回の手術で論文でも書いて久しぶりに学会に出たらどうです?」と譲介が水を向けると、最近パソコンを見るのに目が霞んで来たというTETSUは苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「そういうのは執刀医が書けってんだ……。」
「なるほど、僕と連名で構わないってことですね。」
この風体で昔は研究のために足しげく学会に顔を出していたという。そもそもやくざ者や政治家と付き合いがあったのだから、この人に自分の目的のためなら他人との交流も厭わない性根があることは譲介も良く分かっている。どうせTETSUと他人との交流が避けられないなら、まだ自分の手が届く同じ分野の人間と交わっていた方が譲介にとっても幸いだ。気の合う相手が見つかったというなら多少は妬くかもしれないが。何しろ、今の譲介は単なる被保護者ではなく、彼の主治医であり、同居人でもある。
主治医だからってデカい顔出来ると思うなよ、と常々言われてはいるが、元保護者、現ほぼ他人くらいの肩書しかなかったくせに、譲介の人生にそれこそデカい顔をして介入して、縁を切った後でも本人の同意もなしに大手術を執刀した人間に今更何と言われようと痛くも痒くもない。
澄まし顔で聞き流していると「譲介……、おめぇの師匠は真っ当な休みの使い方を教えとくのを忘れてたようだな。」とTETSUに凄まれた。
「どうも。最初の保護者がスパルタだったもので。」
ケッ、と拗ねた物言いが可愛いと思う。
朝倉先生が、恋は盲目とは良く言ったものですねと言ったが、それ以上だ。
何しろ、譲介は確かに目の前にいる三十は年上の男の顔がちゃんとその年なりの顔に見えている。
それでも可愛く見えるのだから、どちらかと言えば病気の類だろう。


それにしても、どこもかしこも磨き上げられたクエイド財団の明るい診療室で彼を診るのは不思議な気分だった。
何しろ、TETSUはこの手術のほんの直前まで、点滴を必要としながらも現役医師として働いていたのだ。
手術代を俺の給料で相殺しやがれ、と事務方にねじこんで来たという話を聞いて、直ぐに朝倉先生に相談した。そもそも手術代は僕が出しますといっても聞かないだろうとは思っていたけれど、まさか彼と同僚として並んで働く日が来るとは思わなかった。
いくばくか残っていた金を、もう年だ、手術が成功したところで、何が起こるか分からん、と言って、日本にいる間に、あさひ学園の建て替えと職員の増員でほとんど手放したのだという。その時点で、この人の中では、鋼の意思と肉体を持つ完璧な医師、神代一人先生ではなく、その不肖の三番弟子に白羽を立てたということなのかもしれないけれど。譲介は素直に喜べなかった。どんなでたらめでもやってのけるドクターTETSUという男が、昔面倒を見た子どもへの憐憫の情などで命を失うことなど、あってはならないことだからだ。けれど、譲介の心配は杞憂に終わった。
セクハラをすると噂の中高年の男たちは、そもそもTETSUが来る前に譲介自身がいつもの足技で蹴り出していたものの、若い医者の臨床ついでに治療されるのに腹を立てて口を開けば訴えるぞとしか言わない爺さんをそのひとにらみで黙らせてしまった。真っ当な人生行路を歩んで来た医師や看護師が敬遠する患者とエンカウントするたびに、TETSUはどんどん生き生きしていった。出会った頃に筋肉が隆々だった腕や腹は一回り縮んだようにも見えず、彼と譲介の上に等しく流れたであろう歳月を感じさせなかった。
その上、院内の中でも一、二を争うVIP用の個室を準備しても、消毒薬くさいのは仕事中だけで十分だ、と朝倉先生の申し出を蹴って譲介の住んでいるアパートに転がり込んでくるし、身体で払ってやるぜ、と例のいやらしい顔でいうものだから、譲介は頭に血が上ってどうにかなりそうだった。いや、実際にちょっとはどうにかなってしまったのだけれど。
譲介はTETSUが引き取って来た子どもの一人に過ぎないけれど、三十を過ぎた男になってしまった以上、青臭いガキが馬鹿なことを、と片付けられる年ではなくなっていた。
「譲介、おめぇは新米か。患者の顔を馬鹿みたいに見てるやつがあるか。」
オレは行くぞ、と言って譲介の、世界でただ一人の特別な患者は、杖を握って立ち上がる。
慌てて立ち上がって、TETSUを見送ろうとした譲介は、いつもの癖で彼の頬にキスをしていた。
「あ、す、すいません……。」
すいません、じゃねえんだよボケが、とこのところ滅多に出さなくなった低音で凄んだ時、妙な気配が扉の向こうから漂って来た。
「真田さん、僕の仕事が上がるまで、カフェテラスで待っていてください。」と譲介は勤務中の医師の仮面を被る。
「………おうよ。」とTETSUが返事をする。
TETSUがこうして通院して来る日には、ふたりで一緒に帰宅すると決めている。イエローキャブを呼ぶ、と言って恥ずかしがるTETSUを、これは節約です、と言いくるめたのは譲介だ。
医師免許を取る前にと、渡米して直ぐに運転免許を取っておいて良かった。
TETSUが年を取って、頑丈で長距離ドライブに耐える車よりもその運転手が必要となった時に、彼の隣で運転したいと思った譲介の小さな希望のようなものは割とあっけなく叶ってしまった。
今のTETSUは、古びた愛車をあさひ学園に預けており、病院と家の行き返りには、譲介の下手な運転に耐えている。
譲介に背中を向けて、診察室を堂々と出て行く様子をこうして見ていると、この調子なら、そのうちに、また、彼の助手席に座る日が来るかもしれない。
いつか来るその日を楽しみにしていると言ったら、TETSUは怒るだろうか。

「先生、次の患者さんが来ました。」
隣に控えて休憩を取っていた看護師ふたりがこちらを向いて笑っている。婚約して長いのに今日もお熱いですね、という視線だ。頼むから、早く次の患者を呼んできてくれないか、と言っても、その笑顔は崩れないどころか、深くなるばかりだ。
一週間はこの話題に晒される気がして、譲介は大きくため息を吐いた。

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