孤独な夜に添えたなら




 ​──ふと、目が覚めた。

 重い瞼をゆっくりと開ける。目に映ったのは、数日前から滞在している砂の都ファラザードの宿……その客室だ。窓の外から仄かに光が差し込み、その明るさから日出の頃合だろうかと錯覚する。

 魔界の空はアストルティアとは異なり、明るさによる昼夜の判別が難しい。魔界を訪れた冒険者の中には、生活の管理ができなくなり体調を崩してしまった者も少なくないと聞いている。満月の晩よりも眩しく感じる魔界の夜に未だ慣れていないシンクは、布団の中から壁掛け時計を確認する。その時針が下がりきるまでまだ時間があり、今から活動を始めると十分な休息を取った事にはならないだろう。
 明日はファラザードの近隣で魔物を討伐しに行く予定だ。しっかりと務めを果たす為にも再び瞼を閉じようとした……その時。

「…………さい……」

 静寂の中、今にも消えてしまいそうな音が聴こえた。小さく掠れたその声に、シンクは心当たりがあった。

「……ごめん……みん、な………ごめんなさい…………」

 次第にはっきりと聴こえるようになる懺悔の言葉。これは今に始まった事ではない。シンクが彼女と出会い、共に旅をし、少しでも宿代を節約させる為に同じ部屋で寝泊まりすることが当たり前になった頃から度々起きていた現象だ。
 当人曰く、寝ている間に悪夢をみたり寝言を呟いたりしているなんて自覚は全く無いようだ。けれどもその影響は確実に出ており、睡眠が浅い彼女の寝起きはとんでもなく悪い。無表情でありながらいつも以上に不機嫌そうに見える早朝の彼女に対し、きちんと眠れているかそれとなく尋ねてみたが『何で貴方がそんな事を気にするの?』と呆気なく突き返されてしまって以来、話題に出す事ができないままでいた。
 身体を起こし部屋の奥側に位置するベッドに視線を移すと、布団の中で丸まっている彼女が微かに震えているのが分かる。今日という日に限っては、魔界の蒼白い月明かりがその姿を鮮明に照らしていた。

 かつてのシンクであればここで目を逸らし、背を向け、何も聴いていないと自分自身に言い聞かせながら再び眠りについただろう。
 数年前の二人はあくまで『フェイの望みの為に共に行動をしている』だけの関係だった。彼女の過去に何があったのか、彼女はどうして一人だったのか、それを知る権利は赤の他人である自分には一切無い。だからこそ、彼女が無意識のうちに見せる苦しみには決して触れてはならないと感じていた。
 けれどもシンクは、彼女が空に消え去った後その選択を何度も後悔した。あの時、彼女に対し『何か』ができていれば……長い旅路の中で、ありもしない未来を何度も思い描いては消していく数年間を過ごしてきたのだ。

 ​──これはただのエゴで、望まれる事じゃないかもしれない……だけど……。

 自分は彼女が失ってしまったものの代わりにはなれないのかもしれない。その傷を埋める事ができるのは自分ではないのかもしれない。そんな恐れや不安を抱きながらも、それでも手を伸ばそうと決めた。この想いにほんの少しでも応えてくれた彼女に、二度と『あの表情』をさせる訳にはいかない。
 シンクはベッドから脚を下ろし、彼女の方へと身体を向ける。

「大丈夫か、モカさん?」
「いや、だ…………」

 何かに怯える彼女に対し何度か名前を呼んでみるが、どうやら聴こえていないようだ。
 声が届かないのであれば、と彼女に対してそっと右手を伸ばす。少し躊躇いながらも彼女の肩に軽く触れ、揺さぶってみると、ようやく気付いた彼女の瞳が微かな光を反射させた。

「…………?」
「起こしてごめん。うなされていたから、つい……」

 彼女はぼんやりとした顔で、何も言わないまま此方を見つめる。
 眠りを妨げた事に対し申し訳なさを感じつつ様子を見ていると、彼女は程なくして長い睫毛をゆっくりと伏せていく……そして、シンクが伸ばした右手にそっと手を添えた。

「……えっ」

 細く冷たい指先が、シンクの手をきゅっと握る。
 予想外の出来事にどうするべきかと迷っているうちに、布団の中で小さな寝息が聴こえ始めた。その横顔は先刻よりも穏やかで……手を振りほどくのは容易いが、今の彼女を起こしてしまうのは良くないと感じてしまい、シンクは音を立てぬよう気をつけながら彼女が寝ているベッドに沿うように座り込む。

​ ──二度寝をするのは諦めるかな。

 薄明かりに包まれながら目を閉じる。彼女の指先から次第に温もりを感じるようになり、ひと安心した所でシンクの意識も次第に遠のいてゆく。
 大切にしたいものが手の届く場所にある……そんな幸福をいつか彼女にも感じて貰いたい。だからこそ、彼女が彼女自身の意思で『やりたい事』を見つけるまで、傍に居続けようと改めて心に誓う。

 ​──今はせめて、夢の中だけでも……。

 そんな願いを右手に込めながら、シンクは時針が下がりきるまで夢と現の境界を微睡んだ。



****



 ​──ふと、目が覚めた。

 モカは上半身を起こし、伸びをする。
 不思議と身体が軽い。壁掛け時計を確認すると、普段よりも早い時間に起きてしまったようだ。既に隣のベッドは空いており、シーツは丁寧に整えられている。

「あれ、もう起きたのか」

 気の抜けた声が聴こえた方に視線を向けると、既に身支度を済ませた彼が間仕切りの向こう側から顔を覗かせていた。

「それじゃあ、俺は魔物の討伐に行くから」

 そう言い残した彼は、そそくさと客室を後にする。少し慌てていた様子だったが、何かあったのだろうか。ほんの少しだけ考え、今の自分には関係のない事だと放念しようとした……その時。モカはふと、掌に残っている感覚に気付く。

「あたたかい……?」

 それは、身に覚えのある温もりだった。
 大切でありながら何度も捨てようとしてきたもの。こんな自分が求めてはいけないと思い続けていたもの。様々な感情を思い出しては、何も残っていない今の自分の手を強く握りしめる。

 ​──早く……少しでも早く、この感情をどうにかしたい。

 魔界を訪れてから既に数日が経つが、心の中の『霧』は未だ晴れないままだ。モカはベッドを降り、机の上に置かれた分厚い本を手に取る。この想いが冷めぬうちに、何としてでも見つけ出さねばならないと感じた。

 未だ不明瞭な答えを求め、少女は微かな温もりを頼りに暗闇の中を彷徨い続けた。



《 fin 》

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