軍師天鬼、利土を描く(10)

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 それから三日のあいだ、天鬼の私室の戸は一度も開かなかった。
 正確に言えば、利吉が戸が開いたのを見たのが最初の一度きりだった。あの日の夕刻、利吉が盆を下げに行った際に戸が細く開き、墨まみれの手がにゅうと突き出て握り飯をさらった。以来、利吉が朝と晩に膳を戸の前へ置いておくと半刻ほどで握り飯が半分に減り、汁は冷えたまま手つかずで残っているということが常だった。そしてそれも三日目からは一日中手を付けられなくなった。
 中からはあの竹の軸の軋む音と時折獣が唸るような声が漏れ聞こえるばかりで、利吉が「天鬼殿」と呼んでも返事はない。とは言え呼ばれなかった五日間を思えば、戸の向こうに気配があるだけまだましだ。そう自分に言い聞かせながら四日目の朝も利吉は膳を抱えて廊下を歩いていた。 
 ちょうど角を曲がったところで戸が内側から叩きつけるように開き、利吉は思わず足を止めた。前を通りかかったドクタケ忍者が悲鳴を呑み込んで柱の陰へ飛び退く。
 戸口に立っていたのは、どう見ても幽鬼の類だった。髪は結い紐がほどけかけて頬に張りつき、目の下の隈は墨を刷いたように黒々としている。頬はこけ、唇はひび割れ、それでいて両の眼だけが爛々と底光りして、胸には紙の束を大事そうに抱えていた。天鬼という名がこれほど似合う姿もないと利吉は思った。
「……天鬼殿」
 些か怯んだ気持ちと共に呼べば、天鬼の目が利吉を捉えた。一歩、二歩と板敷きを踏みしめるように近づいてくる。
「……利鬼……」
「はい」
「……終わった……」
 そう言うなり、天鬼は膝から崩れ落ちた。
 利吉は膳を放り出していた。椀が転がり、汁が床に広がるのも構わずに倒れ込んでくる身体を胸で受け止める。先日よりもさらに軽い。骨ばった肩が利吉の鎖骨にごつりと当たった。
「天鬼殿!! しっかりしてください!!」
「──あら」
 背後から涼しい声がした。
 振り向くと、例の女中が箒を手に立っていた。散らばった椀と利吉にしなだれかかる天鬼とを順に見て、女中は一つ瞬きをする。
「朝から大変なご様子ですね」
「見ていないで手を貸してください!」
「……これを……」
 利吉がそれ以上言うよりも早く、天鬼は腕の中から紙束を突き出した。指先が渇き、震えている。
「これを……見てくれ……」
「天鬼殿、今はそれどころでは──」
「拝見いたします」
 女中は箒を壁に立てかけ、両手で恭しく紙束を受け取った。そしてそのまま、廊下の真ん中で読み始めた。



 一枚目をめくった時点で、女中は息を詰めた。
 粗い。枠線は凡そ真っ直ぐとは言いがたく、人物は丸と棒の寄せ集めで、台詞は枠から大仰にはみ出している。だというのに目が勝手に次の枠へ運ばれていく。戸口を見下ろす引きの絵。足元から見上げる煽り。振り返る男の顔を横長の枠いっぱいに大きく取り、枠線を突き破って伸びる手を描いている。そして見開きで、二人の間合いがゼロになり──。
 女中は無言で頁を繰った。二度、三度と頭から読み返した。初めて漫画を描く人間のネームではない。いや、初めてだからこそか。型を知らない分、軍略で鍛えた視線の誘導術をそのまま紙に持ち込んでいるように見える。コマ割りの理屈など教えてもいないのに、人間の目がどこで止まり、どこに走るかを知り尽くしている者の仕事だ。
 女中はちらりと、利鬼の腕の中でぐったりしている天鬼を見た。そう、ぐったりしている。何も知らなければ三徹原稿明けですか? と聞きたくなるほどに憔悴している。
 ネームでこれなのだ。この先には下書きがあり、ペン入れがあり、ベタとトーンと効果が──いやそんなものはない。後の工程は面相筆一本で『ドクタケ忍者隊』レベルの作品を描くことになる。まさしく一筆入魂の絵師の仕事である。ク○スタもないのに……? と女中の背中に冷たいものが走る。ネームは頭の戦だが、原稿は体力の戦だ。ネームの段階で飲まず食わずの籠城をして廊下で倒れる人間が、原稿に入ったら果たしてどうなるか。
 答えは明白である。
 死ぬ。
「…………」
 女中は紙束を胸に抱いたまま考えた。
 ドクタケ城の軍師が、同人原稿の修羅場で過労死。
 もしそんなことになったら、誰のせいだろうか。二次創作を勧め、カップリングの一覧を見せ、プロットだのネームだのと天鬼に焚きつけたのは誰なのか。
(……私では?)
 女中は珍しく、口の端を引き攣らせた。自分は確かに冊子を抱えてしょぼくれていた新人絵師にアドバイスはしたが、軍師の命を預かった覚えはない。何より、これほどの才能を最初の一冊で燃え尽きさせるのは界隈に対する冒涜ではないか。別に女中は利土界隈に義理はないのだが、同人女の端くれとして見過ごしてはおけない。
 女中の目が光った。

 廊下の端に天鬼を寝かせ、利吉はその頭を自分の膝に乗せていた。
 部屋の中は紙の海で、横になる場所もないからだ。膝枕は苦肉の策である。苦肉の策であって、他意はない。……たぶん。
 ぬるくなった白湯を少しずつ口元へ運ぶと、天鬼は目を閉じたまま素直に喉を鳴らした。顔も服も墨だらけで酷い有り様である。思えば修験者装束の人間に絵仕事は相性が悪すぎる。利吉は懐から手拭いを出し、頬にこびりついた墨の点を拭ってやった。作業中に飛び散ったまま放っておかれたものだろう。
「……ん」
 天鬼がわずかに眉を寄せ、手拭いから逃げるように顔を利吉の腹の方へ向けた。額が帯のあたりに押しつけられる。利吉は手を止めた。吐息が薄い着物越しに感じられて温かい。
 ふと、昔氷ノ山のあの家で、同じ布団に潜り込んだ夜を思い出した。あの頃の自分はまだずっと小さくて、あの人の胸に額を押しつけて眠っていた。今はまるでその逆だ。自分の膝の上で、あの人が無防備に丸まっている。
(……お兄ちゃん)
 指先でそっと頬に張りついた髪を払ってやると、天鬼の睫毛がかすかに震えた。
 このまま少しくらい、寝かせておいてもいいだろう。戸の向こうの紙の山も、軍師の務めも、今だけは知らぬふりをして──。
「利鬼様」
 などと浸りかけていたのに、声は真上から降ってきた。顔を上げると、女中が紙束を抱えて利吉を見下ろしている。そういえばいた。忘れ去っていた利吉は慌てた。
「な、何でしょう」
「天鬼様がお目覚めになったら、すぐに原稿作業に入ります」
「……すぐに? この有様なのにですか」
「この有様だからです」
 女中は利吉の傍に膝をついた。膝枕の上の天鬼を一瞥し、それから真っ直ぐに利吉の目を見据える。
「ネームの段階ですらこうなる方は、原稿も間違いなく拘り抜きます。休めば頭はスッキリしますが、正気になる分今度はもっとこうした方がいいかもと悩みはじめて終わらなくなります。倒れるまで描いて、起きたらまた描き、放っておけば命に関わります」
「命に……」
「ですからネームの勢いのまま描ききった方がまだましです。利鬼様、原稿作業には積極的に入っていただきます」
「入る……?」
「ポーズモデルです」
 女中はきっぱりと言った。
「天鬼様はお上手になられましたが、まだ何もなくても縦横無尽に人体を描けるほどの腕はお持ちではありません。資料なしで描けば描き直しだけでどれだけ時間を費やすか分かりません。ですが目の前に本物の人間がいれば話は別です。デッサン元があるとないとでは、速さが三倍は違います」
「三倍ですか……」
「三倍以上かもしれません。三分の一の日数で済めば三分の一しか命を削らずに済みます。ですので、利鬼様には抱き寄せられる側も、壁際に追い詰める側も、全部やっていただきます」
「全部」
「はい。受けも攻めも全部です」
「うけ……?」
「一枚でも早く上げるために、利鬼様の身体をお借りします。よろしいですね?」
 よろしいも何も、問いかけの形をしているだけで拒否の余地がない。利吉は女中の顔を見た。普段は何を考えているのかよく分からない涼しげな目が、今は一点の揺らぎもなく据わっている。退路を断ち、兵站を計り、籠城戦を前に一兵たりとも遊ばせまいとする者の目だ。合戦前夜の陣幕の中で、利吉は何度かこういう目を見たことがある。
(……何なんだ、この女は)
 ただの女中ではない。そんなことは前から察していたが、これはどう見ても戦場を知っている者の目だった。それも一度や二度ではない。幾度も死線を潜り、戦い抜き生き永らえてきた古参の目だ。
「……承知、しました……」
 気圧されるようにそう頷くと、女中はようやく目元をほんの少しだけ緩める。
「助かります。では、天鬼様がお目覚めになるまでに白湯と粥と、それから墨と紙を多めに用意しておきますね。戦は兵糧と矢弾ですから」
 女中はさっさと立ち上がり、紙束を抱えて台所の方へ去っていってしまった。
 残された利吉は、膝の上の天鬼を見下ろした。何も知らずにすうすうと寝息を立てている。その寝顔は可愛らしいと言うよりは苦行を終えた後のそれであることは確かだが、それでなくてもさっきまでの甘い気分はどこかへ吹き飛んでしまっていた。代わりに胸に残ったのは、これから始まる何かへの得体の知れない胸騒ぎである。
「……天鬼殿」
 小さく呼ぶと、天鬼は利吉の帯に額を擦りつけ、寝言のように呟いた。
「……みひらき……」
 利吉は天を仰いだ。


***


 天鬼が目を覚ましたのは、その日の昼過ぎだった。
 軍師とはかなりの重職であるはずなのだが、天鬼は女中の監視のもとで粥を二杯平らげ、白湯を三杯飲み干し、墨の点をすべて拭い取られてからようやく私室へ戻ることを許された。女中の存在感に利吉は思わず忍術学園の食堂の女傑を思い出した。戦場で台所を預かる女に、勝てる男はあまりいない。
 部屋の紙の海は、利吉が午前のうちに半分ほど片付けてある。残りの半分は天鬼が「それは捨てるな、使う」と言い張ったので、隅に積んだままだ。
「では──始めるか」
 文机の前に座った天鬼は、まだ顔色こそ悪いものの、目にはすでに例の底知れない光が戻っていた。
「利鬼。まずは壁際の場面からだ。立て」
「はい。……それで、私の相手は」
 利吉が気が進まなさげに言いかけたとき、廊下の方から、ずるり、ずるりと何か重いものを引きずる音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
 戸口に現れたのは女中だった。背後には人の背丈ほどもある藁の塊を引き連れている。太い杭に藁束を幾重にも巻きつけ、荒縄で胴と首らしきところを締め上げている。両腕の代わりに短い横木が一本十字に渡してあり、肩口には刃で斜めに払われた痕がいくつも残っていた。どう見ても城の鍛錬場で足軽たちが剣技の稽古に使っている藁人形である。
「……何ですか、これは」
「お相手です」
「お相手」
「絡みのシチュはこれでこなしてください」
「しちゅ」
 女中は藁人形を部屋の真ん中に据え、杭の根元を足で踏んで安定させた。一仕事したような晴れやかな顔をしている。
「こちらは鍛錬場の組頭に頼んで借りてまいりました。天鬼様が軍略のために人体の急所の位置を研究なさるそうで、ついては一体、と申しましたら──快く」
「快く……ですか」
「先日、あの方の奥方様に腰痛の膏薬をお分けしておりまして。殿にお出しする賄いのつまみ食いも見逃して差し上げておりますし」
 さすがに城勤めの長い女中は顔がきく。利吉は感心すべきか呆れるべきか分からなかった。
「しかし……先ほどは私が両方の役をやるとおっしゃっていたのでは」
「ですから相手との絡みのある場面ではこちらをお使いになってください。山田利吉の役を利鬼様が、土井半助の役をこれが。場面によっては逆でもよろしいかと」
「……人ではいけないのですか。その辺りの忍者を一人捕まえてくれば」
「駄目です」
「なぜです」
 女中はちらりと文机の方を見た。天鬼はちまちまと硯に水を差している。女中は利吉に向き直り、特段声も落とさずに言った。
「嫉妬されるでしょう? この方」
「し……」
 今日は晴れていますねえ、と言うのと何ら変わらない口調だった。利吉の顔にじわりと血が上る。天鬼が存外やきもち焼きであることなど、女中に言われるまでもなく利吉が一番よく知っている。もしかしたら本人は隠しているつもりなのかもしれないが、利吉に丸分かりなようにこの女も見抜いている。それが何とも気恥ずかしかった。
「何の話だ?」
 天鬼が顔を上げた。
「資料の話ですよ、天鬼様」
「そうか」
 天鬼はそれ以上追及せず、今度はちまちまと墨を擦り始めた。藁人形の側で赤くなった耳を隠すように顔を背ける利吉に構わず、女中が声をかける。
「天鬼様。ここから先は、目の前に手本となる人型があった方が格段に描きやすいはずです」
「うむ」
 天鬼は素直に頷いた。これまで利鬼を素描し絵の練習をしてきた中で、そのあたりは心得ているようだった。
「頭の中の絵だけでは、腕がどこから生えているのか分からなくなるからな。だがこの藁人形だと……顔がないな」
「それでしたら、このように」
 女中はその辺に散らばっていた反古紙を一枚拾い上げてさらさらと筆を走らせ、藁人形の顔の位置に糊でぺたりと貼りつけた。紙には大きく「土井」と書いてある。
「なるほど。分かりやすいな」
 天鬼は真顔で感心している。「土井」の二文字は、墨も乾かぬうちから少し滲んでいた。


***


「利鬼。人形を壁際へ追い詰めろ。ここは相手が退いていく先に壁があるしちゅだ」
「……しちゅとは」
「分からんが、局面か?」
「そうですね。そのようなものです」
 女中の合いの手を耳に利吉は一歩ずつ間合いを詰め、三歩目で藁人形の顔の横、柱に片手をついた。乾いた藁と、かすかに汗と錆の匂いがする。
「そうだ、その腕の角度だ。顔を近づけろ。台詞を言え」
「……今度は、私の方が離せません」
「目が死んでいる。藁を見るな。紙の向こうの土井半助を見ろ。真剣にやれ」
 即座に入る天鬼の指導に次いで、女中も付け加えた。
「利鬼様。もう少し切なげにお願いします。ここは長年の想いが溢れるところですので……」
 利吉は奥歯を噛んだ。とは言え悲しいかなプロの忍である。真剣にやれと言われればやってしまえるのが困ったところだった。紙の向こうに見ろと言われた恋しい相手は、今まさに文机の前でこちらを見ている。利吉は息を吸った。今目の前に彼がいるかのように自己暗示をかけ、熱っぽく語りかける。藁人形に。
「……今度は」
 声が勝手に低くなった。
「今度は、私の方が離せません。……あなたが嫌がっても、もう」
 ネームにない一言まで、勢い余って口からこぼれる。部屋が一瞬静かになった。天鬼の筆が宙で止まっている。
「……違う」
「は」
「情がこもりすぎている」
 天鬼は筆を置き、眉間に皺を寄せた。
「藁人形相手に、何をそこまで入れ込む必要がある」
「真剣にやれとおっしゃったのは天鬼殿でしょう」
「限度というものがあるだろう。それではまるで、本当に誰かに言っているようではないか」
 ぴしゃりと言って、天鬼はそっぽを向いた。墨を擦る手つきが、明らかに乱暴になっている。
 ──ああ、これは。
 利吉は柱に手をついたまま天井を仰いだ。過日のぷろっと作成の際、利吉が土井半助への想いを伝えた時とまったく同じである。
(私にどうしろと……)
 気を抜けば目が死んでいると言われ、身を入れれば不機嫌になられる。ならば自分はこの藁束相手に、どんな顔でどんなふうに囁けば正解なのか。藁の先が一本、頬にちくりと刺さった。
「……天鬼様、今の姿勢はお描きにならないのですか?」
「描く」
 天鬼は不貞腐れた顔のまま筆を取り直し、恐ろしい速さで紙を埋め始めた。
「描くが、次はもう少し感情を抑えろ。気が散る」
「利鬼様、もう一度お願いします。見開きの前に同じ台詞の寄りがほしいので」
 女中の口の端が微かに震えているのは、恐らく笑いを噛み殺しているのだろう。利吉は最早やけくそだった。
「……今度は、私の方が離せません」
「情がない」
「……今度は、私の方が、離せません」
「だから入れ込みすぎだと言ってるだろう!」
 戸の隙間から、廊下を通りかかったドクタケ忍者が一人、中を覗いた。
 柱に藁人形を押しつけ、その顔に貼られた紙に向かって切々と愛を囁く新参者。それを不機嫌な顔で写し取りながら駄目出しし続ける軍師。さらにその傍らには何やら肩を震わせている様子の女中。
(なにこれ。怖)
 ドクタケ忍者は無言で戸を閉め、足音を忍ばせて去っていった。
 恐ろしいことに原稿は、まだ半分も埋まっていないのである。


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