一銭
家に帰ると、西日の差す窓のカーテンが閉まっていて、外からは風が入って来ていた。
ちゃぶ台の前で寝ている男の髪も揺れている。
付き合っている女、あるいは男であっても、こんなことをしていたら理由を付けて、あるいは力づくで追い出しに掛かるところだが、相手がこの男であればそれも難しい。
入門した当初から、師匠には『兄弟子は敬わなア、カ~ン♪』と、あの妙に軽いばかりの口調で言われ続けて来た。
廃業していた頃であれば、外に摘まみ出していた可能性もあるが、僕はもうこの七面倒ばかりの古臭い稼業に戻ってしまった。師匠がこの世にいない今となっては、尚更その教えに背くわけにはいかないという気持ちだった。
ただいま帰りました、と言うと、ちゃぶ台の上で突っ伏してた男は、もうそんな時間かと言って顔を上げた。
洗いざらしの髪が額に掛かっている。
このところは、以前のように髪をセットしているところをほとんど見ない。
高座の仕事があるでなし、下の中華料理屋でバイトを続けているうちに、面倒になったのか、あるいはヘアスプレーを買うのが面倒になったのかもしれなかった。
中華料理屋のバイトを続けて落語も続けて行く、と啖呵を切った最初のうちは良かったが、そのバイトもほとんど三日坊主に近く、皿の洗い方も下手やし、人の三倍はしゃべるうるさい従業員たちと言い合うことも出来ないとあって、気が付いた時には、シフトに入ることもほとんどなくなっていた。
気の向いた時に気分転換と言った調子で入っていくだけの、実質はクビに近い扱いになっている。だからと言って、他にバイトの口を探しに行くでもない。昔に比べれば、中卒者を雇ってくれるようなところは今時めっきり減った上に、兄弟子はもう三十も半ば。あるのは土建の下請けとかそのくらいだった。
不景気とはいえ、以前働いていたテレビ局の伝手でも何でも頼っていけば、今のご時世になんぼでも仕事の口が転がっている気がするのに、そうやって泥を舐めて仕事を探すだけの気概もない。
草若の息子で食べていくなら、そうしたところでもう誰も咎めはしないだろうに、今更名前を積極的に売り込んで行くでもないのは、師匠が生きている間に、あの名跡を継ぐ器と認めてもらうことが出来なかったからか。入院後の稽古でも褒められ通しだったのは草々兄さんひとりで、僕らは皆、師匠の愛宕山を受け継ぐために厳しい指導を受けた。稽古の後で、食事を作るような気持になれずに連れ立っていつもの立ち食いそばに食べに行くと、兄弟子は中学の頃の稽古を久しぶりに思い出したわ、とぽつりと言って、鬱屈した顔を見せた。
何がしたいんや、と叱り飛ばしたいような気持になることもあるが、僕自身、師匠の亡くなった後に出来た心の穴を埋めるために仕事を入れているようなこの状況で、そこまで――草原兄さんのように一年先、数年先の未来を見据えて厳しい顔を作る余裕もないのだった。
寝転んでいた猫のような顔をして目やにを擦っていた男は、顔を上げて「メシどうする?」と聞いて来た。
「そこの店で一銭焼きと海苔巻き買ってきました。」と言うと、またそれか、と小草若兄さんは言った。
「肉とか魚とかないんかい。」
「買いに行くのはいいですけど、結局作るのが面倒になってまうでしょう。」
そもそも、中華料理屋のバイトが住み込みで暮らすことが前提になっているようなつくりになっている。流しのコンロが一口しかない部屋に住んでいるというのが面倒の始まりだった。時々空き部屋が出来れば、自分の部屋で調理して、そこのコンロを借りて味噌汁を作ったり湯を沸かすという離れ業も出来ないではないが、今は全ての部屋が埋まっている時期だった。
それでも、僕はといえば、時々下の中華料理屋で炒飯に海老を足したりまかないの酢豚を食べたりもしているが、この人には一切そういうのがない。
「何か食べたいもんあるなら買ってきますけど、」
「……鰻と鯛のお造り。」
ちりとてちんか。
「予算内でおねがいします。」
「お前ならどうせそう言うやろと思ってたわ。」
せやから、こないして黙ってたんやないかと言わんばかりのため息に、それなら自分で稼いで来いというのもおかしな話だった。
こうなってしまっては――つまり、師匠の芸風はすっかり草々兄さんに受け継がれてしまった今では――草若らしい草若になるというのは、この人では土台無理だろう、と僕も分かっている。
それでも、お前ら弟子全員で、オレの落語を受け継いだってくれ、と言うのが、師匠が最期に残した僕らへの願いだったのだ。
夜にはちゃんと稽古してくださいよ、と言うと口笛を吹かんばかりの顔で「麦茶飲みたい、」と言って席を立った。
本当に猫みたいだ。
「夕飯作るの面倒やからこれ買って来た。」
小さいパックを縦に重ねたビニール袋を持って現れた兄弟子を目敏く見つけた子どもは、夕食を食べたばかりというのに、ふわふわとソースの匂いを漂わせているそのビニール袋に向かって「わーーい!!」と歓声を上げて突進していった。
「草若ちゃん、これ、こないだ食べたお好み焼きみたいなヤツ!」
「そやねん。商店街に半額になってたから、買い占めて来たった。」
茶、入れてくれるか、と子どもに言うと、うんうん、と言って子どもがニコニコと笑った。
「さっき下の酢豚で夕飯済ませたとこやったんですけど。」
「……お前、それはよ言わんかい。」
「僕がメールしたの見てないのが悪いんと違いますか?」と言うと、兄弟子がグッと詰まって「……オレかて腹減ってんねんで。」と言った。
「まあ、酢豚はほとんど子どもにやってしもたんで、そのくらいなら僕も入ると思いますけど。」
「……結局食べるんかい!」
背の高さくらいしか僕に勝てるところのない兄弟子が、文句付けるヤツにはやらんで、と勝ち誇った頭の上に持ち上げた手土産を、手を伸ばして掠め取った。
「どんだけ腹減ってんねん。」
「さっさと食べんと、冷めてまうでしょう。」
(そうなん?)という顔をした子どもに、はよ食べた方が旨いからや、と言った。
茶の準備をして、とりあえずの顔で三人揃ってちゃぶ台で食べ始める。
草若兄さんは今日も、態度だけはここが自分の家のような顔をして、今日の麦茶薄いんちゃうか、と言っている。
「なんや前にこういうのお前に買ってきてもろたことあったやろ。なんや懐かしいなってな。」
「……そうなんや。お父ちゃんも一銭洋食好きやったん?」と言われて言葉に詰まった。
草若兄さんは、これほんまに安いからなあ、と言って笑っている。
久しぶりに食べたお好み焼きの出来損ないのようなペラペラの一銭洋食は、いつかに食べたソースの味がして、妙に胸がいっぱいになった。
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