レモン


自分と同じ、メスを握るだけが取り柄の指先だと思っていた。
男が、手にしたナイフで切り取ったレモンの八分の一の、その皮を半分だけ剥いでグラスに差している様子に、KAZUYAはそう思った。
「塩は自分で付けろ。オレはそこまではやらんぞ。」と言いながら透明なジンをなみなみとグラスに注ぎ入れるTETSUの様子を眺める。

「死ぬ前にやり残したことはあるか。冥途の土産に付き合ってやる。」
KAZUYAの人生に突然に現れた男は、こんな時もやはり唐突だった。
病室に顔を出すや、まるで物語に出て来る死神のようなことを言うので、不意に高品の顔を思い出した。渡欧前の心配と重責で押しつぶされそうになっていた、最近のあいつの大人びた顔つきではなく、首に大蒜のネックレスを付けていた、あの頃の情けない姿だ。
かつては飛行機どころかスペースシャトルにも乗って、世界のあちこちを渡り歩いていたのだ、ドイツを遠いばかりの異国と思うような感傷は一切ない。ただ声を聴きたいだけなら、電話を掛ければいいことだった。そう思っても、別れを済ませてしまった今、何を話せばいいのか。
逢って顔を見て、医学のことを、これまでの思い出を、尽きない話の種として語り合い、酒を飲んでいられる時代は終わってしまったのだ。
高品には新しい生活と家族がある。

こちらが物思いに耽っている間、TETSUが窓辺に腰かけて、ただこちらが口を開くのを待っている気配がした。
白いコートを纏う男の横顔を照らす薄明は、街灯ではない。
今夜の月は、随分明るいようだ。
心の中の言葉をそのまま口にした訳でもないというのに「満月だ。外は随分明るいぜ。」とTETSUは言った。
「ドクターKが最後に暴れるにゃ、もってこいの夜かもな。」と挑発するように口を曲げる。
「TETSU、オレはもう医師である前に病人だ。」
事実を口にすると、それだけがため息を吐くような小さな声になった。
こちらの弱音を見て取ったTETSUは、その言葉を鼻で笑った。
「医者じゃなくなっちまったおめぇには、もうやりたいことはねえってのか?」
つまらねぇな、と言いながらも、男はあくまで、こちらの言葉を待つつもりであるようだった。窓辺に居座り、月を見上げるように顔を逸らした男に、KAZUYAは根負けした。
そもそも、まだ医師であるという気概を奮い立たせることが出来るならば、いの一番にやりたいことは、医師としての強権を振りかざし、こちらの安眠を妨げている目の前の男の迷惑行為を終わらせることだった。
『既に今日の面会時間は終わっている。』と、この病院の外に放り出すことが出来れば、どんなにいいだろう。今の体力では、どれだけ力を振り絞ったところで、かつての自分と同じことは出来そうにない。
それに、安眠と言っても、今夜もそう長くは寝られないだろう。
この体力では、有益なことなど、何ひとつ出来そうになかったし、そう思ってしまう自分に多少の嫌気が差していることも事実だ。


酒盛りがしたい、とひとこと告げると、叶えてやるぜ、と笑って、TETSUは来た時と同じようにふらりと病室を出ていき、一生こうして待っているのか、と思い始めた三十分後に、半ダースのジンを両手に抱えて戻って来た。
病院前の通りの店は、どこもすっかり寝静まっている時間だった。
どこから酒を手に入れたのだ、と尋ねると、寝ている酒屋を叩き起こして買って来た、と言う。
傍若無人は健在らしい。
つまみはどうした、と尋ねると「買って来るのを忘れた、塩でいいだろ、塩で。」と言うTETSUに、行くぞ、と寝間着代わりの浴衣のまま、病院の調理場に引っ張って連れて来られた。
扉には鍵が掛かっていたが、ICUでもない病院内の施錠など、この男の手に掛かれば赤子の手をひねるようなものだ。明かりはないのか、というと、ポケットから懐中電灯を出して来て、器用に鍵を開けた。全く、準備のいいヤツだ。
塩を探していたというのに、冷蔵庫を開けるとレモンが見つかったので、その中から二、三個を拝借することにした。
このまま病室に戻れば、両隣の部屋に酔っぱらった男ふたりの話し声が筒抜けになるだろうことは明白だった。
暗い中、床に座って、そのまま飲むことにした。
酒盛りと言っても、病院の調理場では、まともなグラスのひとつもない。
プラスチックのカップで代用することにして、ひとつきりの懐中電灯を床に置き、互いの手元を照らして、顔を見合わせる。
最近どうだ、と水を向けて世間話を始めるような間柄でもないことには、こうして座ってから気付いた。仕方なしに、プラスチックのカップを傾ける。グラスのように塩を付けることは難しいので、カップの端に差したレモンに塩を振りかけた。
レモンとジンの味は、かつて訪れた異国の街を思い出させた。
「どうも気分が盛り上がらんな。」
この手の酒はみんな水だ、と零すと「こんな場所に軟禁されちまった病人が勝手を言うじゃねえか。」と年下の男はいつもの顔で笑いながら、器用に自分の分のレモンを切り取っている。
「軟禁などと言うな。」
「思い立ったところで外に飲みにも行けねぇ状況の、どこが軟禁じゃねえってんだよ。」
「お前が、その辺のぺーぺーの医者の白衣を剥いで外へ繰り出すか、などと言うからだろう。」
KAZUYAの苦言をTETSUはクックと笑い飛ばし、「天下のドクターKが、マントがねえとお外に行けねぇお子ちゃまとはなァ。」と言った。
普段なら眉を顰めるばかりの、そのにやついた顔に、どこかで安心している自分がいた。
このところ、周囲の不安そうな顔や無理をして作られた笑顔に囲まれて暮らしていた。
気丈なKEIですらそうなのだ。オレの今の病状を考えればそれも無理のないことではあるが、それがずっと負担だったようだ。
「TETSUよ。」
「何だよ。」
「……いや、いい。」
――最期まで医師でいたいというオレの気持ちが身体に無理を強いたとしても、それでいいのだという気持ちになったのは、やはりどこかに投げやりなところがあったのではないかと、お前もそう思うか?
そう聞いたところで、きっと「下らねぇことを言うんじゃねえ。」と切って捨てられるのがオチだろう。
目の前に患者がいたから救った、お前はそうじゃないのか、と啖呵を切ることが出来る男にとっては、釈迦に説法というものだ。
「飲もう。」とグラスを掲げる。
「おう。」
酒瓶は棺桶にゃ入れられねぇからなあ。
TETSUはそう言って、残ったレモンを絞り、グラスに注いで呷る。
話したいことでもあって来たのか、とは思うが、直接水を向けたところで口をつぐむだけだろう。
明かりが照らすのは手元だけだ。互いの顔も分からない場所にいると調子が出ない。
妙な具合だった。悪党のひとりでも出ないかと思うが、よく考えれば、今は自分が悪党の側だった。調理場でレモンを盗む、正真正銘の窃盗犯だ。
ふっと口元に笑みを浮かべると、「なァに笑ってやがるんだよ。」と暗がりでTETSUが、同じように笑うのが分かった。
「酒が足りないような気がしてきた。」たった半ダースの、そのまた半分の酒だった。
半分は、目の前の男が飲んでしまった。一時間も経たずに買って来た酒瓶の大方をすっかり空けてしまったので、TETSUが持ち込んで来た酒瓶は残り一本だ。
「だぁから、酒を買って来る前にどれくらい飲めんのかって聞いたんだ、――ったく、オレのいねぇところで勝手に病人になんかなりやがって。馬鹿野郎が。」とその残りを大事そうに抱えて、ろれつの回らない声でTETSUが言った。
「ああ、酒だ。酔っちまった。」
深酒の酔いを声に滲ませた男は、そう言って床に寝そべる。
懐中電灯の薄明かりに、ぼんやりとTETSUの顔が浮かび上がる。
どんな仕事を終えてここまでやってきたのか、目の周りのクマはひどく、疲れた顔をしていた。
(きっと、オレも同じような顔になっているのだろうな。)
ふさふさした前髪に、ふとシリウスのことを思い出して身体を寄せると、TETSUは胡坐をかいた間に頭を乗せて来た。
お前は猫か、と思ったが、口を開こうとする前にTETSUは目を瞑ってしまった。
疲れているならそのまま寝かせてやろうという気になった。
猫を飼うとはこうしたものか、と思いながらKAZUYAはTETSUの頭を撫でる。TETSUはくすぐったそうに身じろぎした。
腕に抱えた酒瓶をどのタイミングで取り上げようか、と思案していると、「おい、Kェ、おめぇはあの時の海を覚えてるか。」こちらの膝の上で目を瞑ったまま、TETSUは言った。
「起きていたのか。」
「天国じゃ皆、海の話をするんだと。おめぇが忘れたなら、オレが連れてってやろうかと思ってよ。……あっちに行ったところで話の種がなけりゃ、後で困っちまうだろ。」
お前と見た海を忘れるはずがないだろう、と。
そういう言葉をオレから引き出したいのだろうか。
TETSUと過ごしたのは、明るい昼の海の方が多かった。
病を得た後の、闇が渦巻く嵐の海の一夜がこの身体をひどく蝕んだことを、こいつに伝えるべきだろうか。
いや。この先、オレがあの夜のことを口にすることはないだろう。
親しい者に哀しい顔をさせるような海の話は、もう十分だ。
「……オレは天国には行かないから、海の話は必要ない。」と言うと「じゃあ、オレもいつか地獄に行くぜ。おめぇの道行きに付き合ってやるよ。」そう言って、膝の上の猫はすうすうと寝息を立てた。
「なにが、じゃあ、なんだ。何が。」
いつまでオレに付いてくるつもりだ、と呆れを口にしても、反論は返って来ない。
ジンの入ったカップの上から、櫛形に切り取られた、小さな三日月のようなレモンを絞り、酸味の強くなった酒を呷る。
やはり水のようだ。
酩酊した頭で、そう考える。
「あちらに行けば、お前が来るか。」
死も、そう怖くないのかもしれんな。
暗がりの中、そう呟くと、待ってろ、という小さな声が聴こえたような気がした。










FukiKirisawa 2024.02.28

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