「さっっっっむい! テツ、僕ここはもう無理!」
譲介はロッジに着くなり、震えながら音を上げた。
「ストーブ焚きゃなんとかなるだろ。」
「ならない! 暖かくなるまで時間が掛かるに決まってるし、これ以上暖かくならない、って気付いた時にはどこにも行けなくなっちゃってるよ。テツ、諦めて別のところに行こう。」
暖かければこんなにちゃんとしてなくてもいいから、と譲介は言った。


薪ストーブ。
明り取りの四角い窓から見える、冬枯れの森。
洒落た間接照明、角が丸くなった机の周りを囲む、子どもサイズの木製の椅子。
ケーキや七面鳥が丸ごと焼けそうな赤くて大きなオーブンに、整然とコップや皿が並ぶ棚。小さなベッドがある屋根裏部屋の窓からは、星空が見える。
在るべき場所にあるべきものが収まっている小ぢんまりとした、本の中の家のようなログハウス。
ガキにはこういうのがいいんじゃねえのか、と連れて来た山間の一軒家だ。
自分の分の荷物のみならず、怠惰な保護者に飲ませるためのコーヒーの水筒までも荷造りをしようと台所でぐずぐずしていた子どもにマフラーを巻いて帽子をかぶせて助手席に詰め込み、車を出してから二時間。
地雷を踏んでも横転しないという触れ込みで買ったハマーH1は、譲介が生まれた年に買ったからもう買い換え時ではあるが良く走る。
山ほどの荷物を買い込んで籠城するつもりで来たって言うのに、青いダウンジャケットと同系色の毛糸帽でもこもこに着ぶくれした子どもが、ものの十分も持たなかったのは誤算だった。
それなりに雪深い場所で育ったせいか、オレ自身はこうしたシチュエーションには慣れており、そもそもまだ雪もさほど積もっていないのだからと軽く構えていたが、そもそもの一月や二月でも昼は二桁の気温になることもある関東で育ったガキにはこういう場所は向いてない。
それにしたって、今から別の宿を探すとなるってえとなると……。
ここまで来る道沿いに、何もない訳じゃなかったが、屋根があるからと言ってこんな年のガキんちょ諸共ラブホに転がり込むわけにもいかねえ。
眉根を寄せて考えていると、譲介は、とりあえずのつもりで新聞紙に包んでいた細かい薪をこっちの手から取り上げ、ストーブの中に放り込んで火を付けたら出て行けなくなるだろ、と言って、さっそく部屋の隅に見つけたエアコンの電気を付けている。
オレと一緒に暮らすまでの譲介は、冬場に車を出すときにゃ、シートベルトを締める前にちゃんと着ぶくれしておけ、と言っても、マフラーも帽子も被らずに飛び跳ねてるようなガキだった。随分とヤワになったとは思うが、オレと暮らすのに慣れて来て内弁慶になってるってのは、まあ悪いことじゃねえんだろう。
「今から予約が取れるってのか?」
「取れるか、じゃなくて取るしかないだろ。電話はあるんだし、あ、あった。」
こっちが運転を終えた後のけだるさでぼんやりとしている間に、譲介は部屋の中に見つけた電話帳を広げ、寒さにかじかむ指で旅館かホテル、宿泊施設と言いながらページを繰っている。
こいつは、僻地の医者に向いてるかもしんねえな、とふと思って手前の親バカぶりに笑ってしまう。
まあ、宇宙飛行士だろうが弁護士だろうが、最低限、オレがいなくとも食っていける仕事に就けりゃ、別に医者じゃなくてもいい。わざわざ面倒な道を選ぶこたぁねえ。
それにしても、電話か、とスマホを取り出して見てみると、確かに電波が立たない。
山奥ってえのは、――ったく……。
「テツ、どこがいい?」
譲介が指し示したページには、幸いにも、譲介がロッジを借りる前後に見たホームページで他のおススメ、として出て来た名のホテルが何軒かあった。昔の電話帳というのは便利がいいもので、ちゃんと住所が書いてある。
上からつらつらと眺めて一番近そうなホテルに電話を掛け、広い部屋は空いてるか、と聞くと一発で予約が取れた。
「今夜は、上げ膳据え膳ってえのはなさそうだな。」と言うと、譲介が、アゲゼンスエゼン、と呟いて目を丸くした。
「それって何?」
譲介が好奇心を前面に出した面構えで尋ねて来たので、旅館で朝夜に飯が出て来るヤツだ、仲居が部屋に配膳する、と説明する。
ホテルなら、まあ従業員が楽なビュッフェスタイルだろう。
カレーはねえかもな、と言うと、目の前にしゃがんでこっちの話に耳を傾けていた譲介が、ふうん、と途端に気のねえ声になった。
そうか、宿はまあどうにか手筈が付いたが、こうなるとハマーの中に詰め込んで運んで来ちまった肉と野菜の方が問題だ。
今日これからどんな山道を行くことになったところで、仕方ねえか、の一言で済むが、今夜のメインになるはずだった『夕飯のカレー』はどうしたもんか。
頭を掻いていると「ほら行くよ、テツ。」と言って、どっちが保護者か分からねえようなツラをした子どもがオレの手を引っ張る。



予約をしたホテルという名の建物は、名実ともにホテルと言うには多少の違和感があった。
妙に目新しい看板を訝しげに眺めながら中に入ると、天井にきらめくシャンデリアの下、宴会場はこちら、と書かれた立て看板があった。
馬鹿が見上げて煙が昇るための高い天井のフロアで、そのラウンジには、御抹茶立ててますの幟が立っている。
浴衣の上に丹前を羽織ってうろつく客の姿と、展望大浴場とでかでか描かれた矢印。
……ただの旅館じゃねえか。
まあ、フロアを行き交う宿泊客の服装を観察したところ、暖房はそれなりに利いているようだった。それだけでも、譲介はホッとした顔をしている。
フロントでチェックインの手続きをすると、やはり、というか、それらしいお仕着せを着た従業員の口からは「和室と洋室どちらがご希望ですか。」と来た。
「空いてる中で一等広い部屋。」と伝えると、景色のいいお部屋をご準備させていただきます、と茶髪のフロントマンは言った。
「夕食と朝食は、部屋にお運びさせていただきますか? お時間は?」
そう聞かれて「夕飯は持ち込みの材料を使ってカレーにしてくれ。」とクーラーボックスを宿帳代わりに書いた紙の横に乗せて押し付けた。
準備した封筒を心づけだと言って渡すと、几帳面な手つきで封筒を受け取った相手は、女だてらに眉ひとつ動かさず、少々お待ちください、とそう言って、クーラーボックスの上に封筒を乗せたものを抱え、静かに奥に引っ込んでいった。
金と食い物を仕舞って来るのかと思って待っていると、奥から支配人らしきスーツの男が出て来た。
そういうことかよ。
いらっしゃいませ、という一言で分かる。
身体には多少の緊張を走らせながらも静かな微笑みを顔に貼り付けてる様子を見ると、オーナー辺りが都会から引っ張って来た雇われ支配人ってとこか。
あくまで柔和に。
払いのいい客からこれ以上の金をぼったくろうという姿勢とは、似ているようで真逆の雰囲気を醸し出しているのが分かる。
次に口を開けば、出てくるのは身分証の御提示と刺青の有無の確認だろう。
心づけが足りなかったか、あるいは団体客がいてこれ以上の迷惑は間に合っているって日に当たっちまったようだな。都心のホテルと違って、顔が利く人間の伝手を頼るわけにもいかねえのが面倒だ。
さァて。『生憎、お客様がご要望のお部屋が手違いで塞がっておりまして。』と言われちまった場合はどうしたもんか。
大人ふたりの不穏な空気を感じたのか、譲介がぎゅっとこちらの手を握って来た。
「テツ。」
譲介は、こういうとき妙に敏い。
車の中で手袋を脱いだままにしていたその冷たい指先を、心配するな、と握り返す。
譲介のヤツは、難儀なオヤジを持ったせいで、小さい頃に母親を取り上げられちまったまま成長した。
ほんのチビ助の頃から驚くほどの警戒心を育てて、自分の身を守るためのアンテナを張り巡らせて演技でも家事でもなんでもやってきたコイツを見ていると、年の瀬くらいは、そういう面倒から離したところに置いてやりてえと思ってこんな田舎まで連れて来たが。まあ、蓋を開けちまえばこんなもんだ。
フロント近くの土産物売り場で手土産を物色していた風呂上がりらしい団体客が、そろそろ宴会の時間だ、行くか、と言いながらぞろぞろと移動していく話声が聞こえて来る。社員旅行の真っ最中ってところか。
オレやこいつみたいな人間の人生ってのは、どこまでも難儀ばかりで出来てるらしい。
「お客様、ご職業をお伺いしても。」と目の前の男が言って来たので、肚の中で苦笑しながら「安心しろ、医者だ。」と笑う。
「車に道具は積んでる、患者が出たら呼べ。」と言うと、相手は、さようですか、と言いながらゆっくりと微笑み「どうぞ、当館ではお寛ぎください。」と来た。
普通の男なら、オレみてえな格好の男が自称医者だなどと言おうものなら、要注意人物のカテゴリに入れて表面だけ取り繕うこともするだろうが、そういった気配は微塵も感じられない。
「本日は調理場が立て込んでおりますので、食事はご用意にお時間をいただきます。……よろしいですか、坊ちゃん。」とこっちから視線を離して譲介を見た。
話を振られた譲介は、はい、大丈夫ですと頷く。
小さな指先からホッとした気配を感じる。
細いキーホルダーに取り付けられたルームキーと、パンフレットをこちらに手渡して来たので、ありがとよ、と受け取って笑い返す。
「ついでにコーヒーと、こいつにはジュースを持って来てくれ。」
支配人は「飲み物は当館からのサービスとさせていただきます。」と言って、口元に笑みを浮かべた。



ロビーから歩きに歩いてやっとたどり着いた和室は、妙に広く、床の間には趣味のいい生け花が設えられていた。
かつてはさぞかし名のある旅館だったのだろうが、いまや団体客が主な客になってしまったのだろう。形のいい鴨居には、いくつかのハンガーの引っ掛けがあり、その不格好なコントラストに苦笑しながら、譲介が脱いだコートと帽子を掛けてやった。
部屋に通された譲介は、テツの家と同じくらい広い、と言って感心している。
未だに自分ちとは言えないらしい子どもが妙にいじらしく、頭を撫でると、譲介は「カレー出来るまで宿題してるから。」と張り切ってノートやドリルを広げ始めた。
学生の本分にしゃかりきになる子どもを横目に、暖房を効かせた部屋で荷物から印刷して来た論文を取り出す。
景色がいいという触れ込みにしても、今の時間では、窓の外には薄闇ばかりが広がっていて、夜景のひとつもない。電子辞書を片手に椅子の置いてある窓辺で読んでいるうちにも、外はどんどん暗くなっていき、外からは底冷えする冷気が忍び寄って来た。ちらちらと雪が降っているのが見えると、今夜はこれで良かったのかと思う。
これ以上寒けりゃ、頭が働かなくなる。
課題を片付けている合間にも口を動かし、部屋の中にあった菓子器の中の煎餅をすっかり食べ尽くしてしまった譲介は、ちょっとだけ寝る、と言って瞼を擦りながら隣の部屋に引っ込んでいった。
子どもが散らかしたままのちゃぶ台の上を片付けていると、エアコンの風がもろに背中に当たる。これだけの温風をまともに食らう場所で作業をしていたら、まあ、眠くなっちまうのは道理だろう。逆に、カフェインを摂ったわけでもねえのによくこの時間まで起きていられたもんだ。
宴会場からも他の客室からも離れた場所にあるにも関わらず、酔っ払いの声は、遠くからこだまのように響いてくる。ちゃんと寝れるもんか、と隣の部屋を覗いてみると、少し肌寒い空気の中、譲介がベッドにうつ伏せになっていた。転がして下にしていた布団を身体に掛けてやるついでにエアコンの温度を上げると、まだすうすうと寝息を立てている。
ちょっと前まではベビーベッドに納まっていたガキが、それなりにデカくなるのはあっという間だ。


ポットにほうじ茶が入っていたので、湯呑に入れて啜りながら論文の続きを眺めているうちに、鍋に作られたカレーが、ワゴンに乗って鍋ごと部屋の中に持ち込まれてきた。ジュースの他には、サラダとパンに朝食用らしい一口サイズのバター。炊いたばかりで小さな寿司桶に盛られた白米は、気働きの出来そうなツラの若い仲居にその場で配膳された。スープを入れた保温容器と、コーヒーと白湯、ほうじ茶の替えを入れたポットが三つに、茶筒と急須。譲介のために作られたらしいプレートには、旗を立てたハンバーグまで付いている。それら全てを手際よく並べ、ジュースの瓶の栓をその場で抜いた仲居は、夜も遅いですし、量が多ければ残しても構いません、と去り際に言った。
隣の部屋のベッドで寝ていた譲介は、仲居の立てる音に気付いたのか、はたまたカレーの匂いに釣られたのか「カレー来た?」と寝ぼけまなこで隣の部屋から顔を出し、整えられた食卓に目を輝かせた。顔を洗って来い、と言う暇もなく、準備の出来たちゃぶ台の前にさっと座り、いただきます、の手を合わせるのも忘れて目当ての飯をかき込んだ。
美味いか、と聞くと美味しい、といつものように返事をする代わりに、勢いよく頷く。ハンバーグはテツにあげると手前勝手にこっちに押し付けてきて、寝起きのくせに寿司桶から飯を三杯ついでカレーを食べた。ガキの胃袋は特別製だ。
三杯目でやっと満足したらしく、頬っぺたには米粒が付いている。
どうやら食欲は旺盛なようで、それはまあいいことだった。
フロントに電話して食事を下げさせると、譲介は、そのまま歯を磨いて寝てしまった。


窓を開け、カレーの匂いの残る部屋を換気すると、暖かい空気が逃げて、冬らしい寒風が入って来る。
なんとなく論文の続きを読む気になれず、風に当たりながら、ポットに入れてある美味くも不味くもないコーヒーを湯呑に入れて啜っていると、遠くから鐘の音が聞こえて来た。
晦日でもねえのに、とは思うが、事前の演習でもやっているのか。
ご苦労なこった。
部屋が暗くないのもあって、星や月が見えるでもない。窓をきっちりと閉め直して、寒さ避けのためにカーテンも閉めた。そうして、ふと明るい部屋の中を眺めると、譲介が着てきたコートが目に入った。
シーズン前には身体に合うと思って買ってやったつもりだったが、今日着たところを見ていると、膝が出て来た様子だった。
来年には、また買い換えることになるかもしれねえな。
ふと、そんな風に思ってしまった自分に笑ってしまう。
譲介がすっかり巣立っていくまで、長くてあと十数年。冬は寒いばかりのこの田舎で譲介と過ごして、オレの方でもそう考えるようになった。だとしても、京介がのこのことあいつの前に面を出しに来た場面で、親子ごっこのこの猿芝居がはねることは分かっている。
いつまでも一緒にいられる訳でもねえのは分かっちゃいるが。
鐘の音でも払えはしねえのが、人間の煩悩ってやつだ。
残りを飲み干そうと思ったが、湯呑の中のコーヒーはすっかり冷めていた。
「……もう一杯飲んで寝るか。」
部屋の中に戻ると、妙に暖かかった。
こういう夜は、余計なことを考える前に寝ちまうに限る。
新しい湯呑に半分だけ注いだほうじ茶を飲み干して、ちゃぶ台のある和室の電気を落とすと、部屋の中はどこもかしこも、すっかり暗くなった。擦り足で、隣の部屋に移動して、譲介を起こさないようにベッドに横になって布団を被った。
いつの間にか、聞こえてくるのは、子どもの寝息とエアコンの音ばかりになっていた。
あと三日もすれば、次の年がやって来る。
どんな年になるかは誰にも分からない。
オレにも、こいつにも、いい年になりゃいいが、と思いながら目を瞑る。
さっきまで聞こえていた鐘の音が、どこかからまた聞こえて来たような気がした。


powered by 小説執筆ツール「notes」

187 回読まれています