大学生と社会人その4

DPの執務室は下界のチムジルバンとは違う。
冷房はあるが効きが悪く、日が暮れてやっと人心地が付く夏の終わりだった。


数日前に任務を終え兵舎に戻った日以来、ホヨルはかつてないほどの腕と顔の日焼けにぐったりしていたけれど、兵舎での待機が続くとなると、それでも外の空気が恋しいようだった。報告書はすっかり書き終えたというのに、就寝前の時間にぶつぶつと除隊までの日数を数え始めるようになっていた先任のいる雑魚寝の部屋には戻らず、ぐずぐずと執務室に入り浸っているのがその証拠だ。
ホヨルの横顔を見ていると奇妙に喉の渇きを覚えて「売店行ってきます。」と引き出しに入れた小銭入れを持って立ち上がる。
「アン・ジュノ、セウカン買って来てくれ。」
俺にはコーヒーでいいぞ、という声も聞こえて来て、ホヨルの好きなスナック菓子と缶コーヒー、と頭の中でメモを取りながら廊下に出る。DXの仕舞う時間は八時でそれまでに行き着く必要があった。

軍隊と言うのは、男という単語の中に暴力と無駄な大声とやせ我慢をぎゅうぎゅうに詰めて、そこからはみ出した人間を排斥するように出来ている。それはつまり、実際には持ち込みが許されているはずの制汗剤を脇にスプレーしたり、日焼け止めクリームを塗るような二等兵を見逃してくれるような場所ではないということだ。軍内部のニュータイプを自認するホヨルでも、黒い鴉ばかりのところに一羽だけ白い家鴨がいればそれは悪目立ちしてしまうことくらいは知っていたようで、退役間近の先任となった今、日焼け止めを塗る余裕がないわけではないようには見えるものの、人前では塗らないという選択が習慣化してしまったようだった。キャップを廂の代わりに、頭を庇っていたが、すべての部分をカバーできるわけではない。
誰の置き土産か分からないいつものキャップを脱いで団扇の代わりにしていたホヨルは、日傘を差して街を歩く女の子達を羨ましそうに眺めていた。春や秋に比べて彼女たちの露出が多いことや、彼女たちが美人だったからというのもあるだろうけれど、ホヨルは普段そうした色や欲の興味をはっきりとは見せない。少なくとも外部で仕事中の意識がある間はその任務に集中して「ニュータイプの話しやすい軍属」「先任ハン・ホヨル」を演じている、ように見える。
ジュノにとっては難しい、そのメソッド演技だか何かを、息を吸うように行うことが出来るのだから、外で見るホヨルの方が、断然生き生きしている。

売店は人が少なく、目当ての商品は直ぐに手に入れることが出来た。ジュノも、自分の分に、と無糖のコーヒーを買った。
「お、ジュノ、いいところに来たな。」
部屋に戻ると、さっきまでは死んだような目でパソコンに向かっていたホヨルが、部屋に戻って来たジュノを手招きする。ほんの十五分前に買い物に行って戻ったばかりで何を言っているのだろうと思ったが、それを突っ込んだら負けだった。
「腹が減ってるだろ。」と聞かれれば頷くしかない。確かに腹は減っている。そういう時間だった。
白菜のキムチとえごまの葉と白米だけの食事が長く続いていて、外で食べるマクドナルドが恋しかった。食べ慣れた肉とチーズの味を懐かしく思い出しながら頼まれたスナック菓子を差し出すと、勤勉な俺の息子にはこれをやろう、とホヨルのポケットから見覚えのあるチョコパイの袋が差し出された。(売店に売っている商品が限られているのは分かっているが、兵役に就いてからというもの、こうして何度も繰り返しジュノの前に現れるチョコパイは不吉なホラー映画の出だしのようだ。)
「――これが俺の最後の晩餐ですか?」
「今日最後の夜食っていう意味ならそうかもな。」お前が机の引き出しにまだ何か隠してない限りは、とホヨルは言った。
このチョコパイがいつからホヨルのポケットに入っていたのかは知らないが、ジュノはホヨルの前では永遠の二等兵なので、食べ飽きたおやつの処理係として有難くそれを受け取ることにした。
パッケージを破ると出て来たのは、半分に割るまでもないような大きさをしたいつものチョコパイだったけれど、開封したばかりだというのに既にクレーターのようなへこみがあって、チョコレートの屑がほろほろとこぼれる。
「先輩。」
「うん?」
感謝の言葉なら食べ終わってからでいいぞ、とホヨルは言う。明るい声で。
「美味いか?」と問われたジュノは、兵舎に戻って来て以来見ていなかった笑顔の大盤振る舞いに困惑しながら頷く。普段の自分がホヨルの従順な後輩を演じているとは到底言えないとしても、これ、チョコレートが半分溶けてませんか、とは聞けなかった。


――来週は大学に泊まり込みになるからお前の家には遊びに行けない、達者で過ごせよ。
新しいメッセージが入ったのはその日の仕事を終えてホヨルの家へ向かおうかと思っていた直前のタイミングだった。
ジュノは、物を捨てすっきりして週末を迎えようなどと殊勝に決意したせいで、ついでに自宅から持って行った高校時代の着古した服も整理したばかりである現状を思い出し、盛大にしかめっ面をした。自室に戻ったところで、ベッドの上は史上最大に散らかっていて、ホヨルに振られたというこの妙に落ち込むような気分に拍車が掛かることは目に見えている。
自分の責任ではあるものの、部屋に戻る気はしなかったので、ジュノは方向転換することにした。誰もいない部屋に戻ることと、誰かはいる実家に戻るという選択肢に、鍵を渡されたホヨルの部屋に侵入してみるという三つの選択肢があって、その中でどれかを選ぶということは、いつかのモンティホール問題に似ていた。
けれど、あの日ホヨルが開けた扉ほど切実ではないことを合わせて考えても、本日の正答はひとつしかないと思えたし、今回の司会者であるところのアン・ジュノ元上兵もまた、とにかく、お前は戻って自室のベッドの上の服を早く片付ける方がいいと告げていた。

水は低きに流れる。
空腹のままバスを乗り継いで家に戻ると、実家のリビングでは、風呂上がりらしく半袖に短パンの妹が、短パンの裾から丸い膝を出して丸いアイスにかじりついているところだった。
「珍しい。」という今日の瞬きには、つけまつげが彩る不自然な影が見える。
「母さんは。」
「もうすぐ帰って来る。今日はカキ鍋だって。」
そうかと返事をしながら荷物を床に下ろす。たまには鍋以外の食べ物が良かったけれど、作るのが一番楽なのだから仕方がない。
「まだそれ着てるんだ。」と妹が指さした服は、ジュノが高校に入って来たばかりの時に、母親が近所の衣料品店で買って来た服だった。DPとしての任務に携わるようになって以来、キリスト教徒でもないのに、ジーザスとプリントしてあるトレーナー、ホストのスーツやカツラ、挙句の果てに、任務のために着ぐるみまで着るような羽目になって、達観する気持ちが湧いて来たせいかもしれなかった。ホヨルには、お前がDPでなければ、先任の男が着ていたパンツまで履くことになったかもしれないぞ、と言われたが、そんな冗談は何の救いにもならない。
無言で黙り込んだ兄の顔に何を見たのか、妹はいつもの薄い眉を上げて、「今日は夕食食べていくでしょ?」と尋ねられた。
そのつもりはあったので素直に頷くと「帰るんなら、ちゃんと連絡して。アイスくらい買って来たのに。」と言った。学校に上がるような年になると、妹はいつでもジュノより帰宅が早いこともあって、母の手伝いで家事を担うことが多く、戸棚に入れて父親からは隠していた菓子がその褒賞として与えられた。ジュノは兄として妹が食べている菓子を横取りすることはしないようにしていたけれど、瞬間的に美味そうだと思ったことは、しばしば視線や表情で気づかれることがあった。半分あげる、と言う日もあれば、そうでない日もあった。そっぽを向いてこれは私の、という機嫌の悪い日の方が多かった。あの頃より背も髪も伸びた妹は「まあいっか、お母さんの分は後で買って来れば。」とひとしきり独り言をつぶやいて台所に向かっていく。
はい、と差し出された四角いアイスクリームのパッケージには、冬のチョコパイアイスと書いてあった。三層になった真ん中にチョコレートクリーム。
「見たことない? テレビでよく宣伝してるからコンビニで買った。」
「冬のチョコパイ?」
「あっという間に冬になるから。」
そうでなければ、季節の方が知らないうちにジュノを置いて先に行ってしまったのだろう。そういえばホヨルも、クリスマスの演奏会に向けて新しい曲を練習する、と言いながら、トナカイに乗ったサンタを連想させる季節外れの曲を弾いていた。
今夜の分の着替えと下着とを詰めたリュックを見た妹は「今日はそれだけ?」とこぢんまりまとまった荷物を指さした。
父親の入院は今も続いていて、母と妹の顔を見るという口実で、実家の広い物干し場に頼るようになった。確かに、こっちに帰ることが初めから分かってきたら、一週間分の汚れ物を満杯にして詰めて来ただろう。
「誰かさんに振られでもした?」
こちらのことを何でも知っているような妹の顔が腹立たしいが、言い返す前にアイスクリームを食べることにした。パッケージをバリっと開ける。真っ黒い満月のような形は、いつものチョコパイにそっくりだったけれど、かじると冷たいアイスクリームだ。
ちゃんとしたチョコレートの味がするアイスクリームにかじりつきながら、あの夏に食べたチョコパイとは似ても似つかないそれを、暖かい部屋でホヨルと食べたいとふと思った。
チョコパイアイスを食べ終える頃、ちょうどいいタイミングで携帯電話が震えて、ショートメッセージが入ったことをジュノに伝える。
メッセージには、「仮装大会でもするか?」という言葉と共に、乱れた服が散らかっているジュノのベッドの上で寝転がるホヨルの自撮り写真が送られてきた。モグラが通りそうな絶望的な穴が開いている紺色のトレーナーを枕にしている。見慣れた服と、見慣れたベッド。かつて任務の時にホヨルが好んで着ていたのと同じ型の、同じ色のジャンパー。どこから引っ張り出して来たのか、ジュノが古着屋で見つけたそれを選んで、身につけているホヨルの姿。
「は?」と叫んでジュノは立ち上がった。モンティホール問題では、司会者から最初に提示された選択肢のままにしておくことの方が正答の確率が低いというのに。
「……どうしたの?」妹からの視線には、軍隊に入ってやたらと声がでかくなった兄への非難の眼差しが見て取れる。
「仕事の、……呼び出しが、」
「高校の頃より嘘が下手になってる。」と畳みかけるように言われて鼻白んでいるうちに、部屋の隅に置いたリュックを押し付けられた。
「今日は帰る。母さんによろしく。」
「次は肉買って、ホヨル先輩を連れて来てよ。兄さんはいなくてあの人だけでもいいけど。」
妹の声を無視して着替えを詰めたリュックを担いでいると、澄ました顔してるけど、終バスの時間まであと7分だから、と追い打ちを掛けられた。
軍隊を出てから久しぶりに走る。
走る。
走る。
そういえば、あの人は俺の家にどうやって入ったんだろう、いつまでいてくれるんだろうと考えながら、ジュノは息を切らせ、バス停が見える坂を下って行った。


続・モンティホール問題


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