きほろか1
専門店に足を運んで餞別した香り。昨夜の暗闇と少しの絶望を垂らしたような黒、なんて詮無い事を思いながら淹れたカップの片方にミルクと砂糖をたっぷりと入れて。有り体に表現すればコーヒーとカフェオレを両手に持ったまま在間樹帆は立ち尽くしていた。
「芦佳、それはどういうこと?」
片手のカフェオレを目前の相手に渡して隣に腰掛ける。いつもの騒がしさが嘘のように、昨日のことはお互いに忘れよう。と静かにのたまった口がわずかに歪むのが見えた。
「たった一夜の過ち、それだけさ。その方が僕たちのためだと思うんだ! ね? どうかなっ」
「そう。間違いだったと思っているんだ」
わざとらしい明るさが鼻についてトゲのある言い方をしてしまう。過ちだから忘れよう。そんな言い訳で逃げるなんてらしくない。そして、在間自身が忘れることなんて出来ないと思っていた。
昨晩、在間樹帆と須王芦佳は関係を持った。須王はいつものように、在間はめずらしく強かに酔っていて、「今日は樹帆と飲み明かしたい気分だよ!」と家に上がり込んだ須王の熱が伝播した。きほ、きほ。と甘ったれた声でねだる唇同士を擦りつけて、息苦しさに胸へすがってきた手を握った時、彼のまつ毛が震えたことさえ鮮明に思い出せるというのに。
「許しておくれ。そんなつもりじゃなかったんだ。あんな風に……求めるつもりはなくて」
「ああ……酷いことを言うね。芦佳はもう忘れたい? もう、覚えていたくもない?」
その言葉に須王の口が開きかけ、そして電子音に遮られた。須王の端末が鳴っている。
「あ、アイアイかな!こんな時間になんだろう、ちょっと失礼しても……っ」
端末を持った腕をとっさに掴んだ。この手を強く引いたら須王はろくな抵抗もないまま胸に収まるだろう。そのまま、何もかもを覚えさせて。”許される”ことだって可能なはずだ。
(……それが出来ればこんなに苦しくない、か)
俺が意気地なしだから、芦佳はまだ俺の傍にいる。在間は須王と出会ってからずっとそう信じている。
端末の音が響く中、困惑した須王の視線がうろうろと部屋を彷徨ってから上目遣いに在間を伺った。
「樹帆……?」
「ごめん、あまり待たせると相手に悪いね。どうぞ」
掴んだ腕をゆっくり離して、通話を始める須王をぼんやりと眺める。「やあ! お待ちかねの僕だよ!」と騒がしく発せられる言葉がから回っているように聞こえるのは、今の状況に己の気持ちが呑まれているからだろうか。
「わお、手厳しいね! アイアイはもっと僕に優しくしてくれてもいいんだよ?」
気兼ねなく会話をする様子を見て、ああ羨ましい。ずるいなあと考える。アイアイと呼ばれている男——Aporiaで須王が所属する”本部”の部長を務めている、皇坂逢。真面目で有能な上、フラットに人付き合いをする彼はAporiaメンバーからの信用も篤く、在間も強く信頼している。歯に衣を着せない物言いをするからか、しばしば須王の言動に注意をしては楽しそうに受け流されるじゃれ合いのようなやり取りが行われているという——は、須王から「もっと優しくしてくれ」「もっと構ってくれ」と強請られている場面を見かけることが多い。
以前Apiria内で戯れにおこなわれたインタビューを脳裏に浮かべる。在間と須王は「お互いの直してほしいところは?」と聞かれ、須王はそれに「特にないね」とおどけて言ったものだった。
須王に、”須王のために変わってほしい”と要求されている。それが羨ましく妬ましい。と同時に、本心を隠したまま付き合いを続けている自分にそんな資格などないかとも思う。いっそ心に抱えているこの暗い感情も全て須王にぶつけてしまったらいいのだろうか。そうして須王が離れてしまったら? 堂々巡りだ。
「樹帆、僕はもう行かなくてはならないみたいだ。……いいかな?」
思考の海に浸かっていた頭が覚める。ぼやけた視界が鮮明になると、須王が心配そうにこちらを見ていた。
「そっか、……うん。行っておいで」
ここにいて、昨夜のように名前を呼んで。我儘を言う自分自身を抑えつけて笑顔を作った。
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