喧嘩するほど末長く仲良くあれ
鴗鳥家の庭の隅には小さな門扉がある。元々は植え込みがあったところだが、夜鷹純が鴗鳥慎一郎の家に来る度に遠慮なく植え込みの間を通り、高いコートに葉やら枝やらを付けるので設置したのだ。
純が玄関から入ってくることはほとんどない。ふらっと純専用の門扉からやって来て、ふらっと帰る。
長らくはそのふらふらとした背中を見ながらこのまま消えてしまうのではないか、と思っていた。また、と言ってもそのまたが数年、下手したら数十年後になってしまうかもしれない。
それがここ数年でいつの間にか改善されていたことに気が付いた。純は純として地に足を付け生きている。また、という約束を信じられる。本当によかったなあと慎一郎はここ数年の様々なことを思い浮かべた。
そんな純が、今夜は真っ青な顔をして鴗鳥家の家にやって来た。丸い月がしっかりと浮かんでいる明るい夜で、そんな月明かりに照らされているものだから純の顔は余計に白く見えた。ただでさえ鋭い頬も今日はいつも以上に鋭くなっている気がする。シュッとしている、というよりも痩けてしまったような印象だ。
ふらふらとやってきて庭に立ち尽くしていた純を急いで椅子に座らせ、お茶を淹れてやる。純は手を付けないだろうが、こういう時は近くに温かい飲み物があった方がいい。
慎一郎は純の斜め前に座り、純の言葉を待った。相変わらず真っ白な顔をした純はしばらく黙っていた。目線は机に向けられたままで、項垂れているようにも見える。
そんな親友に何か言ってやりたかった。しかしそれ以上に純が言いたいことに耳を傾けなければいけないことも分かっていた。きっと今、純は自分の中から言葉を探している。こちらから一方的に喋ってしまうとその言葉がどこかにいってしまう。長年親友をやっている慎一郎だからこそ分かったことだった。だから辛抱強く待つ。ただ待つ。
それからどれくらいの時間が経っただろう。目の前にあるカップからは湯気が消えていた。
「もう別れた方がいいのかもしれない」
口からこぼれてしまったような言葉だった。純の口から別れる、と聞いて、慎一郎の脳裏にはパッと一人の男が浮かぶ。明浦路司。八歳年下の純の恋人。
「……何でそんなことになったんだい?」
慎一郎が知る限り、純と司はかなり上手くやっていた。というより、純と同棲出来る相手は司以外にいないだろう。同棲を始めた、と聞いたときに腰を抜かしそうになったくらいだ。あの夜鷹純が誰かと暮らすことをよしとするなんて! しかも純の方がかなり強引に迫ったのだという。
会う度会う度越してこいって言うんですよ、と司は苦笑いしていたのだ。今度こそ慎一郎は本当に腰を抜かしそうになった。
そこにもいくつかの波乱があり、それでも純の粘り勝ちという形で始まったその同棲生活も、もう数年目に突入している。
そういうわけで、純と司は上手くやっているようだったのだ。時折喧嘩もしていたけれどそれも恋人同士の延長線上にあるようなじゃれ合いで、慎一郎はそんな二人を微笑ましく見ていた。まだ恋人だったころのエイヴァともあんな時があった……。
話を戻そう。二人を近くで見ていたからこそ、純の口から出た言葉が信じられなかった。しかし現に、純は今にも消えそうな顔をして慎一郎の前に現れた。冗談でもそういうことをいうような人間ではないし、この姿を見れば一目瞭然だ。
「分からない。でもきっと僕が悪い」
「心当たりは?」
「……司の考えていることが僕には分からない」
深い深い溜息を吐く純にかける言葉が見つからない。とは言え、純から話を聞かない限り解決策も見つけられない。
それより別れる、なんて言葉を純から言い出したことが驚きだった。今までいくつかの喧嘩を仲介してきた慎一郎も、そこまで言っている純を見るのは初めてだった。
「しかし純くんが別れるなんて言ったら明浦路先生もひどくショックを受けるだろうね」
傍から見ても司は純に惚れていた。惚れきっていた。元々選手時代の夜鷹純のファンだったらしく、純のことになると何かと熱く語っていたくらいだ。二人が付き合うようになる前は慎一郎が純の名前を出すだけで肩が跳ねた。
極めつけはあの目だ。三人で貸し切りの氷に乗るとき、司は穴が空きそうなほど熱心に純を見つめていた。目線に熱量があればきっと純やリンクは溶けていただろう。
しかし純はその目線を浴び続け、何なら微笑んですらいた。何も思っていない人間から向けられるには熱を帯びすぎているそれを、真正面から受け止めていたのだ。
そんな二人を知っていたから、純と司が恋人同士になったと聞いてもさほど驚きはなかった。むしろ収まるべくして収まったと思っていたのに。
そんな司が純から別れを告げられたら。そんなことは考えたくないけれど。
「慎一郎くんは分かってない」
純は再び大きな溜め息を吐いた。
「あの子はどうにでもなるよ。僕に振られても」
「え、いや、それは……」
「別れた直後こそショックを受けて弱るだろうけど、でも悲しんで悲しんで涙も涸れるくらい泣き終えたらそこで終わりなんだ。区切りがつけられるんだよ、自分で。
その頃には僕のことなんてすっぱり忘れてる。もしくはいい思い出とかそういう過去になる。
それで立ち上がって次に行くんだろうね。あの子は魅力的だからそこにいるだけで人が寄ってくる。恋人と別れたとなればいろんな人が寄ってくるだろう。
次も男かそれとも女か……分からないけど、でもすぐに次の恋人を見つけるんだ。そしてあの熱くて深い愛情を全て注いでその相手を全力で愛すんだろうね」
饒舌になった夜鷹に気圧されて慎一郎は何も言えなかった。淡々と話しているものの、その目線は揺れている。目の前にいるのは恋人と仲直りも出来ずに項垂れている、ひとりの男だった。
「僕は別れても司ほどショックは受けないだろう。泣きもしないしすぐに司のいなかった頃と同じように過ごす。
でも心の中にはずっとあの子がいる。ふとした時にあの子を思い出す。思い出した瞬間、自分が欠けているように感じる。
それでもそれを埋められるのはあの子しかいないんだ。他のものでは代わりがきかなくて、だから司の痕跡を抱き締めながら生きていくしかない。
抜け殻みたいな生き方しか出来ないだろうね。時折あの子のぬくもりを思い出しながら凍えるように生きていくしかないんだ」
自嘲するように言う夜鷹が痛ましい。そんなことないだろ、と慎一郎は否定出来なかった。だって自暴自棄になってしまった夜鷹を知ってしまっている。陸に馴染めなかった頃の夜鷹を知っている。
もし今、あの頃と同じようになってしまったら。
もしかすると純は誰にも何も言わずにこの地から離れてしまうかもしれない。そのまま二度と会えないかもしれない。咄嗟に頭によぎった妄想をありえない、と言い切ることが出来ない。
「司と別れた瞬間に心臓が止まればいいけど、そんな奇跡起きないだろうし」
掠れた声で言った純は、もうとっくに冷め切ってしまったお茶を一口飲んだ。
「……それは早く仲直りすべきでは!?」
「だから慎一郎くんのところに来たんでしょ。ねえ、司の機嫌を治すにはどうしたらいいと思う」
口調こそふてぶてしいものの、片手で思いっきり煙草の箱を握りつぶしている。こんなに焦りと苛立ちを抱えてもスマートフォンを投げなくなったのは立派な進歩だ。これもきっと司のおかげに違いない。
ああ、僕の親友はこんなにも人を愛せるようになったんだ。人のぬくもりを知ったんだ。
人間らしい夜鷹の姿を見て、慎一郎はじんわりと胸が温かくなった。それは慎一郎では絶対に与えられないものだった。それでも人から愛される喜びを、そのぬくもりの心地よさを知っている慎一郎は友人にも感じて欲しかった。ひとりで氷上に立ち続けるしかなかった友人に。
それをこの大切な友人に渡してくれる人がいることを喜ばしく思う。
「とりあえず、心当たりがあることを一つ一つ考えていこう。何があったんだい?」
「……色々。大量に」
「いいよ、解決出来るまで僕も付き合うから」
ふたりの間に出来てしまった溝を一つずつ埋めていくしかない。そうしてお互い歩み寄って擦り合わせていくしかないのだ。どれだけ時間が掛かっても、相手のことを愛すと決めたのならやるしかない。そこに関しては慎一郎の方が純より少しだけ先輩だった。まさか夜鷹純に何かを教える日が来るとは。
「ありがとう、慎一郎くん」
「その言葉は明浦路先生と仲直りしたらまた聞かせて」
今夜は徹夜を覚悟して、慎一郎は純に向き直った。
二人の仲のいい姿がまた見られますように。
そして次からはもっと可愛らしい喧嘩が出来ますように。
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