幸を呼ぶ左手

 おれは猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたかはまったく見当がつかない。とにかく薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。おれはここで初めて人間というものを見た。
(…………)
「んん? ……猫?」
(で、でか……)
 人間はリンネという。初めてこいつを見た時、直感的に「食われる」と思ったのを覚えている。何しろリンネはでかい。
「どした、捨てられちまったかァ? 可哀想に」
「……ミャア」
「はっ、ンな目されっと困っちまうっしょ。燐音くんやさしーンだからさァ……仕方ねェな」
 そう嘆息したリンネの青い目は、見上げても見上げてもなお遠い空のよう。甘くやわらかい声は、もう鳴き声も思い出せない母がいつか施してくれたミルクのよう。
 おれを連れ帰ったリンネはニキ(ニキというのはリンネの友人で、えらい大飯食らいだ)に帰るなり怒鳴られていたけれど、上手いこと言いくるめておれに屋根と寝床を与えてくれた。
 そう、リンネはでかくて優しくて強い。

 いつだったか『荒涼としたサバンナを身一つで生き抜くライオンの家族!』とかいうテレビ番組を見ていたリンネが、「ライオンくらい素手で倒せなきゃ君主なんざ務まらねェっつーの。なァニキ」とかなんとかほざいていた。ライオンってあれだろ。おれ達の仲間の中でいちばん強いやつだろ。それより強いならリンネはたぶんものすごく強い、どこかの王とかなのだろう。
「燐音くんのおかしな故郷ルールなんて知らないっす」
「知れよ。もっと俺っちのこと知りたがれよ」
「心の底からどうでもいいっす。は〜い猫くんご飯っすよ〜」
 おれは「ミィ」と返事をした。ニキの作る食事は美味しい。時々目の据わったニキが、涎を垂らしながらおれのことを見ている……ような気がするが、気のせいということにしたい。



 この家に連れてこられた日、リンネはおれを風呂に入れてくれた。水は苦手だけれど、リンネが大きな手で優しく、おれが怖くないように気を遣って洗ってくれているのがわかったから、暴れるのはやめておいてやった。
「わあ、こんなに綺麗な猫だったんすね」
「おうよ。泥を落としてやったらぴかぴかになったぜェ、燐音くんに感謝しやがれよ♪ なっメルメル」
「メルメル?」
「あ〜ホラ、こいつ似てンじゃん。毛並みが良いとこといい、つんとしてるとこといい」
 誰の話をしているのだろう。ニキが顔を近付けて舐めるようにおれを見た(おれと同じ危機感を抱いたのか、リンネがさっとおれを腕に抱いて庇ってくれた)。
「うん、たしかに……? 可愛い系より綺麗系つっすもんね、猫くんもHiMERUくんも。燐音くん好みの美人さんっす」
「何知ったようなこと言ってンだニキてめェ」
「いだっ⁉ 何も間違ってないでしょ!」
 騒がしい家に連れてこられてしまった。キャンキャンうるさい人間達よりも、おれは静かな場所が好きなのだ。
 だから隙を見てさっさと逃げ出すつもりだったのに、膝の上に乗せられてそよ風(ドライヤーというらしい)を当ててもらっているうち、まあここでしばらく過ごしてやってもいいか、という気になった。もてなされたり甘やかされたりするのは好きなのだ。



「ニャア゙ア! ギニャー!」
「こォらじっとしろ、怖くねェから!」
 馬鹿言えここは医者だろう。おれは詳しいんだ。これからおれに酷いことをするつもりだろう。
「ちょ〜っとチクッとするだけっしょ、ダイジョブダイジョブ。なっ? 痛くねェから」
 うるさい。痛いかどうかはおれが決めるんだ、おまえが決めることじゃない。
「センセ早く、今、今!」
「ブニャ!」
 ――ほらやっぱり、痛いじゃないか。



 リンネはおれをカゴに入れて連れ歩いた。人間の声がたくさんと、それから『アンサンブルスクエアへようこそ』という声……じゃなくて抑揚のない音が聞こえる。おれにはなんとなく、これからリンネとお別れするのだということがわかっていた。
「燐音はん、こないだ言ってた子連れてきたん?」
「お〜、ここにいるぜ」
 リンネよりも小さい人間がおれを覗き込んだ。おれにはわかる。こいつは可愛い顔をしているが相当な手練だ。
「――猫さん、里親が見つかったのですよね? 手放す前にHiMERUにも触らせてもらえませんか」
「え〜いいけどォ、こいつ人見知りするからメルメルのこと怖がっちまうかも」
「HiMERUが怖いわけないでしょう。生きとし生けるもの皆HiMERUに魅了されるに決まっているのです」
「……こはくちゃんツッコミは?」
「猫はんかわええなあ」
(今無視されたなリンネ……)
 リンネの手でカゴから出されたおれは知らない人間の膝に乗せられた。こいつはヒメルというらしい。一度だけ、リンネがおれに向かって、似たような名を呼んだ気がする。
「――ふふ、可愛いですね。うちがペット禁止の物件でなければ、飼うのもやぶさかではないのですが」
「無理なモンはしょうがねェっしょ。俺っちも寂しい」
 リンネがしくしくと泣き真似をする。そこに全身から美味しそうなにおいをさせたニキが駆け寄ってきた。
「あっ猫くん来てたんすね〜! よかった、お別れの挨拶ができて。ご飯いっぱい食べて可愛がってもらってね」
 ニキはリンネと比べて少々乱暴なところがある。今も俺の前足を持ち上げてはぶらぶら揺らして、リンネに窘められている。――やっぱり騒がしいが、おれはこいつらのそばにいるのが嫌いではなかった。
(……あれ)
 おれを撫で回すニキの後ろに立ったリンネが、おれを通り越してどこか一点を見つめていた。視線の先を追えば、こちらを見て穏やかに笑っているヒメルに行き着く。リンネのその眼差しを、おれは以前にも見たことがあった。

〝はっ、ンな目されっと困っちまうっしょ。燐音くんやさしーンだからさァ……仕方ねェな〟

(ああ、そうか)
 あの時おれに向けられた眼差しは、愛しい者に向けるものだったんだな。だからおれは安心して、あんたに身を任せたんだ。今になってわかったよ、リンネ。
 おれとリンネは今日でお別れするらしい。けれど、ほんの少しの間共に暮らしたこの人間が、これからも幸福であることを願う。少なくともあんたがくれた甘いミルクみたいな優しさのぶんだけは、幸せを招いてやれるように。
 おれはゴロゴロと喉を鳴らしてリンネの左手に擦り寄った。





(2021年猫の日)

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