ここから先は、/浦一

「日帰りで温泉旅行に行かねえ?」
 三徹明けで泥のように眠っていた浦原は突然の訪問者の突然の誘いに「えっと、アタシとっスかあ?」と返す以外にことばが見当たらなかった。昼の十三時すぎ。突然の訪問者である黒崎一護は「アンタ以外にいねえだろが」と寝起きにはまぶしいオレンジ髪を惜しみなくさらして、不機嫌そうに眉間のしわを深く刻んだ。
「というか、二年ぶり……? っスよね。前に会ったときはお土産を持ってきてくれた」
 その帰りぎわに不意打ちで|キス《毒》を食らった。それが今もなお、からだを蝕み続けていると言ったら彼はどんな顔するだろうか。毒は効かない。それなのに、たしかに一護がもたらした毒が全身を巡っている。こんな毒は知らない。毒は最初が肝心である。全身を巡ってしまった今、手遅れなのかもしれないと浦原は一護のかわいらしいつむじをまんじりと見下ろすのであった。
 死神にとって二年は大した時間ではないが、ずっと会いに来てくれなかった一護が目の前に現れたと思ったら、行き先が表示されたスマホの画面をずいっと突き出している。
 行き先は温泉街。温泉なら地下にあるのに、なんて言ったら殴られてしまうことは想像に容易い。なんで、自分なのだろう。他にいくらでもいっしょに行きたがる子たちがいるだろうに……。と思いながらもその誘いがまんざらでもない。浦原は不精ひげが浮かんだ頬をぽり、とかいた。
「あー、だな。昨日大学卒業してさ。その祝いをアンタにねだりに来たんだ。アンタの時間、今日一日俺にくれねえか」
 そんなふうに一護に言われて、断れるひとがいるだろうか。つよい意志を湛えるこはく色の瞳がきらきらと瞬いて、じっとこちらを射抜く。一護のお願いを拒めたことなんてない。ああもう、ずるいなあと浦原は白旗をあげた。
「……アナタのお願いを、アタシが断ったことあります?」
「ねえな」
 にっ、と得意げに笑った一護は商店の横に停めている車を指差して、「あの車、借りていい? 俺が運転するよ。初心者マークはつけさせてもらうけど」とご機嫌にぴかぴかの若葉を鞄から取り出した。知らないあいだに車の免許も取っていたらしい。
 そういえば、すこし合わない間に身長も伸びた気がする。近づいた目線の高さに健やかな成長を感じた浦原はしずかに目を眇めた。子どもの成長は早いと言うけれど、そのとおりだなとまろやかな頬が鋭くなったのを見て思う。
「さすがにアナタとのデートにこのままってわけにもいきませんし、準備してきますねン。服もこれじゃあ困るでしょ」
「デッ……アンタってフツーの服持ってんの? そのカッコしか見たことねーんだけど」
「一応はね。あの子たちの授業参観とか、さすがに作務衣姿じゃ浮きますから」
「授業参観……」
 一体何を想像しているのやら。これでも学校行事にはなるべく参加していたし、町内の会合にも頻繁に顔を出している。主にテッサイが、だが。地域に根ざすとはそういうことだし、ここに拠点を置き続ける以上、怪しまれることは極力避けたい。
「じゃあ、居間で待っててください。すぐに支度を済ませてくるンで」


 ◆


 初心者マークを貼ったワゴン車は軽快に高速を走っている。すこし緊張した面持ちの一護もしばらく車を走らせているうちに慣れたのか、ぽつぽつと雑談を交わすことができるまで落ち着いたようだった。
 浦原が着ている服一式は雨が選んだこと、仮免許の試験中に脱輪してしまったこと、免許を取って初めて父親を乗せたときのこと……お互いにおしゃべりなほうではないのに、ふしぎと会話は途切れなかった。
 小腹が空いた、と一護が言うので、近くのパーキングエリアに寄ることにした。平日だからか、空いている駐車場に車を停めた一護は売店の前で名物のコロッケとミックスのソフトクリームのどちらを買うか迷っている。その横顔は浦原がよく知るおぼこい少年の面差しを残して、なんだかなつかしい気持ちになった。
 まだこの世に生を受けて、数十年しか経っていない子どもを世界のためだと利用した。その小さな背中に抱えさせた荷物はずいぶんと重かっただろう。それでもこの子どもは恨み言ひとつこぼさずに「護れてよかった」と笑うのだ。
「両方買って、アタシと半分こしましょ」
「え、でも……いいのか?」
「もちろん」
「やった! あんがとな、浦原さん! 買ってくる」
 眉間のしわがやわらぎ、うれしそうに声を弾ませる一護にかわいいなあと笑みがこぼれる。こんなことで、一護のそんな顔が見られるならなんだって叶えてあげるのになあ。売店に向かって駆け出す背中を目で追いながら、そんなことを思った。





 手近のパーキングに車を停め、温泉街へと降り立ったのは十六時前だった。川のせせらぎとどこからか漂う春のかおり。うねるような坂道の傍らには情緒ただよう建物がいくつも立ち並び、路地に入ると狭い石畳の道に土産物屋や木造建築の建物がひしめいている。
 浦原にはめずらしい光景ではないが、一護はきょろきょろと辺りを見回して「な、温泉まんじゅう売ってる」と幼いしぐさで浦原の袖を引いた。幟が立つ店先からはゆらゆらと湯気が立ちのぼって、店員の呼び込みが風に乗り、こちらまで届く。
「どこにでもあるやつっスね」
「そのどこにでもあるやつをこういうところで食うのがうまいんだろ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
 店先に並び、一護が温泉まんじゅうを二個買った。懐紙に包まれた熱々の温泉まんじゅうを「アンタのぶん」とひとつ手渡され、触れた指先がじん、と痺れた。彼が齧るのを見届けてから、やわらかな薄皮に歯を立てる。中身はこしあん。尸魂界でも、現世でも食べ慣れたありきたりな味は「はふ、はふ、」と熱そうにしながら「うまいな」と笑いかけられると、口内にじんわり広がる甘さもとたんにとくべつなもののように感じられた。
 たぶん、『どこ』で食べるかじゃなくて『誰』と食べるかが重要なのだろう。きっと、どこでだって一護と食べるものはおいしい。グレースケールの世界に、この子の髪のいろと目の色だけが鮮やかに灯るのとおなじで、空っぽのこころにはいつもオレンジの花が咲いているから。





 ゆっくりと土産物屋を冷やかして、緑の帽子をかぶったたぬきのキーホルダーを見つけた一護はそれと浦原を見比べて「アンタにそっくり」といたずらっ子のような顔をした。家族思いの彼にしてはめずらしく、お土産を買うことはなく「なんかいいなこれ。癖になる」とそのキーホルダーだけを買った。
 店を出ると、狭い道をツアーの外国人観光客がぞろぞろと通りかかる。「うわ、」「黒崎サン」その波に飲み込みまれた一護の手を掴んで、攫われないようにつよく引き寄せた。とっさに掴んだ手はひんやりとして、浦原は思わず指先を握り込んだ。頬を撫でる風は秋らしく冷たい。日が沈んできたから冷えてるのかなあ。熱を分け与えるようにぎゅ、ぎゅ、と自分より小さな手を包み込んだ。
「寒い?」 
「や、平気……つか、いつまで握ってんだ。ガキじゃねえんだから迷子になんかなんねえよ」
 覗き込んだ一護の頬がほんのりと赤い。
「本当に? アタシから見れば、まだまだ子どもっスけどねえ」
「じゃあアンタ、ガキにキスすんだ?」
「………」
 ぐう、と二の句を告げない浦原の手をするりと手をほどいて駆け出した一護は「足湯だ」と誰もいない足湯に向かって歩いてゆく。なぜか、調子が狂う。帽子に手を置こうとして、今日はかぶっていないことに気づいた。足もとも下駄ではなく、ローファーで。なんだか、知らない世界にいるみたいだった。
 夕陽がどんどんと沈んで、オレンジに染まる一護が「早く来いよ」と手招きしている。ひと足先に靴下を脱いでいた一護はおそるおそるといった動作でつま先を足湯に浸けていた。浦原も隣に腰かけて、おなじように靴下を脱ぎ、チノパンをふくらはぎまで捲り上げた。
「熱い?」
「ちょうどいいぜ」
「……あ、ほんとだ」
「だろ。気持ちいいなー」
 しばらくのあいだ、ふたりは無言で日が暮れなずむ光景を何となしに見つめていた。時折足湯に誰かが訪れては去ってゆくのを見送り、何でもない時間を消費するのは思ったよりわるくない。それもこれも一護が隣にいるからだとわかっていた。
 ちゃぷん、と足を揺らした一護が「今日はあんがとな」とじんわりと沁み入るような声音でそう言った。これが最後と言わんばかりの、どこか名残惜しさを感じる響き。
「光栄でしたよ。他の方々を差し置いて、アナタとデートができるなんて」
「はは、言ってろ」
「……何か、言いたいことがあったんじゃないですか? だから、ここまでアタシを連れてきた。違いますか」
 沈黙がふたりのあいだに降り積もる。ぽつ、ぽつ、と街の街灯が灯り始めた。こんなときでなければ、きっとうつくしい光景をともに見つめていただろうに。浦原の目には今、一護の横顔しか見えていない。
「……黒崎一護の人生は、今日でおしまいなんだ。俺には、これから先の未来がない」
 ぽつり、と落とされたことばが、しじまのように空気を震わせた。浦原の思考が音を立てて動き始める。簡単なことだ。一護に霊王の素質があることを知っていれば、考えずとも答えなど簡単に弾き出されてしまう。
「って言えば、かしこいアンタならわかるよな? 三年前かな。ユーハバッハのからだが崩れ始めてるって和尚から聞いたのは。ユーハバッハがああならなかったら、元々俺がそこに収まるはずだったんだ。ま、あるべき場所にってやつだな」
 肩をすくめる一護はいたって普通で、だからこそ異常さが際立っていた。泣き喚いたっておかしくはないのだ。霊王になるというのは人としての尊厳を奪われ、楔としてただ世界のために在り続けるだけの存在だ。
 記憶も人格も失われ、家族や友人とも二度と会えなくなる。それを二十数年しか生きていない子どもが仕方のないことだと受け入れるのはあまりにも、とまで考えて、ぎゅうと拳を握る。代替品はまだ完成していない。ユーハバッハの死体が機能しなくなったら、その瞬間に何もかも崩れ去る。一護は受け入れたんじゃない。受け入れざるを得なかっただけだ。
「……早すぎる。アタシには何の情報も」
「シャットアウトしてもらった。知ってンのは京楽さんと零番隊くらいじゃねーのかな」
 浦原は頭を掻きむしりたくなるのを堪え、耳を傾けることに集中する。今は一護の話を聞くことを優先すべきだろう。
「後悔や心残りをなるべくひとつでも多く減らせるようにって俺に与えられた猶予期間は三年。もうちょっと早く言ってくれりゃ、大学にも行かなかったのにな。もったいねえ。ま、仕方ねえから大学に通いながら、いろんなとこに行ったよ。ひとりで行ったり、斬月たちと過ごしたり、ダチとか家族と過ごしたりさ」
 ちゃぷ、ちゃぷ、と足湯のなかで子どものように足を揺らして、一護は睫毛を伏せる。お湯の反射が頬をまだらに染めて、そのひとすじが涙のように見えた。
「もう散々苦しんで、悩んで、斬月たちもずぶ濡れにしちまったけど、未来がないからって塞ぎ込むんじゃなくて今を大事に生きてたい。そんで、やっぱり思ったんだ。みんながいるこの世界がなくなんのは嫌だなーって。それを何とかできるのが俺しかいないなら、逃げるわけにはいかねえだろ?」
 すぐ隣にいるはずなのに、とても遠く感じる。手を伸ばしても届かない星に、本当になってしまうのだと。浦原には一護にかけることばがない。霊王は世界の楔だと、それは仕方のないことだと話してしまった自分には、何も。
「……アタシは何をすればいいんです?」
「家族とか周りにはしばらく世界中を旅しようと思ってるって伝えてんだ。アンタにはその嘘をほんとうにしてほしい。いろんな旅先からハガキを送って、黒崎一護は生きてるって偽装してほしいんだ」 
「……バレたら殺されるかも」
「そんときは共犯者だって言えよ」
「いい響きだなァ。でも、最後の日がアタシと足湯でよかったんスか?」
 足を湯船から上げた一護は鞄から取り出したタオルで足を拭きながら、呆れた顔で立てた膝に頬を懐かせた。
「アンタはすこしもわかってねえな」
「へ?」
「最初にキスされたとき、しばらく引きずってたんだぜ。会いに行く口実に土産を買って行こうってずるいことを考えるくらいには。あと、その服似合っててちょっとムカつく」
 手渡されたタオルでおなじように足を拭いて、浦原は靴下を履いた。慣れないローファーに足を突っ込んで、冷たいままの手を引いた。
「アナタを、迎えに行ってもいいですか」
「……俺にとってのアンタは、誰も代わりになれやしないんだ。アンタがそう言うなら、いくらあり得ないことでも、浦原さんを信じるよ」





 夜の高速道路を初心者マークをつけたままのワゴン車は走り抜ける。助手席にはすうすうと寝息を立てる一護がしずかな呼吸で眠っていた。おだやかで、いとけない寝顔だった。とても三界をつなぎ止める楔には思えないほど。
「このまま、連れ去ってしまえたらいいのに」
 できもしないことを、と自嘲する。バックミラー越しに見た自分の顔は幽鬼じみていた。世界とひとりの子どもを天秤にかけることすらできない男の、ただの負け惜しみだった。

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